第35話 新馬戦
◇ 望視点
ゲートの中は、前より静かだった。
いや、音は多い。
隣の馬の鼻息。
鉄の床を叩く蹄。
後ろで動く人の靴音。
遠くの歓声。
でも、俺の中は前より狭くない。
入る。
立つ。
出る。
止まる。
それだけを、体の中で並べる。
美浦さんの手綱は短くない。
口を引かれない。
左前は、まだ熱くない。
扉の向こうに、芝の光が細く見える。
美浦さんの手が言った。
待て。
だから、待つ。
隣の馬が首を振った。
金具が鳴る。
背中が固まりかけた。
美浦さんの指が、ほんの少し緩む。
押さえない。
引かない。
俺は鼻から息を吐いた。
扉が開いた。
前へ。
一歩目。
芝が柔らかい。
二歩目。
左前で叩きつけない。
三歩目。
後ろ脚で押す。
行ける。
行きたい。
でも、全部は出さない。
前に一頭いる。
横にも一頭。
息が荒い。
若い馬の匂いがする。
外から被せられる。
美浦さんの手は、まだ動かない。
俺も動かない。
前半で勝ちに行かない。
朝倉先生の声は、ここにはない。
でも、手綱の長さに残っている。
コーナー。
体が外へ流れようとする。
左前に重さが来る。
ここで踏みすぎるな。
首を少し下げる。
背中を丸める。
後ろ脚を腹の下へ入れる。
内の馬の息が近い。
外の馬の蹄が少し乱れた。
美浦さんの膝が動く。
まだ。
まだ。
直線。
芝の光が広がる。
前の馬の尻尾が見える。
美浦さんの指が、一つだけ閉じた。
今だ。
俺は前へ出た。
左前を叩きつけない。
後ろから押して、前へ流す。
一完歩。
まだある。
二完歩。
前の馬に並ぶ。
三完歩。
抜く。
歓声が増えた。
でも、聞きに行かない。
脚を使い切るな。
美浦さんの手が、もう一度だけ促す。
俺は首を伸ばした。
ゴール板の影が、足元を抜けた。
その先で、まだ走れる。
でも、美浦さんの手が閉じた。
止まる。
俺はもう一歩だけ出て、息を吐いた。
左前は、残っている。
◇ 鈴鹿視点
ゴール板を過ぎた瞬間、周りが揺れた。
誰かが叫んだ。
知らない人の手が上がった。
掲示板に番号が出る前から、母さんの手が弁当包みを握りつぶしていた。
私は声を出せなかった。
袖口を噛みそうになって、歯を止める。
父さんの杖が、床を一度叩いた。
こつ。
それだけだった。
画面の中で、美浦騎手がノゾを止めている。
止まった。
歩いている。
左前を引きずっていない。
「歩いてる」
私の声が出た。
母さんが頷いた。
「歩いてる」
掲示板に、ノゾの番号が一番上に出た。
周りがまた騒いだ。
勝った。
ノゾが勝った。
でも、父さんは掲示板ではなく、画面の端を見ていた。
「戻ってこい」
父さんが言った。
「そこまでだ。戻ってこい」
私は袖口を握った。
ノゾの番号より、画面の中の四本の脚を見ていた。
◇ 客観視点
ノゾミノカゼは、一番人気ではなかった。
血統を知る者は見ていた。
坂路の噂を聞いた者もいた。
だが、小さな風見牧場の馬に大きな印を打つ者は少なかった。
レース後、観客席の声が変わった。
「どこの馬だ」
「今の脚、余ってなかったか」
「美浦、追いすぎてないぞ」
朝倉は、その声を聞いていないように見えた。
検量室前へ戻ってくる馬だけを見ている。
美浦駿は、派手に手を上げなかった。
ノゾミノカゼの首を一度だけ撫でる。
すぐ手を離す。
朝倉が言った。
「左前」
厩務員がすぐ触る。
膝下。
球節。
繋ぎ。
「今は熱、出ていません」
「歩かせて、もう一度見る」
朝倉は記録紙に書いた。
新馬戦、一着。
発進良好。
直線反応良。
追いすぎなし。
左前、直後熱感なし。
戻し後、再確認。
美浦が小さく息を吐いた。
「勝ちました」
「そうだな」
「でも、先生。まだ脚、残ってました」
朝倉は、記録紙から目を上げた。
「そこを覚えろ」
美浦は頷いた。
「残っている脚を、使いたくなりました」
「次にそれをやったら降ろす」
美浦の顔が引き締まった。
「はい」
朝倉はノゾミノカゼを見た。
「今日は、勝った日じゃない」
厩務員が飼葉桶を持ってきた。
「勝って、戻って、食えるかを見る日だ」
◇ 望視点
馬房へ戻ると、音が少し遠くなった。
歓声は壁の向こうにある。
俺の前には水桶がある。
鼻を近づける。
飲む。
少しだけ。
飲みすぎない。
朝倉先生の手が左前に来る。
また触る。
膝の下。
球節。
繋ぎ。
熱はない。
少し重い。
でも、痛くはない。
美浦さんが馬房の外に立っている。
まだ息が荒い。
俺より、人間の方が息を乱している。
俺は飼葉桶に顔を寄せた。
匂い。
食べられる。
一口。
噛む。
朝倉先生のペンが動いた。
俺はもう一口食べた。
鈴鹿。
掲示板は見えない。
でも、水桶は目の前にある。
飼葉桶もある。
俺は戻って、食べている。
左前も残っている。
そこを見ろ。
◇ 鈴鹿視点
母さんのスマホに、朝倉先生から報告紙の写真が届いた。
私は、一番上を見なかった。
見たら、泣く。
だから、下から読んだ。
『左前、戻し後熱感なし』
『水、少量摂取』
『終了後、摂食あり』
そこまで読んでから、ようやく一番上を見た。
『新馬戦 一着』
文字がにじんだ。
母さんが、弁当箱の包みを開いた。
「食べなさい」
「今?」
「今」
母さんは、おにぎりを一つ私に渡した。
「ノゾも食べた」
父さんが言った。
「なら、鈴鹿も食え」
私はおにぎりを受け取った。
海苔が少し湿っている。
指に米粒がついた。
私はそれを見て、やっと息を吸った。
「勝ったね」
小さく言った。
父さんは、杖を膝の前に置いた。
「ああ」
少し間を置いて、言った。
「帰ってきた」
私はおにぎりをかじった。
涙が落ちる前に、米を噛んだ。




