第41話 ホープフルS・後編
◇ 鈴鹿視点
パドックに、グランレグルスが出てきた。
最初に見えたのは、首だった。
太い。
首の付け根から肩まで、一本の板みたいにつながっている。
歩くたびに、トモの筋肉が左右で沈む。
蹄の置き方も静かだった。
「大きいわね」
母さんが言った。
私はノートを開いた。
ペン先が、紙に触れる前に止まる。
「大きいだけじゃない。……体ができてる」
父さんは帽子のつばを下げた。
「ノゾは」
私はノゾを見た。
首は高すぎない。
左前も返している。
口元も硬すぎない。
「悪くない。ちゃんと歩けてる」
そこまで言って、言葉が止まった。
グランレグルスが、ノゾの隣を通る。
同じ二歳なのに、馬体の厚みが違う。
ノゾはまだ、伸びる途中の馬だ。
グランレグルスは、今日勝つ形を持っている馬に見えた。
悔しい。
まだ走ってもいないのに、悔しかった。
私は袖口を握った。
噛まない。
父さんの杖が、床を一度だけ突いた。
「見る場所を変えるな」
「分かってる」
「勝つかどうかより先に」
「脚」
私はノゾの左前を見た。
歩いている。
大丈夫。
でも、胸の中ではもう、勝ってほしいと思っていた。
◇ 望視点
本馬場に入ると、芝の匂いが鼻に刺さった。
二千。
最初に坂を上る。
道中で息を入れないと、最後の坂で脚が残らない。
分かっている。
美浦さんの手も、今日は待っている。
返し馬で出しすぎない。
肩を急がせない。
手綱の張りも、前走ほど強くない。
それでも、背中から伝わってくる。
勝ちたい。
俺も同じだ。
鈴鹿のノートに、二着なんて書かせたくない。
春江さんの帳簿に、また足りない数字を書かせたくない。
宗一郎さんに、帽子を握ったまま黙らせたくない。
クラウンメア母さんに、また「戻った」とだけ言わせたくない。
今日は、勝って帰りたい。
ゲートへ向かう途中、前にグランレグルスがいた。
尻の厚み。
尾の揺れ方。
後ろ脚の運び。
無駄が少ない。
あの馬は、今日の走り方をもう知っている。
ゲートに入る。
金属の匂い。
土の湿り。
隣の馬の鼻息。
開く。
出る。
悪くない。
一完歩。
二完歩。
ここで押せば前へ行ける。
でも、二千の最初で脚を使えば、最後に残らない。
美浦さんは押さない。
俺も行きすぎない。
一コーナー。
内の馬が少し寄る。
外の馬の肩が近い。
美浦さんの指が動きかける。
まだだ。
俺は首を下げる。
呼吸を入れる。
一つ。
二つ。
待てている。
待てているのに、グランレグルスはその少し前にいる。
向こうも待っている。
それなのに、楽な位置を取れている。
俺は我慢している。
あいつは我慢しているように見えない。
その差が、腹の底を焼いた。
勝ちたい。
今すぐ行きたい。
前へ出て、あの尾を追い越したい。
でも、ここで行ったら負ける。
クラシックはまだ先だ。
ここで壊すな。
向正面。
風が横から入る。
前の馬の尻が遠くならないように、でも近づきすぎないように走る。
美浦さんの膝が、じっとしている。
いい。
今日は、まだ合っている。
三コーナー。
ペースが少し上がる。
外から一頭が動いた。
前走なら、ここで体が熱くなった。
今日は我慢する。
左前を置く。
痛くない。
深く沈めすぎるな。
四コーナー。
グランレグルスの尾が見える。
まだ余裕がある。
向こうの背中は揺れていない。
美浦さんの手が、ここで動いた。
今だ。
俺は首を伸ばした。
直線。
中山の直線は長くない。
ここで迷ったら終わる。
前の馬を一頭かわす。
もう一頭もかわす。
坂が来る。
胸に重さが乗る。
それでも脚を出す。
グランレグルスの背中が近づく。
尾が近い。
肩も近い。
勝て。
勝て。
鈴鹿に勝ったと言わせろ。
春江さんに、今日だけは電卓を伏せさせろ。
宗一郎さんに、「よく勝った」と言わせろ。
そう思った瞬間、宗一郎さんの手を思い出した。
あの人が本当に言うのは、たぶん「よく帰った」だ。
それでも。
今日は、勝って帰りたい。
届く。
届かせる。
でも、向こうも止まらない。
グランレグルスの後ろ脚が、最後まで地面を押している。
美浦さんの手がもう一度動く。
俺はもう一度伸びる。
鼻先を前へ出す。
ゴール板の影が過ぎた。
前に、まだ一頭いた。
◇ 客観視点
掲示板に数字が灯った。
ノゾミノカゼは二着だった。
勝ったのは、グランレグルス。
黒峰スタッド生産の怪物候補は、最後の坂でもフォームを崩さなかった。
ノゾミノカゼは伸びた。
直線で二頭をかわした。
坂でも止まらなかった。
だが、差は消えなかった。
通路の外で、知らない記者が言った。
「負けたけど、春はこの二頭だな」
美浦駿は、鞍上で手綱を握り直した。
朝倉隼人は掲示板を見た。
次に、戻ってくるノゾミノカゼの脚を見た。
左前。
息。
首の高さ。
汗の出方。
「先生」
美浦が下りて、声を出した。
「届きませんでした」
「届かなかったな」
朝倉は短く返した。
「でも、崩れてはいない」
朝倉はノゾミノカゼの左前に手を伸ばす。
膝下。
球節。
繋ぎ。
「強い熱はない。歩かせろ」
「はい」
「悔しがるのは、そのあとだ」
美浦は黙って頷いた。
◇ 鈴鹿視点
二着。
数字を見た瞬間、袖を握った。
勝っていない。
また届かなかった。
でも、ノゾは伸びていた。
最後まで、前を追っていた。
「鈴鹿」
父さんの声がした。
「分かってる」
私は掲示板から目を離した。
戻ってくるノゾを見る。
左前。
一歩。
二歩。
置けている。
首は少し高い。
息も荒い。
でも、引きずっていない。
「歩けてる」
声に出したら、悔しさが遅れて上がってきた。
「……よかった」
母さんが隣で息を吐いた。
父さんは帽子を握っている。
「負けたな」
「うん」
「でも、帰ってきた」
「分かってる」
分かっている。
でも、悔しい。
グランレグルスは強かった。
ノゾは悪くなかった。
悪くなかったのに、届かなかった。
それが一番悔しかった。
私は袖口を離した。
代わりに、ノートを開く。
『二着』
『左前、歩様大きな乱れなし』
『直線、最後まで伸びた』
『坂で止まっていない』
『グランレグルス、止まらない』
赤ペンの先が、紙の上で止まる。
最後に一行足した。
『まだ届かない』
◇ 望視点
馬房に戻っても、グランレグルスの背中が鼻の奥に残っていた。
前の二頭ではない。
今度は一頭だ。
でも、その一頭に届かなかった。
飼葉桶の匂いがする。
食べられる。
左前も痛くない。
体は、壊れていない。
なのに、口がすぐには動かなかった。
勝ちたかった。
どうしても勝ちたかった。
家族に、勝った日の顔をさせたかった。
春江さんに、新聞を裏返す前に少し笑ってほしかった。
鈴鹿に、赤ペンで「まだ届かない」と書かせたくなかった。
宗一郎さんに、帽子を胸に当てさせたかった。
美浦さんが馬房の前に立つ。
「悪くなかった」
その声は、慰めじゃなかった。
自分に言い聞かせている声だった。
「悪くなかったのに、勝てなかった」
俺は耳を動かした。
同じだ。
俺もそう思っている。
朝倉先生の声が通路から来た。
「悪くなかったから、春までに作れる」
春。
その言葉で、俺は顔を上げた。
「今の二完歩は、今日ここで足すものじゃない。春までに作るものだ」
美浦さんが黙る。
俺も黙る。
グランレグルスの背中。
届かなかった二完歩。
それを、春までに作る。
飼葉桶へ顔を寄せた。
一口。
噛む。
喉を通る。
負けた。
悔しい。
勝ちたかった。
でも、食べる。
次に、勝つために。




