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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第40話 ホープフルS・前編

 ◇ 春江視点


 風見牧場の事務所に、また紙が増えた。


 出走予定表。

 取材依頼。

 交通費のメモ。

 宿泊先の候補。

 朝倉先生から届いた調教予定。


 春江は赤鉛筆で、一番上に書いた。


『ホープフルS』


 新聞には、もう見出しが出ていた。


『弱小牧場の希望』

『兄の死を越えて走る馬』

『風見牧場からクラシック候補へ』


 春江は新聞を裏返した。


 読まないわけではない。

 でも、机の真ん中には置かない。


 真ん中に置くのは、ノゾミノカゼの状態表だ。


 左前。

 食い。

 輸送。

 追い切り後確認。


 宗一郎が杖を膝の前に立てる。


「交通費は」


「行けます。鈴鹿の分だけ前泊にします」


「お前は」


「私は、当日朝でいいです」


 宗一郎は返事をしなかった。


 春江は電卓を置く。


「勝ったら助かる。負けても、賞金は入るかもしれない」


 言ってから、少し嫌になった。


 馬の話をしているのに、最初に数字が出る。


 でも、数字を見ないと牧場は回らない。


 宗一郎が、裏返した新聞を指で押さえた。


「希望って言葉は、軽いな」


「ええ」


「こっちは、乾草代まで入れて希望って呼んでる」


 春江は笑わなかった。


 赤鉛筆で、もう一行書く。


『勝ちより先に、帰る条件』


 その横に、鈴鹿の字の付箋があった。


『勝っても負けても、ちゃんと見る』


 ◇ 鈴鹿視点


 冬休みに入った大学の教室は、人が少なかった。


 私は講義ノートを開いていた。


 本当は、試験範囲をまとめるためのノートだ。


 でも、端に別の文字を書いていた。


『ホープフルS』

『二千メートル』

『右回り』

『輸送』

『前走後、飼葉残し』


 先生が言っていた。


 若馬は、勝ったあとより負けたあとの方が崩れることがある。


 食い。

 歩様。

 落ち着き。


 ノゾは、負けたあとに食べた。


 でも、すぐ食べたわけじゃない。


 私の電話のあとだった。


 嬉しい。

 でも、怖い。


 私の声がないと食べられないなら、それは強さじゃない。


 ノゾ自身が、食べて戻れる馬にならないといけない。


 スマホが震えた。


 母さんから、ホープフルSの出走表の写真が届いていた。


 一番上に、知らない名前がある。


 グランレグルス。


 黒峰スタッド生産。


 父も、母系も、厩舎も、騎手も、見たことのある名前ばかりだった。


 私はその横に、小さく書いた。


『最初から揃っている馬』


 ノゾの欄を見る。


 風見牧場。


 小さな文字だった。


 私はその文字を親指でなぞった。

 爪の先に、紙の段差が引っかかった。


 袖口を握りかけて、やめる。


 代わりに、ノートの端を押さえた。


 母さんへ返信する。


『見ます』

『勝っても負けても、ちゃんと見ます』


 少し迷って、もう一文を足した。


『でも、勝ってほしい』


 送信したあと、画面から目を離せなかった。


 ◇ 望視点


 厩舎の通路で、新聞紙を畳む音が増えた。


 朝倉先生の靴底が、馬房の前で一度止まり、すぐまた鳴った。

 美浦さんは馬房の前まで来ても、すぐには手袋を外さない。


 新聞。

 出走表。

 調教メモ。


 紙の匂いが増えている。


「グランレグルス、時計いいですね」


 美浦さんの声が聞こえた。


 グランレグルス。


 聞こえた名前を、俺は覚えた。


 時計がいい。

 黒峰スタッド。

 二歳のGⅠ。

 芝二千。


 意味は分かる。


 人間だった頃の俺が、そういう紙を何度も見てきたからだ。


 朝倉先生は答えない。


 紙をめくる音だけがした。


「黒峰スタッドですか」


「そうだ」


「馬体写真、二歳に見えませんね」


「見た目で勝つ馬もいる。見た目だけで終わる馬もいる」


「ノゾは」


「まだ作っている途中だ」


 作っている途中。


 俺は飼葉桶から顔を上げた。


 まだ。


 また、その言葉だ。


 まだ噛み合っていない。

 まだ完成していない。

 まだ待つ。


 鈴鹿の大学は、次の学費の紙になる。

 春江さんの帳簿には、次の支払い欄がある。

 宗一郎さんの杖は、冬になると音が遅くなる。

 クラウンメア母さんは、草を噛む回数が少し減った。


 二千。


 前走より長い。


 半完歩早く熱を入れたら、最後の坂で残らない。


 分かっている。


 分かっているのに、勝ちたい。


 前走の三着が、まだ腹の底に残っている。


 飼葉はもう喉を通る。


 でも、前の二頭の匂いは消えていない。


 今度は届く。


 届かせる。


 そう思った時、美浦さんが馬房の前に来た。


「ノゾ」


 手袋を握っている。


「今度は、待つ。俺が先に行かない」


 俺は耳を向けた。


「でも、勝ちたい」


 その声は小さかった。


 俺もだ。


 俺も勝ちたい。


 俺は短く鼻を鳴らした。


 美浦さんは笑わない。


 握っていた手袋の指先を、一つずつほどいた。


 ◇ 客観視点


 最終追い切りの日。


 朝倉隼人は、時計を先に見なかった。


 見るのは、入り。

 道中の首。

 直線の口向き。

 追い出した後の左前。


 美浦駿は、前走より長く待った。


 外から併せ馬が来る。


 前なら、そこで手が動いた。


 今日は動かない。


 ノゾミノカゼも、半完歩だけ我慢した。


 直線。


 美浦の手が動く。


 ノゾミノカゼが伸びる。


 悪くない。


 ただ、最後の一完歩で、鼻先が半分だけ上がった。

 美浦の手綱が、そこで一度だけ強く張った。


 追い切りが終わる。


 美浦が下りる。


「先生」


「何だ」


「勝てますよね」


 朝倉は、すぐには頷かなかった。


 ノゾミノカゼの左前に手を伸ばす。


 膝下。

 球節。

 繋ぎ。


 熱はない。


 だが、手を離したあとも、朝倉はすぐ歩き出さなかった。


「ここで勝てなくてもいい」


 美浦の口が少し開いた。


「何を持って帰るかだ」


「……持って帰るもの」


「脚。食い。次に伸びる余地。それを捨てて勝ちに行くな」


 美浦は唇を結んだ。


「はい」


 朝倉は出走表を畳んだ。


 一番上には、グランレグルスの名があった。


 黒峰スタッド生産。

 怪物候補。

 最初から勝つための場所にいる馬。


 ノゾミノカゼは、その出走表を直接見ていない。


 それでも、朝倉が厩舎へ戻る足音が、いつもより半歩遅いことには気づいていた。


 ◇ 鈴鹿視点


 夜、電話をつないでもらった。


「ノゾ」


 向こうで、鼻を鳴らす音がした。


 私はノートを見た。


 グランレグルス。

 黒峰スタッド。

 調教時計。

 馬体写真。

 ホープフルS。


 グランレグルスの行だけ、先に目に入る。


 私は二回まばたきしてから、ノゾの欄へ戻った。


「今度は、勝っても負けても、ちゃんと見てる」


 息を吸い直す。


「脚も見る。食べたかも見る。水も見る」


 台所で、母さんが湯呑みを置く音がした。


 奥の部屋で、父さんの杖が一度鳴った。


「でも」


 言うか迷った。


 でも、言わないまま電話を切ったら、あとで後悔する。


「勝ってほしい」


 向こうで、鼻を鳴らす音が止まった。


「ごめん。これ、言わない方がいいのかもしれないけど」


 私は袖口を握らなかった。


 ノートの端を押さえる。

 爪の跡が、紙に白く残った。


「勝ってほしい。でも、帰ってきて」


 電話を切ったあと、ノートに書いた。


『勝ってほしい』

『帰ってきて』


 どちらにも線は引けなかった。


 ホープフルSの出走表は、机の真ん中にある。


 グランレグルスの名前は、一番上にあった。

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