第48話 勝てなかった理由
◇ 望視点
飼葉桶の前で、鼻が止まった。
皐月賞のあとも、匂いは分かる。
燕麦。
乾草。
水桶の縁。
馬房の敷料。
食べられる。
脚も壊れていない。
左前は痛くない。
右前も置ける。
でも、口がすぐには動かなかった。
グランレグルスの首が、まだ目の奥に残っている。
並びかけた。
いや、並べなかった。
最後の一完歩で、向こうはまだ沈めた。
俺はもう、沈めるだけの余りがなかった。
原因は分かっている。
最初の半完歩。
向こう正面の半呼吸。
三コーナーの半手。
美浦さんだけじゃない。
俺も、前へ行った。
勝ちたかった。
勝って、鈴鹿のノートから二着の字を消したかった。
でも、その気持ちが最後の一完歩を削った。
俺は飼葉桶へ鼻を寄せた。
一口。
まだ噛まない。
馬房の外で、美浦さんの足音が止まった。
「ノゾ」
声が低い。
「映像、見てくる」
俺は耳を動かした。
「ちゃんと、見てくる」
その言い方で分かった。
謝りに来たんじゃない。
逃げないために、見に行く声だった。
◇ 客観視点
調教室の画面に、皐月賞のスタートが映っていた。
朝倉隼人はリモコンを持ったまま、再生を止めた。
「ここ」
画面の中で、ノゾミノカゼは好スタートを切っている。
悪くない。
むしろ、いい。
美浦駿は画面を見たまま、膝の上で手を握っていた。
「出しすぎました」
「出しすぎてはいない」
朝倉はすぐに否定した。
「ここで完全に出していたら、もっと早く終わっている」
美浦の喉が動いた。
「じゃあ」
「半分だ」
朝倉は、一コーナー手前で映像を止める。
ノゾミノカゼの首が、ほんの少し前へ出ている。
美浦の手は、大きく動いていない。
ただ、止めきってもいない。
「半完歩、馬が欲しがった。お前が半分許した」
美浦は何も言わなかった。
次に、向こう正面。
朝倉はまた止める。
「ここ」
グランレグルスは前にいる。
だが、首を使っていない。
背中も大きく揺れていない。
ノゾミノカゼは近い。
近いが、首の付け根に少し力がある。
「ここで息を入れ切れていない」
「俺が見ました。グランレグルスを」
「馬も見た」
朝倉の声は責めていなかった。
だから、余計に逃げられなかった。
「お前だけが見たなら、手で戻せる。馬だけが見たなら、扶助で待たせられる。だが、二人で見た」
美浦の指が、手のひらに食い込む。
「……はい」
映像は三コーナーへ進む。
外から一頭が動く。
美浦の手が、ほんの少し反応する。
ノゾミノカゼの肩も、ほんの少し前へ出る。
「ここで半手」
朝倉は言った。
「この三つを足して、直線の一完歩が消えた」
画面の中で、ノゾミノカゼは伸びている。
弱い馬の負け方ではない。
それでも、グランレグルスは最後まで残している。
美浦は、画面から目を逸らさなかった。
「先生」
「何だ」
「俺、ノゾに謝りました」
「謝るだけなら、誰でもできる」
美浦の肩が止まる。
朝倉は映像を巻き戻した。
「次にやることは、謝ることじゃない。待つことだ」
◇ 鈴鹿視点
大学の講義室で、私はスマホを伏せていた。
皐月賞の映像は、まだ見直せない。
見たら、また息が止まる。
でも、見ないと分からない。
ノートの端には、昨日の字が残っている。
『道中、半歩早い』
『勝ちたい顔で走った』
『脚、大きな乱れなし』
その下に、新しい行を書く。
『誰のせいにしない』
ペン先が止まった。
美浦さんのせい。
そう言えば、少し楽かもしれない。
ノゾが頑張ったのに、騎手が早かった。
そう思えば、悔しさの置き場所ができる。
でも、違う。
ノゾも、勝ちたい顔で走っていた。
私はそれを見た。
私はスマホを手に取った。
朝倉先生から、短い報告が届いている。
『映像確認済み』
『一コーナー半完歩』
『向こう正面半呼吸』
『三コーナー半手』
『馬・騎手ともに修正必要』
私はその文字を見て、息を吐いた。
馬だけじゃない。
騎手だけじゃない。
両方だ。
だから、次も一緒に直せる。
メッセージを打つ。
『美浦さんだけのせいにしないでください』
『ノゾも勝ちたい顔でした』
『でも、脚は無事でよかったです』
『次は、待って勝ってほしいです』
最後の一文を打って、少し迷った。
強い言い方かもしれない。
でも、送った。
すぐに既読はつかなかった。
私はノートに、もう一行書いた。
『待つことも、勝ちに行くこと』
◇ 客観視点
調教室の机に、美浦のスマホが震えた。
美浦は画面を見た。
鈴鹿からのメッセージ。
朝倉は何も言わない。
美浦は読み終えて、しばらく動かなかった。
「先生」
「何だ」
「鈴鹿さんにまで、見られてます」
「見られて困ることをするな」
「はい」
美浦はスマホを伏せた。
「俺だけのせいじゃないって、書いてあります」
「そうだな」
「でも、だから楽になるわけじゃないです」
「楽になったら困る」
朝倉は映像を、またスタートに戻した。
「もう一回見る」
「はい」
「次は、お前の手じゃない。馬の首を見る」
美浦は椅子へ座り直した。
画面の中で、ゲートが開く。
ノゾミノカゼの首が、半完歩だけ前へ出る。
美浦は言った。
「……ここで、もう耳が前ですね」
「そうだ」
「俺、手ばかり見てました」
「だから次は、耳を見る」
映像が進む。
向こう正面。
「ここで、息を入れたいのに、首が戻りきってない」
「分かるか」
「分かります」
「なら、次は戻せ」
美浦は頷いた。
手のひらには、まだ爪の跡が残っている。
でも、今度は握り込まなかった。
開いた手で、手綱を持つ形を作った。
◇ 望視点
夜、鈴鹿の声を聞いた。
「ノゾ」
俺は飼葉桶の前で耳を向けた。
「映像、見たって。朝倉先生から聞いた」
知っている。
美浦さんの足音が、夕方から少し変わった。
重いけれど、逃げていない足音だった。
「美浦さんだけのせいじゃないって、送った」
俺は鼻を鳴らした。
短く。
「ノゾも、勝ちたい顔だったから」
その通りだ。
俺は勝ちたかった。
あの時、待てなかった。
「でも、勝ちたいのは悪くないよ」
鈴鹿の声が少しだけ柔らかくなる。
「勝ってほしいもん。私だって。母さんも、父さんも、たぶんクラウンメアも」
クラウンメア母さんは、たぶん言う。
勝った?
戻った?
食べろ。
その順番だ。
「でも、次は待って」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「待って、勝って」
俺は飼葉桶へ鼻を寄せた。
一口。
噛む。
皐月賞の最後の一完歩が、まだ喉の奥に残っている。
でも、飲み込む。
美浦さんが馬房の前に立っていた。
「ノゾ」
手綱を持っていない手が、柵の上で止まっている。
「次は、俺が先に行かない」
俺は耳を向けた。
「だから、お前も先に行くな」
それは命令ではなかった。
約束だった。
俺は鼻を柵へ寄せた。
美浦さんの指が、少しだけ震えた。
「次は、待つ」
俺は鼻を鳴らした。
短く。
待つ。
鈴鹿に二着と書かせないために。
春江さんの電話メモを減らすために。
宗一郎さんに帽子を胸へ当てさせるために。
クラウンメア母さんに、勝った、と言うために。
今度は、待つ。
飼葉をもう一口噛んだ。
皐月賞の悔しさは消えない。
消えないまま、喉を通っていった。




