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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第43話 冬の風見牧場

 ◇ 望視点


 馬運車の扉が開いた。


 冬の風が鼻に入る。


 乾いた土。

 古い木柵。

 乾草置き場。

 少し湿った敷料。


 風見牧場の匂いだ。


 俺は一歩、板の上に脚を出した。


 左前。


 痛くない。


 二歩目。


 少し硬い。


 レースの疲れは、まだ抜けきっていない。


 それでも、ここは家だ。


 鈴鹿が馬運車の横に立っていた。


 手にはノート。

 袖は握っていない。


「左前」


 鈴鹿が小さく言う。


 俺が降りるより先に、脚を見ている。


 俺は鈴鹿の顔を見た。


 鈴鹿は、俺の顔ではなく左前を見ていた。


 鼻を鳴らすのが、少し遅れた。


 春江さんが、厩舎の入口でタオルを両手に握っている。


「おかえり」


 その声で、鼻から長く息が抜けた。


 宗一郎さんは、厩舎の入口に立っていた。


 杖の先が、凍った土を一度だけ突く。


「勝ってないのに」


 春江さんが横を見る。


 宗一郎さんは、俺の方を見たまま言った。


「見る目が変わったな」


 牧場の外に、知らない車が一台止まっている。


 中に人がいる。


 こちらを見ている。


 勝って帰ったわけじゃない。


 二着だ。


 届かなかった。


 なのに、誰かが風見牧場まで見に来ている。


 俺は鼻を鳴らした。


 短く。


 鈴鹿がノートに書く。


『短期放牧』

『左前、歩様確認』

『食いを見る』


 勝ったか負けたかより、先に書かれるものがある。


 俺はそれを見て、馬房へ向かった。


 ◇ 鈴鹿視点


 ノゾは、ちゃんと降りた。


 左前を置く時、少しだけ慎重だった。


 でも、引きずってはいない。


 私はノートに線を引いた。


『馬運車降車時、左前大きな乱れなし』


 その下に、もう一行。


『疲れはある』


 母さんが厩舎の入口でタオルを畳んでいる。


 畳んだあと、また開いた。


 手が落ち着いていない。


「お茶、出した方がいいかしら」


「誰に?」


「外の車の人」


 私は外を見た。


 見慣れない車。


 スーツの人が二人。


 窓越しに、こっちを見ている。


「取材?」


「たぶん、馬主関係か、新聞か……朝から電話も三件あった」


 母さんは事務所の方を見た。


 机の上には、電話メモが重なっている。


『見学希望』

『取材依頼』

『春の予定確認』

『将来の種牡馬価値』


 最後の一枚だけ、母さんは裏返していた。


「まだ二歳なのに」


 私が言うと、母さんはタオルを強く畳んだ。


「走ると、先の話をされるのね」


 ノゾはまだ戻ってきたばかりだ。


 左前も見ないといけない。

 食べるかも見ないといけない。

 クラウンメアにも会わせたい。


 なのに、外の人はもう次の値段と次の肩書きを見ている。


 父さんが杖を鳴らした。


「入れるな」


「え?」


「今日は入れるな。見せる日じゃない」


 母さんが頷いた。


「電話、私が断る」


 父さんはノゾの後ろ姿を見る。


「二着の馬を見に来たんじゃない」


「じゃあ、何を見に来たの」


「次にいくらになるかを見に来た」


 私はノートを閉じた。


 悔しかった。


 負けた時とは別の悔しさだった。


 ノゾがまだ息を整えているのに、誰かがもう値札を探している。


 私は馬房へ向かった。


 ◇ 望視点


 馬房の奥で、クラウンメア母さんが顔を上げた。


 昔より、首を上げるのが少し遅い。


 でも、目は変わらない。


「坊や」


「母さん」


 俺は鼻を寄せた。


 クラウンメア母さんは、俺の首を嗅いだ。


 芝の匂い。

 汗の匂い。

 馬運車の匂い。


 それから、俺の首筋を一度だけ舐めた。


 冬の毛の上を、温かい舌がゆっくり通った。


「走った」


「走った」


「勝った?」


 俺は少し黙った。


 馬同士の言葉は短い。


 嘘も、長い説明もできない。


「負けた」


 クラウンメア母さんは、耳を一度だけ動かした。


「戻った」


「戻った」


「なら、食べろ」


 それだけだった。


 慰めもない。


 悔しさも聞かない。


 クラウンメア母さんは、乾草へ顔を戻した。


 噛む音がする。


 ゆっくりだった。


 前より、少しゆっくり。


 俺はその音を聞いた。


 勝てば、もっと安心させられた。


 そう思った。


 でも母さんは、勝ったかより先に戻ったかを数えた。


 鈴鹿と同じだ。


 俺は飼葉桶へ顔を寄せた。


 一口。


 噛む。


 風見牧場の飼葉は、厩舎のものより少し粗い。


 でも、喉を通る。


 クラウンメア母さんが、また短く言う。


「食べた」


「食べた」


「よし」


 それだけで、少しだけ腹が落ち着いた。


 ◇ 春江視点


 電話は、昼までに七件になった。


 春江はメモを並べた。


『取材』

『見学』

『春の予定』

『馬主筋紹介』

『広告提携』

『将来の種牡馬価値』

『血統特集』


 勝っていない。


 ホープフルSは二着。


 それなのに、電話は増えた。


 春江は、一枚ずつ端を揃える。


 すぐ返事をしない。

 金額だけで返事しない。

 脚を見る。

 食いを見る。

 朝倉先生へ確認。


 第37話の時に書いた紙を、また電話の横へ置く。


 鈴鹿が事務所に入ってきた。


「ノゾ、食べた」


 春江は顔を上げた。


「どのくらい」


「半分まではいってない。でも、最初の一口は自分で食べた」


「水は」


「飲んだ。少し」


「左前は」


「歩いてる。あとでまた見る」


 春江は電話メモの上に、別の紙を置いた。


『ノゾ状態』

『食い、少量』

『水、少量』

『左前、再確認』


 それを一番上にする。


 電話が鳴った。


 春江は受話器に手を伸ばし、途中で止めた。


 鈴鹿を見る。


「出るわ。断る電話だから」


「うん」


 春江は受話器を取った。


「風見牧場です」


 相手は、見学希望だった。


 春江は、机の一番上の紙を見ながら言った。


「申し訳ありません。今日はお受けできません。レース後の休養日ですので」


 相手が何か言っている。


 春江は少しだけ息を吸った。


「二着でも、走ったあとは休ませます」


 受話器の向こうが黙った。


 春江は、静かに続けた。


「見ていただく日は、こちらで決めます」


 電話を切る。


 鈴鹿が小さく笑った。


「母さん、強い」


「強くないわよ」


 春江は請求書の束を見た。


「怖いから、順番を書いてるだけ」


 ◇ 望視点


 夕方、放牧地へ出た。


 三日だけ。


 朝倉先生が許した短い休みだ。


 放牧地の隅に、踏まれて固くなった雪が残っていた。


 走らない。

 追わない。

 脚を見る。


 鈴鹿は柵の外を歩いている。


 ノートを持っている。


 俺が一歩動くたび、左前を見る。


「見すぎ」


 言えるなら、そう言いたかった。


 でも、鈴鹿は真剣だ。


 だから俺は、わざとゆっくり歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 左前を置く。


 痛くない。


 鈴鹿が息を吐いた。


 クラウンメア母さんが、少し離れた場所で草を噛んでいる。


 その音が、冬の牧場に残る。


 宗一郎さんが柵の横に来た。


 杖の先で、凍った土を軽く突く。


「勝ってないのに、忙しくなった」


 鈴鹿がノートから顔を上げる。


「うん」


「勝ってないのに、見に来る」


「うん」


「なら、次に勝ったらもっと来る」


 鈴鹿は返事をしなかった。


 宗一郎さんは俺を見た。


「だから、こっちが先に見る」


 杖の先が、俺の左前の方を向く。


「他人の目より、こっちの目だ」


 鈴鹿はノートに書いた。


『他人の目より、こっちの目』


 俺は鼻を鳴らした。


 冬の放牧地で、風見牧場の古い柵が少し鳴った。


 その向こうで、また知らない車が一台、ゆっくり通り過ぎた。

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