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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第37話 2歳重賞へ

 ◇ 春江視点


 勝った翌々日から、電話の音が変わった。


 支払いの催促ではない。


 取材。

 見学。

 次走予定。

 馬主の話。

 知らない業者の提携話。


 同じ電話なのに、受話器が少し重い。


 春江は、電話の横に置いた紙を見た。


『即答しない』

『金額だけで返事しない』

『脚を見る』

『朝倉先生へ確認』


 赤鉛筆の跡が、何度もなぞられて濃くなっている。


 電話が鳴った。


「風見牧場です」


『岸部です』


 その声で、春江の指が紙の端を押さえた。


 岸部透。


 ノゾミノカゼを、まだ当歳だった頃に買おうとした男。


『やはり走りましたね』


 春江はすぐに返事をしなかった。


 売らなくてよかった。


 そう思う。


 でも、売っていれば、あの時の入学金も乾草代も、もっと楽だったかもしれない。


 その考えが、一瞬だけ爪の下に刺さった。


「……まだ一つ勝っただけです」


『ええ。だから連絡しました。一つ勝っただけで、周りは騒ぎますから』


 岸部は笑わなかった。


『次は、相手が変わりますよ』


 春江は、机の上に置いた次走予定表を見た。


 候補欄の一番上。


 二歳重賞。


 芝千六百。

 左回り。

 輸送あり。


 その横に、春江は小さく書いていた。


『使う理由』

『使わない理由』


『大牧場の馬も出てきます。馬体の出来も、調教時計も、今までとは違う』


「……教えてくださるんですか」


『買えなかった馬ですからね。見ていますよ』


 嫌味には聞こえなかった。


 悔しさに聞こえた。


「売る話なら、今は」


『違います。今日は買いません』


 岸部は、少し間を置いた。


『勝った馬を持つ家には、勝った馬の電話が来ます。気をつけてください』


 電話が切れたあとも、春江はしばらく受話器を置けなかった。


 机の端には、未払いの乾草代のメモがある。


 その横に、新しい紙。


『二歳重賞』


 勝ったのに、紙は減らない。


 むしろ増えていく。


 ◇ 鈴鹿視点


 大学の講義ノートの端に、私は小さく書いた。


『二歳重賞』


 先生は黒板に、若馬の成長と負荷の話を書いている。


 骨。

 筋肉。

 心肺。

 疲労の回復。


 ちゃんと講義の内容も書いている。


 でも、余白にノゾの名前を書いてしまう。


 隣の席の子が、スマホを見せてきた。


「これ、風見さんの実家の馬?」


 画面には、ノゾの写真があった。


『小牧場から現れた良血馬』

『次走は重賞か』


 その見出しを見た時、指が止まった。


 兄さんのことは書かれていない。


 それは少し安心した。


 でも、ノゾだけが勝手に遠くへ持っていかれる感じがした。


「うん。うちの馬」


「すごいじゃん。重賞って、勝ったらもっと有名になるんでしょ」


 私は曖昧に頷いた。


 有名になる。


 その言葉が、胸の中でうまく置けなかった。


 講義が終わったあと、母さんから写真が来ていた。


 次走予定表。


 その下に、母さんの字。


『出る理由』

『出ない理由』

『左前』

『食い』

『輸送』


 私はスマホを見たまま、袖口を握った。


 噛まない。


 でも、握った。


 勝ってほしい。


 それは本当だ。


 けれど、その一文を打つと、指が止まった。


『勝ってほしい』


 送信前に消す。


 少し考えて、私は母さんに返信した。


『夜、電話する』


 ◇ 望視点


 厩舎の朝は、風見牧場より乾いている。


 水桶の匂い。

 飼葉の匂い。

 隣の馬の鼻息。


 俺は飼葉桶に顔を入れた。


 食べる。


 勝ったあとも、食べる。


 左前は悪くない。


 けれど、体の奥にまだレースの熱が少し残っている。


 馬房の外で、朝倉先生と美浦さんの声がした。


「次走は、二歳重賞を候補に入れる」


 美浦さんが黙った。


「……もう重賞ですか」


「勝った馬は、勝ったなりの場所に置かれる」


「勝ちに行くんですよね」


 朝倉先生の足音が止まった。


「違う」


 その声だけで、美浦さんの肩が少し落ちたのが分かった。


「ここは勝ちに行くより、今の位置を知るレースだ」


 今の位置。


 その言葉が、耳に残った。


 俺は飼葉を噛むのをやめた。


 勝ちに行くより。


 いや、勝ちに行く。


 勝たなければ、牧場は楽にならない。


 鈴鹿の大学も、春江さんの帳簿も、宗一郎さんの杖も、全部が軽くならない。


 俺は桶へ顔を戻した。


 噛む。


 飲み込む。


 勝ちたい。


 それでも、左前を壊して勝っても意味がない。


 分かっている。


 分かっているのに、体の奥が前へ行きたがる。


 ◇ 客観視点


 朝倉隼人の調教ノートには、短い文字が並んでいた。


『反応早い』

『直線で行きたがる』

『美浦、促し早い』

『左前、レース後熱感なし』

『次走、格上相手』


 その横に、出走予定馬の一覧がある。


 大牧場産の馬の名前。


 父は一流種牡馬。

 母系も重賞馬を出している。

 育成牧場も、厩舎も、騎手も、隙が少ない。


 調教時計も良い。


 馬体写真では、二歳の夏を越えたばかりには見えないほど、首の付け根に厚みがあった。

 トモの張りも早い。


 完成度が高い。


 美浦駿は紙を見て、唇を少し結んだ。


「強いですね」


「今はな」


 朝倉はノートを閉じた。


「ノゾミノカゼは悪い馬じゃない。だが、まだ完成していない」


「勝てないってことですか」


「勝てないとは言っていない」


 朝倉は、美浦の手を見た。


 まだ若い手だ。


 勝った直後の手は、すぐ次の勝ちを欲しがる。


「勝ちだけを取りに行くと、負け方を間違える」


「負け方……ですか」


「この馬は、負け方も覚えないといけない」


 美浦は返事をしなかった。


 拳を握っている。


 朝倉はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


「その拳を、レースで手綱に出すな」


「……はい」


 馬房の中で、ノゾミノカゼが耳を動かした。


 ◇ 鈴鹿視点


 夜、厩舎のスタッフさんが電話をつないでくれた。


 画面はない。


 声だけだ。


「ノゾ、聞こえる?」


 向こうで、短く鼻を鳴らす音がした。


 私は机の上の紙を見た。


 二歳重賞。


 相手欄には、知らない馬の名前が並んでいる。


 でも、知らないのに怖い。


 調教時計。

 馬体重。

 血統。

 厩舎。


 ノゾより上に見えるものが、いくつもある。


「勝ってほしい」


 言ってしまった。


 袖口を握った指に力が入る。


 母さんが台所からこっちを見た。


 父さんの杖の音が、奥の部屋で止まった。


 私は息を吸い直した。


「でも、無理に勝たなくていい」


 向こうで、少し間が空いた。


 ノゾが聞いているのか、ただ音を聞いているだけなのかは分からない。


 私は続けた。


「歩いて帰ってきて。食べて。水飲んで。次の日も、ちゃんと立ってて」


 言葉にすると、勝ってほしいより長くなった。


「ごめん。注文多いね」


 向こうで、また鼻を鳴らす音がした。


 低くて、短い音。


 私は袖を離した。


「勝ってほしいよ」


 小さく言った。


「でも、帰ってきて」


 電話を切ったあと、私はノートの端に書いた。


『勝ってほしい』

『でも、無理に勝たなくていい』


 その下に、もう一行。


『帰る条件を見る』


 ◇ 望視点


 鈴鹿の声が切れたあとも、耳の奥に残っていた。


 勝ってほしい。


 その言葉で、体が熱くなる。


 でも、無理に勝たなくていい。


 その意味は、まだ全部は分からない。


 勝てば牧場は前へ進む。


 勝てば鈴鹿の道も、春江さんの帳簿も、少し軽くなる。


 なら、勝つべきだ。


 でも。


 歩いて帰ってきて。

 食べて。

 水飲んで。

 次の日も、ちゃんと立ってて。


 鈴鹿の注文は、勝つことより細かかった。


 俺は飼葉桶に顔を寄せた。


 一口、噛む。


 勝ちたい。


 でも、帰らなきゃいけない。


 その二つが、初めて同じ場所に並ばなかった。


 馬房の外で、朝倉先生の足音が止まる。


「食ってるか」


「食ってます」


「なら、次へ行ける」


 次。


 二歳重賞。


 初めて、明確に格上の相手と当たる。


 俺は桶から顔を上げた。


 勝った馬としてではなく、挑む馬として。


 次の風が、馬房の隙間から入ってきた。

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