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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第49話 ダービーへ向かう風

 ◇ 望視点


 朝の坂路は、まだ白かった。


 霧ではない。

 馬の息と、土の湿り気が、低いところに残っている。


 俺は首を下げた。


 前の馬の尻が近い。


 抜ける。


 今なら抜ける。


 美浦の手綱が、軽く張った。


 行くな。


 分かっている。


 それでも、皐月賞の直線が体の奥に残っていた。


 あと一完歩。


 あの一完歩があれば、勝てた。

 鈴鹿に、勝った顔を見せられた。


「我慢しろ」


 朝倉さんの声が飛ぶ。


 短い声だった。


「勝ちたいなら、今日は我慢しろ」


 勝ちたい。


 耳が勝手に動いた。


 勝ちたいに決まっている。


 負けたあと、鈴鹿は泣かなかった。

 袖を握って、画面の中の俺の脚元ばかり見ていた。


 最初に出た言葉は、たぶん「歩けてる」だった。


 違う。


 俺はあいつに「勝った」と言わせたい。


 でも、皐月賞で分かった。


 勝ちたいだけで前へ出たら、最後に届かない。


 美浦の重心が、少し沈む。


 手綱が戻る。


 前へ行きたがる首を、俺は飲み込んだ。


 一完歩。


 半完歩。


 前へ出たい脚を、腹の下へ畳む。


 苦しい。


 走るより、待つ方が苦しい。


 合図は、まだ来ない。


 なら、待つ。


 勝つために、待つ。


 ◇ 客観視点


 坂路の下で、朝倉はストップウォッチを止めた。


 数字だけ見れば、派手ではない。


 皐月賞二着馬の追い切りとしては、物足りないと言う者もいるだろう。


 だが、朝倉は時計より先に、ノゾミノカゼの首を見た。


 前へ行きたがっていた。


 それでも、途中で飲み込んだ。


 美浦が力で止めたのではない。

 馬が、自分で止めた。


「どうですか」


 美浦が聞いた。


 手綱を握る指に、白い跡が残っている。


 朝倉は調教時計の紙を折った。


「速くはない」


 美浦の口が結ばれる。


「だが、今日は速くする日じゃない」


「……はい」


「皐月賞で負けたのは、脚がなかったからだけじゃない。お前も、馬も、勝ちに行くのが少し早かった」


 美浦は返事をしない。


 ノゾミノカゼの首筋を撫でる手だけが動いた。


 朝倉は坂路を見上げる。


「もう一本、流す。時計はいらない」


「追わないんですね」


「追うな。見るんだ」


 朝倉はストップウォッチをポケットにしまった。


「合図まで待てるか。それだけを見る一本だ」


 美浦が小さく息を吐く。


「待たせる、じゃないんですね」


「違う」


 朝倉は即座に返した。


「勝つ場所まで、連れていくんだ」


 ◇ 鈴鹿視点


 講義室の机は、少し狭かった。


 前の席の学生が椅子を引く音が、黒板のチョーク音にかぶる。


 鈴鹿はノートに日付を書いた。


 運動生理学。


 疲労。

 回復。

 ピーク。


「運動能力は、常に最大出力を出せば上がるものではありません」


 教授の声は淡々としていた。


「負荷と回復の間に、適切な時間を置く必要があります」


 鈴鹿のシャープペンが止まる。


 最大出力。


 常に。


 皐月賞の直線が浮かんだ。


 ノゾミノカゼは、きれいだった。

 でも怖かった。


 伸びるというより、全部を前へ投げ出していた。


 鈴鹿はノートの端に書いた。


 全部のレースで勝とうとしない。


 書いてから、指が止まった。


 違う。


 ノゾは勝ちたい。


 兄さんなら、たぶんそう言う。

 勝たなくていいなんて、言わない。


 鈴鹿は、その下にもう一行足した。


 勝つために、全部を使わない。


 隣の学生がちらりと見る。


「競馬?」


 鈴鹿はノートを少し寄せた。


「うん。家の馬」


「ダービー出るんだっけ。すごいじゃん」


 すごい。


 その言葉に、すぐ頷けなかった。


 鈴鹿はノートの角を指で押さえた。

 紙が少し曲がる。


「……帰ってきたら、すごい」


 隣の学生は笑いかけて、途中でやめた。


 ◇ 望視点


 二本目、人間たちは数字の話をしなかった。


 俺に入ってくるのは、美浦の重心と、手綱の張りだけだった。


 前の馬との距離。

 坂路の土の重さ。

 肺の奥に残る息。


 行ける。


 今なら、もっと行ける。


 グランレグルスの背中が浮かぶ。


 ホープフルでも、皐月賞でも、あの背中は前にあった。


 今度は差す。


 東京の長い直線で、必ず抜く。


 そのために、ここで行かない。


 美浦の指が動いた。


 今度は、本当の合図だった。


 俺は首を下げる。


 一完歩目を置く。

 二完歩目で、背中を伸ばす。

 三完歩目で、前の馬の横へ出る。


 もっと行ける。


 だが、手綱が少し戻った。


 終わり。


 俺は鼻を鳴らした。


 足りない。


 もっと走れる。


 それでも、脚を止めた。


 止めたあとで、右前を確かめる。


 痛みはない。

 息は上がっている。

 でも、壊れていない。


 美浦の手が、首を二度叩いた。


「よし」


 褒められたいわけじゃない。


 勝ちたい。


 だが、勝つために褒められるなら、今は受け取っておく。


 ◇ 鈴鹿視点


 夜、鈴鹿はスマホを持ったまま、牧場の台所に立っていた。


 春江はテーブルの端で、封筒を三つに分けている。


 大学の資料。

 牧場の請求書。

 ノゾミノカゼの記事。


 本当は一緒に置くものではない。


 でも、風見家の台所では、全部同じテーブルに乗る。


「電話、するの?」


 春江が聞いた。


「うん。短く」


「短くで済む?」


 鈴鹿は返事に詰まった。


 春江は請求書の封筒を裏返した。

 金額が見えなくなる。


「済まないなら、済まないでいいわ」


 鈴鹿は通話ボタンを押した。


 向こうから、厩舎の音が入る。


 人の足音。

 バケツを置く音。

 少し遅れて、鼻を鳴らす音。


「ノゾ?」


 スタッフの声が聞こえた。


「耳、動いてます。少しだけ近づけますね」


 鼻息が近くなる。


 鈴鹿はスマホを握り直した。


 言いたいことはいくつもあった。


 勝って。

 グランレグルスを抜いて。

 風見牧場を、もう一度前に出して。


 でも、口から出たのは違った。


「ダービーで勝ってほしい」


 春江の手が止まる。


「でも、皐月賞の顔で走らないで」


 向こうの音が、少しだけ止まった。


「勝ってほしいよ。すごく。たぶん、誰よりも」


 鈴鹿はノートを開いた。


 講義中に書いた文字がある。


 勝つために、全部を使わない。


「でも、ちゃんと帰ってくる勝ち方をして」


 声が少し掠れた。


「兄さんなら、たぶん怒ると思う。全部出すなって。最後に帰ってこいって」


 言ってから、唇を噛んだ。


 また兄の名前を出した。


 でも、消せない。


 ノゾミノカゼを見ると、どうしてもそこへ戻ってしまう。


 電話の向こうで、蹄が床を軽く打った。


 一回だけ。


 春江が小さく言う。


「返事?」


 鈴鹿はスマホを耳に当てたまま、頷いた。


「うん。たぶん」


 ◇ 望視点


 鈴鹿の声が、夜の厩舎に落ちた。


 皐月賞の顔で走らないで。


 見られていた。


 あの時の俺を。


 画面越しでも、鈴鹿には分かっていた。


 勝ちたいだけの顔。


 帰ることを、少し忘れた顔。


 俺は飼葉桶に鼻を下げた。


 食べる。


 食べなければ、回復しない。

 回復しなければ、ダービーで勝てない。


 硬い粒を噛む。


 飲み込む。


 また噛む。


 飼葉桶を空にできない馬に、ダービーは来ない。


 勝つ。


 でも、帰る。


 鈴鹿に「歩けてる」と言わせるだけでは足りない。


 「勝った」と言わせる。


 そのあとで、ちゃんと「帰ってきた」と言わせる。


 翌朝、厩舎の壁に輸送予定表が貼られた。


 スタッフが紙を指で押さえ、声に出して確認する。


「東京優駿。……日本ダービーだな」


 その音で、俺の耳が前を向いた。


 待つ。


 待って、勝つ。


 そして帰る。

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