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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第50話 日本ダービー・前編

 ◇ 客観視点


 東京競馬場の朝は、音が多かった。


 新聞を折る音。

 カメラのシャッター。

 スタンドを埋める人の声。


 その中で、風見春江は鞄の底から一枚の布を取り出した。


 白い木綿に、青い糸で馬の形が縫ってある。


 売店の旗より小さい。

 形も少し歪んでいた。


「母さん、それ……作ったの?」


 鈴鹿が目を丸くする。


 春江は布の端を指で伸ばした。


「買うと、高いからね」


「昨日の夜?」


「早く寝るとね、余計なことばかり考えるでしょう」


 春江は娘から視線を逸らした。


 旗の裏には、小さな糸の玉がいくつもあった。

 一箇所だけ、針で刺したような薄い赤い点が残っている。


 鈴鹿は笑いかけて、口を閉じた。


 宗一郎は少し離れて立っていた。


 いつもなら杖を握る手で、今日は古びた帽子の縁を握っている。


「派手さのない旗だな」


 春江が旗を畳みかける。


「出さない方がいいかしら」


「いや」


 宗一郎は首を振った。


「風見の馬には、それくらいがちょうどいい」


 鈴鹿は胸に抱えた大学ノートを見た。


 運動生理学。

 疲労。

 回復。

 ピーク。


 余白に、自分の字が残っている。


 勝つために、全部を使わせない。


 鈴鹿はそのページを開いたまま、胸に抱き直した。


 ◇ 望視点


 パドックの土を踏む。


 蹄の先が少し沈む。

 すぐに反発が返ってくる。


 悪くない。


 だが、耳に入る声が多すぎた。


 新馬戦とも、ホープフルとも、皐月賞とも違う。


 声が重なる。

 皮膚が細かく震える。

 首が上がりかけた。


 その瞬間、曳き手が少しだけ近づいた。


 ハミを通じて、手の温度が伝わる。


 大丈夫だ。


 そう言われた気がした。


 俺は鼻から息を抜いた。


 今日は、ここで無駄な脚を使わない。


 首を高く上げるな。

 歩幅を広げすぎるな。

 肩の力を前脚に落とすな。


 前から、グランレグルスが来た。


 黒鹿毛の首が低い。

 目が動かない。

 人の声に乱されていない。


 完成している。


 相変わらず、きれいな馬だ。


 皐月賞で届かなかった背中。


 胸の奥が熱くなる。


 行くな。


 ここは直線じゃない。


 俺は鼻先を下げた。


 見すぎるな。


 人垣の向こうに、白い布が揺れた。


 不格好な、青い糸の馬。


 その横に、鈴鹿がいた。


 袖を握っていない。

 代わりに、大学ノートを胸に抱えている。


 俺が守らなきゃいけないと思っていた妹は、もうそこにいない。


 鈴鹿は、自分の足でここまで来た。


 俺は首を振らなかった。

 鳴きもしなかった。


 ただ、歩幅を崩さずに鈴鹿の前を通った。


 鈴鹿のために走る。

 だから、鈴鹿を見て焦らない。


 ◇ 鈴鹿視点


 ノゾミノカゼが、目の前を通り過ぎていく。


 鈴鹿は震えそうな右手を、ノートの表紙に押しつけた。

 爪の跡が少し残る。


「今日は……」


 言いかけて、飲み込んだ。


 春江は旗を掲げている。

 宗一郎は帽子を胸に当てたまま黙っていた。


 ノゾミノカゼの目が、一瞬だけこちらを捉えた。


 確かに目が合った。


 でも、寄ってこない。

 首を上げない。

 歩幅も変えない。


 皐月賞の時とは違う。


 あの時は、走る前から体が前へ前へと急いでいた。


 今日は違う。


 目の奥に火はある。

 でも、脚がばらけていない。


「母さん」


「うん」


「今日のノゾ……怖くない」


 春江は旗の棒を握り直した。


「そう」


 それだけだった。


 でも、小さな旗の先が震えていた。


 宗一郎が低く言った。


「望なら、ああいう馬を一番に褒めた」


 鈴鹿は父を見る。


 宗一郎の目は、ノゾミノカゼの後ろ姿から動かない。


「走る前に勝とうとしない馬だ。……あれでいい」


 鈴鹿はノートを強く抱いた。


 兄さん。

 今日のノゾを見せたかった。


 そう思って、すぐ唇を噛んだ。


 違う。


 ノゾは兄の身代わりじゃない。

 ノゾミノカゼという、一頭の馬だ。


 それでも、この姿を兄に見せたかった。


 ◇ 客観視点


 装鞍所の前で、朝倉は美浦を呼び止めた。


 美浦はヘルメットのあご紐を確かめている。

 指先が少し硬い。


「美浦。皐月賞の悔しさを忘れるな」


「はい」


「だが、引きずるな」


 美浦が顔を上げる。


 朝倉はノゾミノカゼの背中を見ていた。


「あの馬は今、我慢している。お前が先に焦れば、全部崩れる」


「グランレグルスが動いてもですか」


「見るなとは言わん。だが、追いかけるな」


 美浦は唇を結んだ。


「勝ちに行くな、ということですか」


「違う」


 朝倉はすぐ返した。


「勝つ場所まで、あの馬を静かに連れていけ。それが騎手の仕事だ」


 美浦は小さく息を吸った。


 手綱を受け取る時、指から少し力が抜ける。


「分かりました」


「分かったような顔だけするなよ」


「……手厳しいですね」


 朝倉の口元が、わずかに動いた。


「今日は、馬の方が一枚上だ。お前より落ち着いている」


 美浦は苦く笑った。


「騎手としては悔しいですね」


「なら、背中の上で追いつけ」


 ◇ 望視点


 美浦が背に収まった。


 鞍の重み。

 腹帯の締まり。

 鐙が脇腹に触れる冷たさ。


 全部が、体の上に乗っていく。


 馬道を進む。


 本馬場に出た瞬間、芝の匂いが近くなった。


 東京の芝。


 広い。

 長い。

 皐月賞の中山とは、脚の置き場が違う。


 人間だった頃、何度も見た場所だ。

 だが、スタンドから見るのと、蹄で踏むのでは違う。


 どこまでも走れそうに見える。


 だから怖い。


 どこまでも走れると思った馬から、最後に止まる。


 美浦の手綱は柔らかかった。


 引っ張らない。

 急かさない。


 俺は首を少し下げ、返し馬に移る。


 一完歩。


 まだ余る。


 二完歩。


 もっと行ける。


 でも、そこまでだ。


 美浦が引くより先に、俺は歩調を緩めた。


 右前を確かめる。


 違和感はない。


 左後ろも悪くない。

 踏み込みに力がある。


 向こうで、グランレグルスが流している。


 首が低い。

 背中が揺れない。

 余計な力を使っていない。


 強い。


 今日も強い。


 だから、今すぐ牙を剥くな。


 スタンドから、俺の名前が聞こえた。


 でも、その声に脚を渡さない。


 今日、受け取るのは美浦の指先と、自分の息だけだ。


 ゲート裏へ向かう。


 鉄の匂い。

 他馬の荒い鼻息。

 尻尾を振る音。


 美浦のふくらはぎは、俺の腹を急かさない。


 縛られているのではない。


 一緒に待っている。


 そう思えた。


 係員に導かれ、ゲートへ入る。


 バタン、と後ろの扉が閉まった。


 狭い。


 だが、怖くはない。


 鈴鹿のノート。

 春江が夜に縫った、青い馬の旗。

 父さんが胸に当てていた古びた帽子。


 皐月賞の直線。

 グランレグルスの背中。


 全部、胸の奥にある。


 でも、脚には出さない。


 まだだ。


 隣のゲートで、馬が鉄板を蹴った。


 ガチャン、と金属音が腹の下に響く。


 俺の前脚は動かなかった。


 美浦の指も、静かなままだ。


「よし、全馬収まります。体制完了」


 係員の声が遠ざかる。


 正面の扉の向こうに、東京の長い芝がある。


 俺は鼻から細く息を抜いた。


 ゲートが開く前の一瞬、耳には自分の息だけが残った。

 手綱の先で、美浦の指先が静かだった。


 今度は、走る前に勝とうとしない。


 あの直線の果てで、最後に抜く。

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