第36話 兄が勝った日
◇ 鈴鹿視点
一着の数字が、掲示板に灯っていた。
ノゾミノカゼ。
一着。
私は袖で目元を拭こうとして、途中で手を止めた。
今日は兄さんの牧場ジャンパーじゃない。
自分の上着だ。
それなのに、また袖に逃げようとしていた。
鞄からハンカチを出す。
角をつかみ損ねて、膝の上に落ちた。
母さんが横から拾ってくれる。
「泣いていいわよ」
「泣いてない」
「じゃあ、鼻を拭きなさい」
「……うん」
ハンカチで目元を押さえた。
袖じゃない。
兄さんに止められる前に、自分で止めた。
「兄さん、見てたかな」
口から出たあとで、胸の奥が変なふうに詰まった。
父さんは掲示板を見ていなかった。
柵の向こうから戻ってくるノゾを見ていた。
勝った馬を見る顔じゃない。
歩いているか。
左前を引いていないか。
首が高すぎないか。
そこを見ている顔だった。
引き上げてきたあと、朝倉先生がノゾの左前に手を伸ばした。
膝下。
球節。
繋ぎ。
父さんの杖が、床に一度だけ触れた。
こつ。
「熱は」
「今のところ、強くは出ていません」
母さんが息を吐いた。
私は掲示板をもう一度見た。
一着。
でも、父さんはまだ掲示板を見ていない。
ノゾの額に、父さんの手が触れた。
長くは撫でない。
ただ、額の流星に指を置いた。
「よく帰った」
勝った、じゃなかった。
父さんは、そう言った。
私はハンカチを握りしめた。
ノゾが、鼻を少し鳴らした。
返事みたいだった。
◇ 望視点
勝った。
芝の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
美浦さんの手は震えていた。
俺の息も、まだ少し荒い。
でも、脚は残っている。
左前を置く。
痛くない。
もう一歩。
大丈夫だ。
鈴鹿が泣いている。
袖じゃない。
ハンカチを使っている。
それだけで、胸の奥が変なふうに熱くなった。
兄さん、見てたかな。
違う。
見ていたんじゃない。
走ったんだ。
俺が走った。
でも、伝えられない。
だから、鼻を鳴らすことしかできない。
宗一郎さんの手が、額に触れる。
「よく帰った」
勝ったことより先に、それを言われた。
俺は耳を少し倒した。
勝った。
帰った。
この二つを、同じ日に持って帰れた。
◇ 春江視点
家に帰ってから、春江は帳簿を開いた。
今日だけは、開きたくなかった。
でも、開かないと勝利が夢になる。
賞金。
預託料。
輸送費。
装蹄。
獣医確認。
未払いの乾草代。
数字を書いていく。
勝ったから、全部が消えるわけではない。
それでも、赤い線の横に、初めて黒い数字が入った。
春江は鉛筆を止めた。
事務所の壁には、古い写真がある。
望が作業着の袖をまくり、クラウンメアの前で笑っている写真。
「勝ったよ」
小さく言った。
写真の望は何も答えない。
代わりに、帳簿の横でスマホが震えた。
朝倉先生からだった。
『戻し後、左前熱感なし』
『水、少量摂取』
『飼葉、確認中』
『明朝、再確認』
春江は画面を二度読んだ。
水。
左前。
明朝。
勝利写真より先に、そこを読むようになっていた。
「助かります」
誰に言うでもなく、そう言った。
勝った翌日に、次の勝ちを言わない人だ。
春江は帳簿の余白に書いた。
『明朝、左前』
『勝った翌日こそ、見る』
◇ 宗一郎視点
宗一郎は、夜の厩舎通路に立っていた。
ノゾミノカゼの馬房は空だ。
朝倉厩舎にいる。
それでも、扉の傷は残っている。
仔馬だったノゾミノカゼが、鼻をぶつけた跡。
宗一郎は杖の先で、通路のコンクリートを軽く叩いた。
こつ。
音が返ってくる。
昔、望はここを走っていた。
呼べば来た。
呼ばなくても来た。
来なくていい時まで来た。
「望」
名前が出た。
宗一郎は扉の傷を見た。
「今日、勝ったぞ」
言ってから、口を閉じた。
馬房の傷は、望のものではない。
ノゾミノカゼがつけた傷だ。
それでも、すぐに言い直せなかった。
「お前に見せたかった」
それだけは、本当だった。
通路の奥から、クラウンメアが低く鼻を鳴らした。
高齢の母馬は、馬房の中で首をこちらへ向けている。
「聞こえたか」
クラウンメアは、もう一度鼻を鳴らした。
宗一郎は頷いた。
「坊やは、勝った」
クラウンメアの耳が少し動いた。
それだけだった。
宗一郎は、杖を握ったまましばらく立っていた。
◇ 鈴鹿視点
翌朝、大学へ行く前に、私は兄さんの作業着を見た。
クローゼットの端にかかっている。
母さんが洗って、畳めなくなって、ハンガーに戻した作業着。
袖口に、古い擦れがある。
昨日、私は袖ではなくハンカチを使った。
兄さんなら、たぶん何も言わない。
でも、少しだけ笑った気がする。
スマホが震えた。
母さんから、家族のグループに写真が送られていた。
勝利写真じゃない。
ノゾの左前。
『朝確認。熱感なし』
『常歩のみ』
『飼葉、摂食あり』
私は笑った。
兄さんに見せるなら、たぶんこれでいい。
「熱、ないって」
作業着に向かって、それだけ言った。
◇ 客観視点
風見牧場に、電話が増えた。
新聞社。
小さな競馬サイト。
昔の取引先。
知らない馬主。
そして、岸部透。
春江は電話の横に紙を置いた。
『即答しない』
『金額だけで返事しない』
『朝倉先生・史門さんへ確認』
『ノゾの脚を先に見る』
電話が鳴る。
「次走の予定だけでも教えていただけませんか」
「まだ決めていません」
「では、次は上のクラスも」
「左前の確認が先です」
春江は、そこで言葉を切った。
相手も少し黙った。
別の電話が鳴る。
「馬主さんはお決まりですか」
「まだお話しできる段階ではありません」
三度目の電話で、相手が少し笑った。
「勝った今が、一番いい時ですよ」
春江は受話器を持ったまま、親指の爪を押した。
白くなった爪を見てから、電話の横の紙に目を戻す。
『ノゾの脚を先に見る』
「今朝の左前を確認してからです」
電話の向こうが黙った。
春江は声を伸ばさなかった。
宗一郎は、事務所の奥で杖を膝に置いている。
鈴鹿は大学のノートを開き、新聞記事の切り抜きを挟んだ。
『小牧場生産馬ノゾミノカゼ、新馬戦快勝』
鈴鹿は、その横に赤ペンで一行書いた。
『左前、翌朝熱なし』
記事より小さい字だった。
でも、鈴鹿はそこに線を引いた。
昼前、史門から連絡が入った。
『次走の打診が来ています』
続けて、もう一文。
『相手は、今までとは違います』
事務所の中で、誰もすぐには喜ばなかった。
春江は、赤鉛筆を持った。
白い紙の一番上に書く。
『次走』
その下に、少し間を空けて、もう一行。
『使う理由。使わない理由。左前。食い。帰る条件』
ノゾは勝った。
でも、勝った次の日にも、紙は増える。
鈴鹿はノートを閉じなかった。
次は、勝った馬として見られる。
赤ペンの先が、紙に小さな点を作った。




