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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第46話 皐月賞・前編

 ◇ 鈴鹿視点


 中山競馬場のパドックは、ホープフルSの時より人が多かった。


 柵の向こうで、カメラが並んでいる。


 紙の出走表を持つ人。

 スマホを掲げる人。

 ノゾの名前を口にする人。


 その声の中に、兄さんの名前が混じる。


「風見望が助けた馬だろ」

「妹さん、来てるのかな」


 昨日なら、そこで振り返っていたかもしれない。


 今日は、ノゾの首を見る。


 ノートは持っている。


 でも、開かない。


 今日は、まず目で見る。


 ノゾミノカゼが出てきた。


 歩様は悪くない。


 左前も、右前も、置けている。


 口も割っていない。


 ただ、首が少し硬い。


 首の付け根から肩へ抜けるところで、ほんの少し力が止まっている。


「鈴鹿?」


 母さんが横から聞いた。


「悪いの?」


「悪くない」


 私はノゾの首を追った。


「でも、力が入ってる」


 父さんが帽子のつばを下げた。


「勝ちたい顔か」


「……うん」


 言ってから、自分で嫌になった。


 顔で分かってしまう。


 ノゾが、勝ちたいと思っている。


 それは嬉しい。


 でも、怖い。


 グランレグルスが後ろから出てきた。


 首が太い。

 肩が深い。

 歩く時、蹄の音が乱れない。


 前哨戦を勝ってきた馬の体だった。


 観客の声が、少し変わる。


「あれはできてるな」

「皐月はグランで決まりか」


 私は袖口を握りかけて、やめた。


 代わりに、ノートを開く。


『ノゾ、首が硬い』

『脚は大きな乱れなし』

『グランレグルス、落ち着きあり』


 最後に一行足す。


『勝ち急ぎ注意』


 ペン先が、そこで止まった。


 それはノゾだけじゃない。


 私もだ。


 ◇ 望視点


 パドックの音が近い。


 人の声。

 カメラの音。

 蹄が土を踏む音。


 その中から、鈴鹿の匂いを探した。


 見つけた。


 柵の向こう。


 鈴鹿がいる。


 袖は握っていない。


 ノートを持っている。


 春江さんは口元に手を当てている。

 宗一郎さんは帽子を下げている。


 あの顔を変えたい。


 勝って、変えたい。


 そう思った瞬間、首に力が入った。


 分かっている。


 朝倉先生に言われた。


 勝ちたい顔で走るな。


 グランレグルスを追うな。

 皐月賞を走れ。

 中山の二千を走れ。


 分かっている。


 でも、グランレグルスが視界に入った。


 あの背中。


 ホープフルSで届かなかった背中。


 前哨戦を勝って、さらに大きく見える背中。


 馬同士の言葉はなかった。


 ただ、向こうの耳が一度だけ動いた。


 来る。


 そう言われた気がした。


 俺は鼻を鳴らした。


 短く。


 美浦さんが鞍を直す手を止めた。


「ノゾ」


 声が近い。


「今日は、勝とうな」


 その声で、背中に熱が入る。


 俺もだ。


 今日は勝ちたい。


 鈴鹿に、二着と書かせたくない。


 春江さんに、また電話メモを裏返させたくない。


 宗一郎さんに、帽子を握ったまま黙らせたくない。


 クラウンメア母さんに、負けた、と言いたくない。


 勝ちたい。


 勝って、帰りたい。


 ◇ 客観視点


 馬場へ向かう地下馬道で、朝倉隼人は美浦駿を呼び止めた。


「美浦」


「はい」


「今、馬の首を見たか」


 美浦は一瞬だけ口を閉じた。


「硬いです」


「理由は」


「グランレグルスを見ています。俺も、見ています」


 朝倉は頷かなかった。


 ただ、ノゾミノカゼの首筋へ手を当てた。


「勝ちに急ぐな」


「分かってます」


「分かっている顔じゃない」


 美浦の手綱を持つ指に力が入った。


 朝倉は続ける。


「一コーナーまでに勝とうとするな。向こう正面で勝とうとするな。三コーナーで勝とうとするな」


「……直線まで、ですね」


「違う」


 美浦が顔を上げた。


「ゴールまでだ。勝ったと思った瞬間に、馬は体を使い切る」


 美浦は唇を結んだ。


「はい」


「皐月賞は、ホープフルSのやり直しじゃない。ここはクラシックだ。相手も馬場も、同じ顔をしていない」


 グランレグルスが少し前を歩いていく。


 騎手は静かに座っている。


 無駄な手の動きがない。


 朝倉はそれを見てから言った。


「相手を見るなとは言わない。だが、相手だけを見るな」


「はい」


「ノゾを見ろ」


 美浦は、ようやくノゾミノカゼの耳を見た。


 耳が前へ向きすぎている。


 勝ちたい耳だった。


 ◇ 鈴鹿視点


 本馬場入場のアナウンスが流れた。


 ノゾが馬場へ出ていく。


 返し馬。


 最初の二完歩は悪くない。


 でも、三完歩目で少しだけ首が上がった。


「見たか」


 父さんが言った。


「うん」


「今のは」


「勝ちたい方に体が行った」


 母さんが息を吸った。


「止められるの?」


「美浦さんが、どこまで待てるか」


 言いながら、私は自分の手を見た。


 指がノートの端を押さえている。


 紙に白い跡がついていた。


 勝ってほしい。


 それは消えない。


 でも、勝ちたいまま全部使ったら、ノゾは帰ってこられないかもしれない。


 私は口の中で言った。


「戻ってきて」


 声にはしなかった。


 ノゾには聞こえない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 ◇ 望視点


 本馬場の芝を踏む。


 中山の芝。


 ホープフルSと同じ匂いがした。


 でも、同じではない。


 人の声が違う。

 空の色が違う。

 俺の体も違う。


 美浦さんの手が、前より静かだ。


 それでも、背中から伝わる。


 勝ちたい。


 俺も同じだ。


 返し馬で、肩を出しかける。


 美浦さんの指が少しだけ締まった。


 まだ。


 そう言っている。


 俺は首を下げた。


 一つ、息を入れる。


 分かっている。


 分かっているんだ。


 でも、ゲートの向こうに、グランレグルスの背中がある。


 あの背中を、今度こそ越える。


 ゲート前。


 金属の匂いがする。


 隣の馬の鼻息が近い。


 美浦さんが、低く言った。


「待つぞ」


 俺は耳を動かした。


 待つ。


 勝つために。


 帰るために。


 ゲートの扉が、目の前で閉まった。

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