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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第47話 皐月賞・後編

 ◇ 望視点


 ゲートの中で、息を入れた。


 一つ。


 二つ。


 金属の匂い。

 隣の馬の鼻息。

 美浦さんの膝の熱。


 前を見る。


 グランレグルスは、少し離れた枠にいる。


 直接は見えない。


 でも、いる。


 あの背中が、この先にいる。


 扉が開いた。


 出る。


 一完歩目。


 悪くない。


 二完歩目。


 体が前へ行く。


 美浦さんの手が、ほんの少しだけ動いた。


 位置を取りたい。


 分かる。


 俺も取りたい。


 一コーナーまでに、前を取れば楽になる。

 グランレグルスを外から見られる。

 包まれずに済む。


 でも、朝倉先生の声が残っている。


 一コーナーまでに勝とうとするな。


 分かっている。


 分かっているのに、俺は半完歩だけ前へ出た。


 美浦さんの指も、半分だけ許した。


 その半分が、体の奥に残った。


 ◇ 鈴鹿視点


 スタートは悪くなかった。


 むしろ、よかった。


 よすぎた。


 ノゾの首が、一瞬だけ前へ出る。


「今」


 私は声に出していた。


 父さんが隣で帽子を握る。


「早いか」


「半分」


 母さんが息を止めた。


「半分?」


「完全には行ってない。でも、待ち切ってもない」


 私はノートを開きかけて、やめた。


 今は書かない。


 見る。


 ノゾは悪くない位置にいる。


 美浦さんも暴走していない。


 でも、グランレグルスはその前で、もっと楽に走っていた。


 首が揺れない。


 手綱も大きく動かない。


 あの馬は、前にいるのに削れていない。


 ノゾは、前を見るだけで少し削れている。


 私は袖口を握りかけた。


 やめた。


 代わりに、柵の縁を指で押さえた。


 白くなるまで。


 ◇ 望視点


 一コーナーを回る。


 内に馬がいる。

 外にも馬がいる。


 中山のコーナーは、体が外へ逃げる。


 左前を置く。


 痛くない。


 でも、少し深い。


 美浦さんの体が、俺を支えようとする。


 まだ合っている。


 合っているのに、息が浅い。


 向こう正面。


 風が横から入る。


 ここで息を入れたい。


 首を下げる。


 ひとつ、吸う。


 前を見るな。


 そう思う。


 でも、見てしまう。


 グランレグルスの尾が揺れる。


 遠すぎない。


 届く距離だ。


 ホープフルSの時より、近い。


 今なら。


 今なら届く。


 美浦さんの手が少し締まった。


 俺の肩も、少し前へ出た。


 違う。


 まだだ。


 でも、もう体が知ってしまっている。


 勝ちたい。


 鈴鹿に、今日は二着を書かせたくない。


 三コーナー。


 外から一頭が動いた。


 その蹄音に、背中が反応する。


 美浦さんの指が動く。


 ほんの少し。


 俺も応える。


 ほんの少し。


 その少しで、息がまた浅くなった。


 ◇ 客観視点


 朝倉隼人は、モニターを見ながら口を開かなかった。


 悪い競馬ではない。


 位置も悪くない。

 折り合いも、完全に崩れてはいない。

 美浦駿も暴走していない。


 ただ、早い。


 一コーナーで半完歩。

 向こう正面で半呼吸。

 三コーナーで半手。


 目立つ失敗ではない。


 だからこそ、直線で効く。


 朝倉の横で、厩舎スタッフが言った。


「いけますか」


 朝倉は画面から目を離さない。


「いける」


 短く答えてから、続けた。


「勝つには、少し早い」


 ◇ 望視点


 四コーナー。


 グランレグルスが動いた。


 大きく動いたわけじゃない。


 騎手の手も派手には動いていない。


 でも、馬体が沈む。


 後ろ脚が地面を押す。


 あの馬は、ここまで脚を残していた。


 美浦さんの手が動く。


 今だ。


 俺もそう思った。


 首を伸ばす。


 外へ出る。


 芝をつかむ。


 前の馬をかわす。


 もう一頭。


 グランレグルスの背中が見える。


 近い。


 ホープフルSより近い。


 尾が近づく。

 肩が近づく。


 坂が来る。


 胸に重さが乗った。


 ここで踏め。


 俺は右前を出す。


 左前を返す。


 痛くない。


 行ける。


 美浦さんの声が落ちてくる。


「ノゾ!」


 行く。


 行く。


 勝つ。


 鈴鹿。


 春江さん。


 宗一郎さん。


 母さん。


 今日は勝って帰る。


 グランレグルスの鞍が、横に来た。


 一瞬、並んだ。


 いや。


 並びかけた。


 その瞬間、向こうの首がもう一段低くなった。


 まだ残していた。


 俺は残していない。


 最後の一完歩。


 鼻を出す。


 届かない。


 ゴール板の影が過ぎた。


 前に、また一頭いた。


 ◇ 鈴鹿視点


 二着。


 掲示板に数字が灯った瞬間、喉が詰まった。


 また。


 また、届かなかった。


 でも、私は掲示板を見続けなかった。


 戻ってくるノゾを見る。


 左前。


 一歩。


 二歩。


 右前。


 置けている。


 首は高い。

 息も荒い。

 汗も濃い。


 でも、引きずっていない。


「歩けてる」


 言った瞬間、悔しさが遅れてきた。


 唇を噛んだ。


 痛い。


 父さんが低く言った。


「負けたな」


「うん」


「戻ってくる。見ろ」


「うん」


 母さんは、口元を押さえていた。


 私はノートを開いた。


 手が震えて、字が少し曲がる。


『皐月賞 二着』

『道中、半歩早い』

『直線、伸びた』

『グランレグルス、最後まで残していた』

『脚、大きな乱れなし』


 最後に、一行書く。


『勝ちたい顔で走った』


 その字だけ、少し濃くなった。


 ◇ 望視点


 引き上げる道で、俺は首を下げられなかった。


 息が荒い。


 肺が熱い。


 脚は壊れていない。


 それは分かる。


 でも、胸の奥が熱いままだった。


 負けた。


 また、グランレグルスに負けた。


 ホープフルSより近かった。


 近かったのに、届かなかった。


 それが余計に悔しい。


 美浦さんの手が、手綱の上で震えている。


「悪い」


 小さな声だった。


「俺が、半歩早かった」


 違う。


 俺もだ。


 俺も半歩、前へ行った。


 朝倉先生が迎えに来た。


 最初に見たのは、俺の顔じゃない。


 脚だった。


 左前。

 右前。

 歩様。

 汗。


 それから、美浦さんを見た。


「戻った。まず歩かせろ」


 美浦さんが唇を結ぶ。


「はい」


「悔しがるのは、そのあとだ」


 その言葉は、聞いたことがある。


 でも今日は、前より刺さった。


 俺は歩いた。


 一歩。


 二歩。


 壊れていない。


 帰れる。


 でも、勝てなかった。


 その二つが、同じ体の中にあった。

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