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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第51話 日本ダービー・後編

 ◇ 望視点


 前扉が開いた。


 鉄の音が、後ろへ飛ぶ。


 美浦の指先が動いた。


 行け。


 でも、全部ではない。


 一完歩目。


 五月の芝が浅く沈み、蹄に反発を返す。


 二完歩目。


 身体が浮きすぎない。


 三完歩目。


 外から一頭が前へ出ようとした。


 行ける。


 今なら、その前へ入れる。


 皐月賞の俺なら、ここで脚を使っていた。


 だが、美浦の手綱は静かだった。


 俺は首を下げる。


 前へ出たがる肩を、腹の下へ戻す。


 前の馬を見送った。


 怖くない。


 置いていかれたわけじゃない。


 待っているだけだ。


 グランレグルスは斜め前にいる。


 黒い背中。

 揺れない首。

 乱れない息。


 強い。


 やっぱり強い。


 でも、今日は追いかけない。


 向こう正面。


 横風がたてがみを押した。


 美浦の重心が、少しだけ沈む。


 動きたいのか。


 違う。


 堪えている。


 俺と同じだ。


 前の馬の尾が近い。


 馬群の息が熱い。

 横の馬が首を振る。

 芝片と土が、腹の下へ飛ぶ。


 ここじゃない。


 俺は肺に息を残した。


 右前に痛みはない。


 左後ろも踏めている。


 心臓は速い。

 でも、まだ割れていない。


 第4コーナーへ向かう。


 外から一頭が動いた。


 周りの息が乱れる。


 美浦の指先に、熱が乗った。


 行きたい。


 俺も行きたい。


 グランレグルスの背中が、少し遠く見えた。


 皐月賞の直線が、胸に刺さる。


 届かなかった一完歩。


 今、取りに行け。


 身体がそう叫ぶ。


 違う。


 まだだ。


 俺はハミを深く受けた。


 美浦の手綱は、震えなかった。


 それで十分だった。


 俺たちは、まだ待つ。


 コーナー。


 遠心力が外へ引く。


 外へ膨らめば楽だ。


 でも、それでは脚を使う。


 俺は内側の後ろ脚で地面を掴んだ。


 背中を沈める。


 首を使いすぎるな。


 肩を前へ投げるな。


 直線へ、体を残す。


 視界が開けた。


 東京の直線。


 長い。


 前で、グランレグルスが動いた。


 初めて、あの馬の肩が大きく沈んだ。


 美浦の指先が変わる。


 まだ鞭ではない。


 でも、もう逃がさない。


 ここだ。


 俺は地面を蹴った。


 一完歩目で、前の馬の息が後ろへ流れる。


 二完歩目で、横の馬の気配が消える。


 三完歩目で、グランレグルスの背中が近づいた。


 歓声が割れた。


 聞くな。


 芝の反発を拾え。


 手綱を受けろ。


 自分の息だけを数えろ。


 グランレグルスは止まっていない。


 まだ伸びている。


 黒い背中が、前にある。


 皐月賞と同じだ。


 でも、俺は同じじゃない。


 あの時より、半完歩だけ待った。


 あの時より、息が残っている。


 あの時より、美浦の手綱と合っている。


 並ぶ。


 グランレグルスの首が横に来た。


 相手の息が聞こえる。


 荒れていない。


 まだ強い。


 だから、ここで全部出す。


 俺は首を伸ばした。


 右前を置く。


 左後ろで押す。


 背中を沈める。


 もう一完歩。


 皐月賞で足りなかった、一完歩。


 今度は、届く。


 グランレグルスの鼻先が、少し後ろへ下がった。


 白いゴール板が来る。


 美浦の身体が前へ沈む。


 俺は最後の一歩を置いた。


 白い板が、視界の端を通り過ぎた。


 終わった。


 勝ったのか。


 まだ分からない。


 でも、右前はある。


 左後ろも踏める。


 俺は走り抜けたあと、歩様を乱さなかった。


 美浦が手綱を抑える。


 俺は止まる。


 止まれる。


 帰れる。


 背中の上で、美浦の息が堰を切ったように漏れた。


「……届いた」


 小さな声だった。


 俺は耳だけを後ろへ動かした。


 届いた。


 あの春の日、届かなかった一完歩が、今、届いた。


 ◇ 鈴鹿視点


 鈴鹿は、声が出なかった。


 直線でノゾミノカゼが外へ出た時、叫ぼうとした。


 でも、喉が動かなかった。


 春江の手作り旗が、隣でくしゃりと歪む。


 母の指が、棒を白くなるほど握っていた。


 宗一郎は帽子を胸に当てたまま動かない。


 最後の一完歩。


 グランレグルスの鼻先。

 ノゾミノカゼの鼻先。

 白いゴール板。


 掲示板の数字が変わるまで、鈴鹿は息をしていなかった。


 一着。


 ノゾミノカゼ。


 その文字を見た瞬間、周りの音が戻ってきた。


 歓声。


 誰かの泣き声。


 春江が旗を握ったまま、膝を折りかける。


 鈴鹿は母の腕を掴んだ。


「母さん」


 春江は返事をしなかった。


 ただ、旗を胸に押しつけていた。


 宗一郎の手から、帽子が少しずれた。


 父は泣いていない。


 でも、帽子の縁を握る指が白い。


「望」


 宗一郎が、かすれた声で言った。


 鈴鹿は父を見た。


 宗一郎は掲示板を見ていた。


「……見たか」


 誰に向けた言葉か、分からなかった。


 鈴鹿はノートを抱きしめる。


 勝った。


 ダービーを勝った。


 でも、目はすぐにコースへ戻った。


 ノゾミノカゼは、歩いていた。


 脚を引きずっていない。


 首も下がりすぎていない。


 一歩、また一歩。


 歩いている。


 帰ってくる。


 鈴鹿は、ようやく息を吸った。


「勝った……」


 声が震えた。


 そのあと、もう一度言った。


「無事に、帰ってくる」


 ◇ 望視点


 ウイニングランという言葉を、俺は知っている。


 でも、今は先に確かめる。


 右前。


 痛みはない。


 左後ろ。


 踏める。


 肺は熱い。


 心臓は暴れている。


 でも、壊れていない。


 美浦の手が、俺の首を叩いた。


 一度。


 二度。


 途中で、その手が止まる。


「……ありがとう」


 美浦の声が落ちてきた。


 俺は耳だけを動かした。


 礼はいらない。


 勝たせるために乗ったんだろう。


 でも。


 今日、お前も待った。


 俺も待った。


 だから届いた。


 スタンドの方から、大きな声が降ってくる。


 その中に、鈴鹿の声があったかは分からない。


 でも、あの白い旗は見えた。


 青い糸の馬。

 少し曲がった旗。


 春江の指で、形が崩れていた。


 父さんの帽子も見えた気がした。


 鈴鹿はノートを抱いていた。


 俺は鼻を鳴らした。


 勝ったぞ。


 日本ダービーを勝った。


 風見牧場の馬が、東京で勝った。


 でも、まだ終わりじゃない。


 検量室へ戻る。


 馬房へ戻る。


 水を飲む。


 飼葉を食べる。


 脚を冷やす。


 鈴鹿たちのところへ、無事に帰る。


 無事に帰るまでが、俺のレースだ。


 俺は歩いた。


 歓声の中を、一歩ずつ歩いて戻った。


 右前が地面を踏む。


 左後ろが押す。


 俺は、帰っていた。

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