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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第39話 負けた馬房

 ◇ 望視点


 飼葉桶の底が見えている。


 食べきったからじゃない。


 俺が、顔を上げたからだ。


 二口。


 そこで止まった。


 いつもなら噛める匂いだった。


 燕麦の匂い。

 乾いた草の匂い。

 水桶の冷たい匂い。


 でも、喉が動かない。


 三着。


 勝っていない。


 前の二頭に届かなかった。


 俺は、馬房の中で左前を置き直した。


 痛くない。


 熱も、たぶん強くない。


 壊れたわけじゃない。


 止まったわけでもない。


 なのに、勝てなかった。


 それが、余計に消えない。


 美浦さんの足音が近づいてきた。


 いつもより遅い。


 馬房の前で止まる。


「……悪かった」


 声が低かった。


「俺が早く動いた。外の栗毛が来たところで、半歩、我慢できなかった」


 俺は耳を向けた。


 違う。


 あれは美浦さんだけじゃない。


 俺も行った。


 外から肩が来た時、前へ出た。


 今行けば入れる。


 今行けば勝てる。


 そう思った。


 美浦さんは柵に手を置いた。


 手袋は外している。


 指の節が赤い。


「先生には、二人で早かったって言われた」


 その通りだ。


 俺は鼻を鳴らした。


 短く。


 美浦さんが顔を上げる。


「怒ってるか」


 怒っていない。


 悔しいだけだ。


 でも、それは鳴き声では伝わらない。


 俺は飼葉桶へ目を向けた。


 残っている。


 勝てなかった分だけ、残っている。


 美浦さんもそれを見た。


「食えないか」


 食える。


 体は食える。


 でも、口が動かない。


 美浦さんは少しだけ息を吐いた。


「俺も、夕飯いらないって言ったら先生に怒られるな」


 朝倉先生の声が通路の奥から飛んだ。


「聞こえてるぞ」


 美浦さんの肩が跳ねた。


「すみません」


「謝るなら馬にじゃなく、次の調教で謝れ」


「はい」


「見張るだけじゃ足りない。食うところまで持っていけ」


 朝倉先生はそれだけ言って、足音を遠ざけた。


 美浦さんは馬房の前にしゃがんだ。


「食うところまで、か」


 俺は桶の底を見た。


 勝つ理由ならある。


 鈴鹿の大学。

 春江さんの帳簿。

 宗一郎さんの杖。

 クラウンメア母さんの鼻先の温かさ。


 でも、負けたあとに食べる理由が、まだ分からない。


 ◇ 客観視点


 厩舎の通路に、スタッフの足音が増えた。


 レース後の確認。


 水。

 飼葉。

 左前。

 体温。

 歩様。


 記録紙には、短い文字が並んでいる。


『左前、強い熱感なし』

『水、少量』

『飼葉、残し』

『夜、再確認』


 美浦駿は、その紙を見て唇を結んだ。


「飼葉、残し」


 たった四文字なのに、三着の数字より重く見えた。


 史門が通路の端から来た。


 風見牧場へ送る報告の確認に来ている。


「食べてないんですか」


「二口です」


「負けた馬の顔ですね」


 美浦は少し顔を上げた。


「分かるんですか」


「分かりますよ。勝った馬は鼻の穴までうるさい。負けを分かってる馬は、桶の前で止まる」


 史門はノゾミノカゼを見た。


「ただ、止まったままだと次に行けない」


「……はい」


「電話、つなぎますか」


 美浦はすぐに答えなかった。


 ノゾミノカゼの耳を見る。


 外を向いている。


 誰かを待っている耳だった。


「お願いします」


 ◇ 鈴鹿視点


 スマホを握る指が、冷たくなっていた。


 母さんは台所で、湯呑みを二つ出している。


 父さんは奥の部屋にいる。


 杖の音がしない。


 たぶん、座ったまま動いていない。


 史門さんから電話が来た。


『食いが戻りません』


 その一文で、喉が詰まった。


 負けたことより、そっちの方が怖かった。


「左前は」


『強い熱感はありません。歩様も大きく崩れていません』


「水は」


『少し飲んでいます』


「飼葉は」


 聞く前から分かっている。


 でも、聞いた。


『二口です』


 私は袖口を握った。


 噛まない。


 噛んでる場合じゃない。


「電話、聞かせてもらえますか」


『はい。今、馬房の前です』


 少し音が遠くなる。


 蹄の音。

 人の足音。

 水桶が壁に当たる小さな音。


 それから、鼻を鳴らす音。


「ノゾ」


 声が震えた。


 私は机の上のノートを見た。


 さっき書いた文字がある。


『三着』

『左前』

『飼葉』


 その下に、赤ペンで書き足した。


『帰ってきた』


「負けたね」


 言った瞬間、目が熱くなった。


「悔しいね。私も悔しい」


 母さんが台所で手を止めた。


 私は続けた。


「でも、ちゃんと帰ってきたから」


 向こうで、耳が動いたような気がした。


 見えないのに、そう思った。


「歩いて帰ってきた。水も少し飲んだ。左前も、今は強い熱がないって聞いた」


 言葉を一つずつ置いた。


 勝てなかった。


 でも、ゼロじゃない。


「だから、食べて」


 お願いみたいになった。


「次に走るために、食べて。兄さんなら、負けた日でも馬には食わせたでしょ」


 言ってから、胸が詰まった。


 兄さんなら。


 また言ってしまった。


「ごめん。ノゾに言ってるのに」


 向こうで、低く鼻を鳴らす音がした。


 私は袖口を離した。


「負けても、ちゃんと帰ってきたから」


 もう一度言った。


「だから、食べて」


 ◇ 望視点


 鈴鹿の声が、馬房の中に落ちた。


 負けたね。


 悔しいね。


 その二つは分かる。


 でも、そのあとが分からない。


 ちゃんと帰ってきたから。


 勝っていない。


 前の二頭に届かなかった。


 それなのに、鈴鹿は帰ってきたことを数えている。


 歩いて帰ってきた。

 水を飲んだ。

 左前に強い熱がない。


 勝ちより小さいものを、一つずつ拾っている。


 俺は耳を伏せた。


 分からない。


 分かりたくない。


 勝てばよかった。


 勝てば、もっと楽にできた。


 そう思った。


 でも、鈴鹿の最後の声が残る。


 だから、食べて。


 次に走るために、食べて。


 兄さんなら、負けた日でも馬には食わせたでしょ。


 それは、ずるい。


 望だった頃の俺なら、確かに言った。


 負けた馬ほど、食わせろ。


 食わない馬は、次へ行けない。


 水を飲ませろ。

 脚を冷やせ。

 立たせろ。

 寝かせろ。

 明日の朝、また見ろ。


 全部、俺が人間だった頃にやっていたことだ。


 それを今、鈴鹿に言われている。


 俺は飼葉桶に顔を戻した。


 匂いがする。


 悔しい匂いじゃない。


 飼葉の匂いだ。


 一口。


 噛む。


 今度は、喉を通った。


 もう一口。


 美浦さんの息が止まる。


「食った」


 史門さんの声がした。


『食べました』


 電話の向こうで、鈴鹿が息を吸う音が聞こえた。


「よかった」


 小さな声だった。


 俺は三口目を噛んだ。


 勝てなかった。


 まだ納得はしていない。


 前の二頭の匂いは、まだ鼻の奥にある。


 でも、飼葉は喉を通る。


 負けた日でも、食べる。


 次へ行くために。


 ◇ 客観視点


 記録紙に、文字が足された。


『夜、鈴鹿通話後、摂食再開』

『水、追加少量』

『左前、熱感変化なし』

『翌朝、再確認』


 美浦はその文字を見た。


「俺の言葉では食べませんでした」


 史門はペンを置いた。


「今日は、そういう日です」


「悔しいですね」


「悔しがってください。ただ、明日の朝は普通に乗ってください」


「普通に、ですか」


「負けたからって、馬の前で騎手が壊れた顔をするなってことです」


 美浦は馬房の中を見た。


 ノゾミノカゼは、まだゆっくり食べている。


 完食ではない。


 それでも、口は動いている。


 美浦は小さく頭を下げた。


「次は、待ちます」


 ノゾミノカゼの耳が動いた。


 通路の奥で、朝倉が言った。


「言葉じゃなく、手で待て」


「はい」


 記録紙の一番下に、史門がもう一行書いた。


『次走候補、ホープフルS。状態確認後、要相談』


 その文字は、まだ小さかった。


 でも、負けた馬房の隅で、次の紙が一枚増えた。

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