第38話 初めての敗北
◇ 鈴鹿視点
パドックに出てきたノゾは、悪くなかった。
首は高すぎない。
目も荒れていない。
左前の出方も、昨日の映像と大きく変わらない。
私はノートを開いたまま、袖口を握った。
噛まない。
父さんが杖の先で、床を一度だけ突いた。
「一歩目」
「左前、返してる」
「二周目」
「同じところを見る。掲示板じゃなくて、脚」
「そうだ」
母さんは出走表を畳んだ。
紙の端に、相手馬の名前が少しだけ見える。
大牧場産。
調教時計上位。
馬体重も、ノゾよりある。
その馬が、ノゾの前を歩いた。
大きい。
ただ大きいだけじゃない。
首の付け根が厚い。
後ろ脚で、地面を押して歩いている。
近くの男の人が言った。
「もう二歳の体じゃないな」
別の声が返る。
「新馬勝ちの馬とは、腹の入りが違う。あっちはまだこれからだ」
袖を握る指に力が入った。
父さんが低く言う。
「声を見るな。馬を見ろ」
「見てる」
「ノゾはどうだ」
「悪くない。悪くないけど……相手は体ができてる」
言ってから、奥歯を噛んだ。
認めたくない。
でも、見れば分かる。
ノゾが、一度だけこちらへ耳を向けた。
鳴かない。
ただ、歩いている。
勝ってほしい。
でも、まず歩いて帰ってきて。
昨日、電話で言った言葉が、今度は私の喉に引っかかった。
◇ 望視点
本馬場の芝は、新馬戦の日より硬い。
人の声が多い。
他馬の息が近い。
美浦さんの呼吸も少し浅い。
前の馬を見る。
まとまっている。
脚の出し方に無駄がない。
首を振らない。
背中が揺れない。
あれが、今の壁だ。
ゲートに入る。
金属の匂い。
土の匂い。
美浦さんの指。
開く。
出る。
悪くない。
一完歩。
二完歩。
前へ行きたい。
美浦さんの手も、それを選びかける。
前走よりは待っている。
でも、まだ早い。
外の馬が上がってくる。
肩が並ぶ。
そこで体が前へ出た。
行かせろ。
今行けば、前に入れる。
美浦さんの膝が少し締まる。
俺は反応した。
半完歩、早い。
違う。
ここで使う脚じゃない。
そう思った時には、息が浅くなっていた。
前の二頭はもう形を作っている。
内の馬は、地面を静かに削る。
外の馬は、長く脚を使う。
俺だけ、少し口向きが硬い。
美浦さんが手を戻す。
戻した。
でも、一度入った力は、すぐには抜けない。
コーナー。
左前を置く。
痛くない。
深く沈めるな。
直線。
美浦さんの手が動いた。
今度は合っている。
俺は首を伸ばした。
詰まる。
前の二頭へ詰まる。
まだ詰まる。
でも、匂いが遠い。
ゴール板の影が過ぎた。
勝っていない。
それだけは分かった。
◇ 客観視点
掲示板に数字が灯った。
ノゾミノカゼは三着だった。
美浦駿は、鞍上で顔を上げられなかった。
勝ち馬は、大牧場産らしい完成度をそのまま結果にした。
二着馬も、最後まで止まらなかった。
ノゾミノカゼは伸びていた。
だが、伸びたまま届かなかった。
朝倉隼人は掲示板を見ない。
戻ってくる脚。
息の入り方。
左前。
そこだけを見る。
美浦が下りた。
「先生。向こう正面、外の馬が来たところで、僕が半歩入れました」
「あとでだ」
「でも」
「先に脚だ。悔しさで腱は冷えない」
美浦の口が閉じた。
朝倉は左前に手を伸ばす。
膝下。
球節。
繋ぎ。
「強い熱はない。歩かせろ」
美浦は、手袋の中で拳を握ったまま頷いた。
◇ 鈴鹿視点
三着。
数字を見た瞬間、息が止まった。
悔しい。
ノゾは伸びていた。
最後まで伸びていた。
なのに、前の二頭には届かなかった。
私は袖を口へ持っていきかけて、止めた。
父さんの杖が鳴る。
こつ。
「噛むな。見る」
「見てる」
「何が見える」
「左前、置けてる。首は少し高い。息は荒い。でも、引きずってない」
声に出したら、目の奥が熱くなった。
「歩けてる」
母さんが私の背中に手を置いた。
「悔しい?」
「悔しい」
「私も」
母さんの手に力が入った。
「でも、歩いてる」
「うん」
父さんは帽子を握っていた。
「勝たなかった馬にも、見るところはある」
「……負けたって言ってよ」
「負けた」
父さんはノゾの脚から目を離さずに言った。
「でも、帰ってきた」
その言い方が、余計に悔しかった。
◇ 客観視点
検量前の通路で、美浦はもう一度頭を下げた。
「すみません。外の栗毛が来たところで、僕が我慢できませんでした」
朝倉はノゾミノカゼの汗の乾き方を見ていた。
「馬も行った」
「はい」
「お前だけじゃない。ノゾだけでもない。二人で早かった」
美浦の拳が、少しほどけた。
そこへ史門が来た。
腕を組み、ノゾミノカゼの背中を見る。
「負け方は悪くないです」
美浦が顔を上げる。
「三着で、悪くないって言えますか」
「言える。最後の二完歩、背中が落ちてない。左前も逃げてない。無理に勝ちに行って、フォームを捨てた負けじゃない」
史門は勝ち馬の方を一度見た。
「今日は、向こうの体が先にできていた。それだけです」
「それだけ、ですか」
「今は、です」
朝倉が短く頷いた。
「だから悔しがれ。だが、馬にぶつけるな」
美浦はノゾミノカゼの汗を見た。
「……はい」
◇ 望視点
負けた。
人間の数字は読めない。
でも、声で分かる。
三着。
勝っていない。
美浦さんが謝っている。
違う。
美浦さんだけじゃない。
俺も早かった。
外の馬が来た時、体が前へ行った。
勝ちたかった。
鈴鹿の大学も、春江さんの帳簿も、宗一郎さんの杖も、勝てば軽くなると思った。
馬房に戻ると、飼葉桶があった。
匂いはする。
食べられる。
でも、口が動かない。
鈴鹿の声が耳の奥で鳴った。
歩いて帰ってきて。
食べて。
水飲んで。
次の日も、ちゃんと立ってて。
俺は桶に鼻を寄せた。
一口。
噛む。
喉で止まる。
二口目で、顔を上げた。
飼葉が残る。
朝倉先生の足音が止まった。
「残したか」
美浦さんが答える。
「二口です」
「今夜、もう一度見る。左前も、食いも」
「はい」
俺は左前を静かに置き直した。
痛くない。
でも、飼葉桶の底に、負けた分が残っていた。




