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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第45話 悲劇の馬ではない

 ◇ 春江視点


 午前十時、見慣れない車が牧場の砂利道に入ってきた。


 タイヤが小石を踏む音が、事務所の窓まで届く。


 春江は電話メモを裏返した。


『兄妹の絆特集』

『皐月賞前インタビュー』

『風見鈴鹿さん同席希望』


 一番下に、赤鉛筆で書いてある。


『鈴鹿は出さない』


 玄関の戸が鳴った。


「風見牧場さんですね。本日はお時間いただき、ありがとうございます」


 記者は丁寧に頭を下げた。


 靴も泥を落としている。

 名刺の出し方もきれいだった。


 だから、余計に嫌だった。


 失礼な人なら、追い返しやすい。


 春江は名刺を受け取った。


「馬の状態確認がありますので、長くは取れません」


「もちろんです。ノゾミノカゼ号の皐月賞へ向けた調整について、まずはお伺いできれば」


 記者は手帳を開いた。


 最初の質問は、普通だった。


 前哨戦を使わない理由。

 ホープフルS後の状態。

 皐月賞へ向けた期待。


 春江は用意していた紙を見ながら答えた。


「前哨戦は使いません。食い、歩様、輸送を見ながら、皐月賞に合わせる方針です」


 記者は頷きながら書く。


 ペン先が、紙の上を細かく走る。


「なるほど。では、お兄さまの件についても少し」


 春江の手が止まった。


 受話器の横に置いた状態報告の紙が、風で少しめくれる。


 記者は声を柔らかくした。


「お兄さんが命を懸けて助けた馬が、今度はクラシックへ向かう。読者にとっても、非常に心を打つ物語だと思うんです」


 春江は答えなかった。


 廊下の奥で、鈴鹿の足音が止まった。


 ◇ 鈴鹿視点


 私は事務所の入口で立ち止まった。


 手には、ノゾの歩様メモがある。


『右前、朝は問題なし』

『左前、昨日より硬さ少ない』

『食い、安定』

『首、調教後に少し硬い』


 それを母さんへ渡すつもりだった。


 でも、記者の声が聞こえた。


「お兄さんの最期と、この馬の誕生は、まさに運命的ですね」


 紙の端が、指の中で曲がった。


 母さんが小さく息を吸う。


「その言い方は」


「もちろん、ご遺族のお気持ちには配慮します。ただ、皐月賞で勝てば、これは多くの方に届く感動的な物語になります」


 感動的。


 その言葉で、胸の奥より先に指が動いた。


 私はメモを折りそうになって、机に置いた。


「兄は」


 自分の声が、思ったより低かった。


 記者がこちらを見る。


 母さんも振り向いた。


「兄は、感動的な物語になるために死んだんじゃありません」


 記者のペンが止まった。


 窓の外で、馬房の扉が一度鳴る。


 私は続けた。


「クラウンメアを助けようとして死んだんです。仔馬を助けようとして死んだんです。見出しにするためじゃありません」


「いえ、そういう意味では」


「そう聞こえます」


 手が震えていた。


 でも、袖は握らなかった。


 机の上の歩様メモを、両手で押さえた。


「ノゾは、奇跡で皐月賞へ行くんじゃありません。食べて、歩いて、脚を見てもらって、朝倉先生が前哨戦を使わないって決めて、そこまでして行くんです」


 記者は口を閉じた。


 母さんが横で、電話メモを一枚裏返した。


 そこには、私の名前が書いてあった。


「鈴鹿さん」


 記者が言った。


「失礼しました。表現は変えます」


「表現だけじゃなくて」


 私は喉の奥を一度飲み込んだ。


「走る理由を、勝手に決めないでください」


 外で、父さんの杖が鳴った。


 一回。


 戸口に父さんが立っていた。


「今日はここまでだ」


 記者は、手帳を閉じた。


 ◇ 春江視点


 記者が帰ったあと、事務所にペンの音だけが残った。


 鈴鹿が、ノゾの歩様メモをもう一度書き直している。


 字が少し曲がっていた。


 春江は湯呑みを二つ出した。


「ごめんね」


「母さんが謝ることじゃない」


「止めるのが遅かった」


 鈴鹿は首を振った。


「私が言いたかったから、言った」


 宗一郎は窓の外を見ていた。


 記者の車が、砂利道を出ていく。


「望の名前を出されると、まだ腹が立つな」


 春江は湯呑みを置いた。


「私も」


 鈴鹿は、メモの一番下に書いた。


『皐月賞で見るもの』

『脚』

『息』

『首』

『顔』

『見出しではない』


 春江はその字を見た。


 鈴鹿の手は、まだ少し震えていた。


 でも、ペンは止まっていなかった。


 春江はその横に、朝倉先生への確認欄を書いた。


『首の硬さ、再確認』

『食い、夜も確認』

『鈴鹿への取材、今後も断る』


 湯呑みの湯気が、紙の端を少し湿らせた。


 ◇ 望視点


 夜、鈴鹿の声が流れた。


 馬房の中は静かだった。


 飼葉桶の底に、燕麦が少し残っている。


「ノゾ」


 声が硬い。


 昼間、何かあった。


 そう分かった。


「今日、記者の人が来た」


 俺は耳を向けた。


「兄さんの死とノゾの皐月賞を、感動的な物語って言った」


 喉の奥で、息が止まった。


 俺は馬房の床を見た。


 藁。

 自分の蹄。

 飼葉桶。


 人間だった頃の俺の死が、紙の上で別の形になる。


 鈴鹿の声が震えた。


「嫌だった」


 短い言葉だった。


 それで十分だった。


「ノゾ。勝ってほしい」


 俺は顔を上げた。


「でも、あの人たちのためには走らなくていい」


 美浦さんが馬房の外で黙っている。


 朝倉先生も、何も言わない。


「兄さんの死を、見出しにする人たちのためじゃない。私たちのために走って。母さんの帳簿とか、父さんの杖とか、クラウンメアのために」


 鈴鹿は、少しだけ息を吸った。


「それで、ちゃんと帰ってきて」


 記者の顔は知らない。


 鈴鹿の手元も見ていない。


 でも、声の硬さだけは馬房まで届いた。


 俺は飼葉桶へ顔を寄せた。


 一口。


 噛む。


 俺は記事のために走るんじゃない。


 悲劇の馬になるためでもない。


 鈴鹿がまた袖を握らずに済むように。

 春江さんが請求書を伏せる前に息を吸えるように。

 宗一郎さんが杖を鳴らして前へ出られるように。

 クラウンメア母さんに、戻った、と言えるように。


 走る。


 勝ちたい。


 でも、帰る。


 飼葉をもう一口噛んだ。


 美浦さんが、低く言った。


「皐月賞、見出しじゃなくて、レースをしような」


 俺は鼻を鳴らした。


 短く。


 朝倉先生の声が続いた。


「そうだ。皐月賞を走る。余計なものはゲートに持ち込むな」


 余計なもの。


 新聞。

 見出し。

 感動秘話。


 置いていけるものなら、全部置いていく。


 けれど、家族だけは置いていかない。


 俺は首を下げた。


 飼葉が、喉を通った。

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