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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第44話 皐月賞へ向かう馬

 ◇ 望視点


 冬の毛が、少しずつ抜け始めていた。


 厩舎の朝はまだ冷える。


 けれど、日が当たる場所の敷料は、前より乾くのが早い。


 俺は馬房の中で首を伸ばした。


 胸の下に、前より深く息が入る。


 トモにも少し力がついた。


 二歳の体ではない。


 でも、完成でもない。


 朝倉先生が馬房の前で止まった。


 手には、予定表がある。


 皐月賞。


 中山二千。


 ホープフルSと同じ中山の二千でも、今度はクラシックだ。


 美浦さんが横から紙をのぞく。


「先生。トライアル、一本も使わないんですか」


 朝倉先生は、すぐには答えなかった。


 俺の左前を見る。

 右前を見る。

 背中を見る。


「使えば、実戦の勘は戻る。ゲート、馬群、直線の反応も確認できる」


「じゃあ、なおさら……」


「その代わり、一戦分の疲れが残る」


 美浦さんの手が、手袋の端を握った。


「でも、グランレグルスは使いますよね。前哨戦で勝って、皐月賞へ来る」


「向こうは向こうだ」


 紙が一枚めくられる音がした。


「ノゾは、ホープフルSのあとに食いを落とした。短期放牧でも、降りる時に左前を少し慎重に置いた。ここで前哨戦を勝ちに行くより、皐月賞に体を合わせる」


 美浦さんは黙った。


 俺も、黙った。


 使えば、走れる。


 走れば、勝てるかもしれない。


 でも、一度走った体は紙みたいに元へ戻らない。


 望だった頃の俺なら、同じことを言った。


 前哨戦で勝つために、皐月賞の脚を削るな。


 分かっている。


 でも、グランレグルスが前哨戦を勝つなら。


 新聞にまた、あの名前が大きく載るなら。


 俺は飼葉桶へ鼻を寄せた。


 一口。


 噛む。


 焦るな。


 食べろ。


 体を作れ。


 ◇ 鈴鹿視点


 大学の机に、春の予定表を広げた。


 講義。

 実習。

 皐月賞。

 牧場へ戻る日。


 その横に、ノゾのメモを書く。


『皐月賞直行』

『前哨戦なし』

『食い』

『左前』

『輸送』

『首の硬さを見る』


 ペン先を止める。


 スマホに通知が入った。


 グランレグルス、前哨戦圧勝。


 画面には、写真がついていた。


 首が太い。

 目が荒れていない。

 騎手の手も動いていない。


 強い。


 それは、認めるしかなかった。


 コメント欄には、もう皐月賞の文字が並んでいる。


『二歳王者、盤石』

『ノゾミノカゼは直行で大丈夫か』

『風見牧場の奇跡、再戦へ』


 私はスマホを伏せた。


 奇跡。


 その言葉を見ると、指が止まる。


 ノゾは奇跡で走っているんじゃない。


 食べて、歩いて、脚を見られて、調教して、休んで、また食べている。


 その積み重ねで走っている。


 母さんから電話が来た。


『取材の依頼が増えてる』


「どんな取材?」


『皐月賞前の特集。兄が命を懸けて助けた馬、妹が見守るクラシック、って』


 私はノートの端を押さえた。


 紙に爪の跡がつく。


「その見出し、出さないで」


『出さないように断る。でも、別の社も似たようなことを言ってる』


「兄さんは、泣ける話のために死んだんじゃない」


 言ってから、教室の窓を見た。


 声が少し硬かった。


 母さんは、電話の向こうで少し黙った。


『うん。母さんも、その言い方は嫌だった』


「ノゾに余計なものを背負わせないで。勝ったら感動、負けたら悲劇、みたいにしないで」


『断れるものは断る。朝倉先生にも確認する。鈴鹿への直接取材は受けない』


「うん。それは絶対にお願い」


 電話を切ったあと、ノートに一行足した。


『見出しのために走らせない』


 その下に、もう一行。


『でも、勝ってほしい』


 消そうとして、やめた。


 勝ってほしいのは、本当だから。


 ◇ 春江視点


 電話メモが、また増えた。


『皐月賞前取材』

『兄妹の絆特集』

『弱小牧場からクラシックへ』

『感動秘話』

『鈴鹿さんへのインタビュー希望』


 春江は、最後の一枚を裏返した。


 鈴鹿の名前が書かれた紙は、机の真ん中に置きたくない。


 その代わりに、朝倉から届いた状態報告を置く。


『食い安定』

『歩様大きな乱れなし』

『前哨戦なし』

『皐月賞直行』


 宗一郎が事務所に入ってきた。


 杖の先に、外の土が少しついている。


「また電話か」


「朝から五件。取材が三件、見学が一件、鈴鹿へのインタビューが一件」


「鈴鹿の名前がある話は断れ」


「それは断る」


「兄の死を聞きたい連中も断れ」


 春江は少しだけ受話器を見た。


「全部断ると、あとで変に書かれるかもしれない」


「それでもだ。望の死を、紙面の飾りにするな」


 春江は頷いた。


 宗一郎は新聞を手に取った。


 グランレグルスの前哨戦圧勝の記事。


 写真の馬は、きれいに勝っていた。


 強い勝ち方だった。


「向こうは使って勝ったか」


「ええ。騎手がほとんど追っていないって」


「こっちは使わずに行く」


「不安?」


 宗一郎は新聞を畳んだ。


「不安じゃない日なんて、あったか」


 春江は返事をしなかった。


 電話が鳴る。


 春江は受話器を取った。


「風見牧場です」


 相手は、皐月賞前の特集取材だった。


 春江は机の一番上の状態報告を見た。


「申し訳ありません。今回はお受けできません」


 相手が何か言う。


 春江は、少しだけ背筋を伸ばした。


「馬の状態確認を優先します。皐月賞前の移動、食い、脚元の管理がありますので」


 また何か言われる。


 春江は、鈴鹿の名前が書かれたメモを裏返したまま、指で押さえた。


「鈴鹿への取材もお断りします。家族の話を売るつもりはありません」


 電話を切る。


 宗一郎が新聞を机に置いた。


「今のは、強かったな」


「怖いからよ」


 春江は受話器から手を離した。


「怖いから、先に守るものを決めてるだけ」


 ◇ 望視点


 夜、鈴鹿の声を聞かせてもらった。


「ノゾ」


 俺は耳を向けた。


 声が少し硬い。


 怒っている時の声だ。


「グランレグルス、勝ったよ。前哨戦」


 知っている。


 厩舎でも、その話ばかりだった。


「強かった。最後、騎手の手がほとんど動いてなかった。たぶん、本当に強い」


 俺は鼻を鳴らした。


 短く。


 鈴鹿は、少しだけ息を吐いた。


「でも、ノゾはノゾの体で行くんだよね」


 その言葉で、耳が動いた。


「前哨戦を使わないの、逃げじゃないって分かってる。食べることも、休むことも、皐月賞の準備なんだよね」


 電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「だから、勝ってほしい。でも、あの人たちのためには走らなくていい」


 あの人たち。


 新聞。

 取材。

 感動秘話。

 兄妹の絆。


 鈴鹿の声が、少し低くなった。


「兄さんの死を、見出しにする人たちのためじゃない」


 俺は首を下げた。


 そうだ。


 俺は、記事のために走るんじゃない。


 鈴鹿のノート。

 春江さんの帳簿。

 宗一郎さんの杖。

 クラウンメア母さんの噛む音。


 それを守るために走る。


 でも、勝ちたい。


 グランレグルスに、もう一度届きたい。


 それも嘘じゃない。


 俺は飼葉桶へ顔を寄せた。


 一口。


 噛む。


 鈴鹿が電話の向こうで言った。


「今、食べてる?」


 美浦さんが笑いをこらえた声で答える。


「食べてます。結構しっかり」


「左前は?」


「歩様は大きく崩れてません。朝倉先生が、明日もう一回見るって言ってます」


「首は?」


 美浦さんが少し黙った。


「少し、力が入る時があります」


「……やっぱり」


 鈴鹿の声が小さくなった。


「皐月賞、ちゃんと見てる。脚も、息も、顔も見る」


 俺は耳を伏せた。


 顔は、見なくていい。


 たぶん、勝ちたい顔をしている。


 ◇ 客観視点


 翌朝。


 朝倉隼人は、調教後のノゾミノカゼを見ていた。


 息は入っている。

 食いも落ちていない。

 左前も大きく乱れていない。


 だが、最後の一本で、首が少しだけ硬くなった。


 美浦駿が下りる。


「先生」


「何だ」


「皐月賞、勝ちたいです。ホープフルSの二着のまま、春に入りたくないです」


 朝倉は馬体から目を離さない。


「それはいい」


 美浦は顔を上げた。


「いいんですか」


「勝ちたいと思うな、とは言わない」


 朝倉はノゾミノカゼの首筋に手を当てた。


「ただ、勝ちたい顔で走るな」


 美浦の口が閉じた。


「グランレグルスを追うな。皐月賞を追え。中山の二千を走れ。馬の体を使え」


「どこまで我慢しますか」


「一コーナーまでに位置を欲しがるな。向こう正面で相手を探すな。三コーナーで手だけ先に動かすな」


「最後の直線まで、相手を見すぎるな、ですね」


「そうだ。相手を見るのは、最後の直線でいい」


 ノゾミノカゼは、朝倉の手の重さを感じていた。


 冷たくはない。


 強くもない。


 ただ、止める手だった。


 朝倉は言った。


「クラシックに行く。ただし、全部を使うな」


 美浦は頷いた。


 俺も、鼻を鳴らした。


 分かっている。


 分かっている。


 でも、胸の奥ではもう、グランレグルスの背中が走っていた。

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