第42話 届かなかった一完歩
◇ 望視点
飼葉桶の前で、鼻が止まった。
匂いは分かる。
燕麦。
乾いた草。
水桶の冷たい縁。
食べられる。
でも、口が動かない。
グランレグルスの背中が、まだ前にいる。
尾が揺れていた。
後ろ脚が地面を押していた。
最後の坂でも、背中が落ちなかった。
俺は伸びた。
美浦さんも待った。
前走より、ずっと合っていた。
それでも届かなかった。
一完歩。
いや、二完歩。
見ている人間には、一完歩に見えたかもしれない。
でも、その一完歩を詰めるには、道中の二完歩が足りない。
その差が、飼葉桶の底より深く残っている。
美浦さんの足音が近づいた。
馬房の前で止まる。
今日は、すぐには話さなかった。
手袋を外す音がした。
「あと一完歩……」
声が低い。
「いや、二完歩か」
俺は耳を向けた。
同じだ。
俺も、そこを数えていた。
「直線、悪くなかった。坂でも止まってない。なのに、届かなかった」
美浦さんは柵に額を近づけた。
「悔しいな、ノゾ」
悔しい。
その言葉なら分かる。
俺は飼葉桶から顔を上げた。
食べる気には、まだなれない。
通路の奥で、朝倉先生の靴音がした。
「映像を見るぞ」
◇ 客観視点
調教室の小さな画面に、ホープフルSの直線が映っていた。
朝倉隼人はリモコンを押した。
映像が止まる。
「ここ」
画面の中で、ノゾミノカゼはグランレグルスの後ろにいる。
差はある。
だが、遠すぎる差ではない。
美浦駿は画面を見たまま、拳を握った。
「ここで、もう少し早く出していれば」
「違う」
朝倉はすぐに言った。
「ここで早く出したら、坂で止まる」
美浦の拳が止まった。
朝倉はもう一度、映像を進める。
「見ろ。グランレグルスは道中で首を使っていない。口も割っていない。直線に入るまで、余計な脚を使っていない」
画面の中で、グランレグルスの背中は揺れない。
ノゾミノカゼは伸びている。
だが、直線の入りで少しだけ首が高い。
「ノゾは悪くない。だが、まだ体ができきっていない。最後に伸びる時、首で取りに行っている」
「首で……」
「背中とトモで押し切るには、まだ春までいる」
朝倉は映像を止めた。
ゴール前。
前に、グランレグルス。
後ろに、ノゾミノカゼ。
「今の二完歩は、今日ここで足すものじゃない」
朝倉はリモコンを机に置いた。
「春までに作るものだ」
美浦は下を向いた。
「俺も、まだ勝ち急いでますか」
「消えてはいない」
「……はい」
「だが、前走より待てた。馬も待てた。だから二着まで来た」
朝倉は画面を消した。
「次は、待つだけじゃ足りない。待って、最後に体で押す」
美浦は拳を開いた。
手のひらに、爪の跡が残っていた。
◇ 鈴鹿視点
夜、電話をつないでもらった。
スマホを握る前に、私はノートを開いた。
『二着』
『届かなかった』
『左前、強い熱なし』
『飼葉、未確認』
最後の行で、ペンが止まる。
史門さんの声がした。
レース後の確認で、厩舎に残っていると聞いていた。
『今、馬房の前です。まだ食いが戻りきっていません』
「水は」
『飲んでいます』
「左前は」
『大きな変化はありません』
「飼葉は」
聞く前から、少し分かっていた。
『止まっています』
私は息を吸った。
悔しい。
悔しいのは、私も同じだ。
でも、ここで悔しいだけを渡したら、ノゾは食べない。
「ノゾ」
向こうで、鼻を鳴らす音がした。
「悔しいね」
声が震えた。
「私も悔しい。ノートに二着って書くの、嫌だった」
机の上の赤ペンを見る。
先が少し潰れている。
「でも、ちゃんと帰ってきた」
台所で、母さんが湯呑みを置く音がした。
奥の部屋で、父さんの杖が一度だけ鳴った。
「左前、大きく崩れてないって聞いた。水も飲んだって聞いた。最後まで伸びたって、ちゃんと見た」
言葉を一つずつ置く。
「私は、それも嬉しい」
言ってから、涙が出そうになった。
嬉しい。
悔しい。
どっちもある。
「だから、食べて」
私はノートに指を置いた。
『春までに作るもの』
朝倉先生が言った言葉を、史門さんから聞いて書いた。
「春までに作るんでしょ。だったら、今日食べなきゃ駄目だよ」
◇ 望視点
鈴鹿の声が、馬房に落ちた。
悔しいね。
それは分かる。
私も悔しい。
それも分かる。
でも、そのあとがまた分からない。
ちゃんと帰ってきた。
私は、それも嬉しい。
勝てなかったのに。
前に一頭いたのに。
それでも鈴鹿は、帰ってきたことを拾う。
左前。
水。
最後まで伸びたこと。
勝ちではないものを、また一つずつ数えている。
俺は飼葉桶を見た。
春までに作る。
朝倉先生の声が残っている。
届かなかった二完歩。
今日ここで足すものじゃない。
春までに作るもの。
なら、今やることは一つだ。
俺は桶に鼻を寄せた。
一口。
噛む。
喉を通る。
まだ悔しい。
グランレグルスの背中は消えない。
でも、飼葉は喉を通る。
もう一口。
美浦さんが息を止めた。
「食った」
史門さんの声が電話に乗った。
『食べました』
電話の向こうで、鈴鹿が小さく息を吐いた。
「よかった」
俺は三口目を噛んだ。
負けた。
届かなかった。
でも、食べる。
春までに、あの二完歩を積み上げて、一完歩へ届くために。




