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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第34話 新馬戦の朝

 ◇ 春江視点


 春江は、弁当箱のふたを閉めた。


 おにぎり。

 卵焼き。

 小さな梅干し。


 競馬場で浮かれるための弁当ではない。

 鈴鹿が、何も食べずに帰ってこないようにするための箱だった。


 机の上には、今日の予定表がある。


 出発時刻。

 装鞍時刻。

 パドック。

 返し馬。

 発走時刻。


 その横に、別の紙。


 輸送後の体温。

 飼葉。

 水。

 左前。

 馬房での立ち方。


 春江は赤鉛筆で、最後の行に線を引いた。


 馬房での立ち方。


 宗一郎が杖を鳴らして、事務所に入ってきた。


「新聞は」


「買っていません」


「見ないのか」


「見たら、印を見るでしょ」


 春江は弁当箱を布で包んだ。


「今日は印じゃなくて、脚を見る日です」


 宗一郎は黙った。


 それから、予定表の端を指で押さえた。


「帰ってきたら、ここに丸をつける」


「勝ったら、じゃなくて?」


「帰ってきたら、だ」


 杖の先が、床を一度叩いた。


 ◇ 鈴鹿視点


 競馬場の朝は、人の声が早かった。


 売店のシャッター。

 警備員の靴音。

 遠くの馬運車のエンジン。


 私は入場証を首から下げて、母さんの後ろを歩いた。


 朝倉先生が許してくれた場所より先には行かない。

 それでも、装鞍所の空気は近かった。


 袖口は握っている。


 噛まない。


 父さんに言われたからじゃない。

 ノゾが見るかもしれないから。


 朝倉先生は、こちらに軽く頭を下げただけだった。


 笑わない。

 大丈夫とも言わない。


 そのかわり、紙を一枚渡してきた。


『輸送後確認』


 体温、異常なし。

 水、少量摂取。

 飼葉、半分以上摂取。

 左前、熱感なし。

 馬房内、四肢で立つ。


 私は、最後の行を読んだ。


「立ってる」


 母さんが、小さく頷いた。


「食べてもいる」


 父さんは、杖を握り直した。


「なら、まず一つ帰ってきている」


「まだ走ってないよ」


「走る前に、馬房から戻ってきている」


 私はもう一度、紙を見た。


 知らない場所に来て。

 立って。

 食べている。


 それだけで、もう一つ戻ってきている。


 袖口を握る指が、少し緩んだ。


 ◇ 望視点


 競馬場の馬房は、匂いが濃かった。


 知らない馬。

 乾いた藁。

 人の汗。

 遠くの砂。


 風見牧場でもない。

 朝倉厩舎でもない。


 ここは、走る馬が集まる場所だ。


 俺は飼葉桶に鼻を入れた。


 一口。

 もう一口。


 胸の奥は熱い。


 でも、口は動く。


 朝倉先生の手が左前に来る。


 膝の下。

 球節。

 繋ぎ。


「熱はない」


 厩務員が記録紙に書く。


 美浦さんが、馬房の外で手袋をはめていた。


 今日の美浦さんは、昨日より口数が少ない。


 手綱を見る。

 鐙を見る。

 俺の耳を見る。


 勝ちたい顔はしている。


 でも、勝ちたい手ではない。


 朝倉先生が言った。


「美浦」


「はい」


「直線で勝ちに行くな。馬が走ってから考えろ」


「はい」


「返事じゃない。手綱を見せろ」


 美浦さんは、手綱を持った。


 短くしない。

 指を固めない。


 朝倉先生が頷いた。


「それでいい。出してから詰めるな。詰めるなら、馬が脚を残している時だけだ」


 俺は耳を動かした。


 脚を残す。


 今日も、それだ。


 だから、飼葉をもう一口噛んだ。


 ◇ 客観視点


 パドックに、ノゾミノカゼが出てきた。


 観客の声が、少しだけ変わる。


「いい馬だな」

「新馬でこれか」

「風見牧場って、あの小さいところ?」


 まだ誰も、大きく評価していない。


 だが、馬を見る人間の目は止まった。


 首の使い方。

 背中の緩み。

 左前の置き方。


 朝倉は、輪乗りの外でそれだけを見ていた。


 美浦駿は、まだ乗っていない。


 手袋をはめたまま、ノゾミノカゼの歩きを見ている。


 史門が近づいてきた。


「気配は」


 朝倉は短く答えた。


「食ってる。立ってる。左前も今はいい」


「勝ち負けは」


「今聞くな」


 史門は記録紙にそのまま書いた。


 勝ち負けは、今聞かない。


 ◇ 鈴鹿視点


 パドックの柵の向こうに、ノゾがいた。


 大きく見えた。


 でも、私が知っているノゾだった。


 耳を動かす。

 鼻を鳴らす。

 左前を置く時だけ、ほんの少し間がある。


 柵を握りそうになって、手を止めた。


 袖口を握る。


 柵の向こうで、ノゾの耳が一度だけこちらへ向いた。


 私の顔を見たわけじゃない。


 たぶん、袖を丸めた手が見えただけ。


「ノゾ」


 声は小さかった。


 届かないくらいでいい。


 届いたら、走る前に余計なものを背負わせる。


 母さんが隣で弁当箱の包みを握っていた。


 父さんは、杖を前に置いて立っている。


「勝ってほしい?」


 私が聞いた。


 父さんは少し黙った。


「勝てるなら、勝て」


 それから、言い直した。


「でも、脚を使い切るなら、負けて帰ってこい」


 母さんが目を伏せた。


 私は袖口を強く握った。


 ◇ 望視点


 パドックを歩く。


 人の声が輪になって降ってくる。


 その中に、鈴鹿の匂いはない。


 柵の向こうに、袖を丸めた白い手が見えた。


 鈴鹿だと、耳が先に決めた。


 俺は耳だけ向けた。


 鳴かない。

 駆け寄らない。


 今日は、馬としてここにいる。


 朝倉先生の声が低く落ちる。


「美浦、跨れ」


 美浦さんが近づく。


 手は軽い。


 足が鐙にかかる。


 背中に重さが乗る。


 昨日より、体が硬くならない。


 美浦さんの手綱も、昨日より固くない。


「行くぞ」


 地下馬道へ向かう。


 暗い通路。


 前の馬の蹄音。


 遠くの芝の光。


 胸が熱くなる。


 走りたい。

 走れる。


 でも、左前を残す。


 鈴鹿の袖を、最後まで握らせたままにするために。


 美浦さんの手が、俺の口を引かずに前を向ける。


 芝の光が、通路の先で揺れている。


 俺は左前を一度だけ確かめて、もう一歩進んだ。

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