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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第33話 ゲート試験

 ◇ 望視点


 ゲートは、今日初めて見るものじゃなかった。


 朝倉先生は、入厩してから毎朝、俺を鉄の枠の方へ歩かせた。


 近づくだけの日。

 横を通るだけの日。

 扉の音だけ聞く日。


 中には入らない。


 人も急がない。


 鉄の匂いを、少しずつ厩舎の匂いの中に混ぜてきた。


 今日は、その最後に試験がある。


 ゲートの前に立つ。


 鉄の床。

 横の壁。

 前の扉。

 金具の音。


 人間だった頃、何度も見た場所だ。


 でも、馬の体で前に立つと違う。


 狭い。

 音が近い。

 左右の壁が、俺の肩を見ている。


「今日は勝つために出るんじゃない」


 朝倉先生の声。


 美浦さんが俺の横で頷いた。


「入って、立って、出て、止まる」


「そうだ。出たあとに左前を見ろ」


 俺は耳を動かした。


 左前。


 痛いわけじゃない。


 でも、使い切れば残る。


 美浦さんの手綱は短くない。


 朝倉先生の声が後ろから来る。


「先に入るな」


 分かっている。


 分かっているから、危ない。


 俺は人の息を読みすぎる。


 だから、待つ。


 美浦さんの踵が、軽く触れた。


 そのあとで、一歩。


 ゲートの中へ入る。


 こつん。


 前脚が鉄の床を踏む。


 二歩目。


 後ろ脚が入る。


 狭い。


 でも、壁には当たらない。


 美浦さんの膝が、俺の横で動かない。


 手綱も動かない。


「立て」


 立つ。


 首を上げない。

 尻尾を振らない。

 後ろへ下がらない。


 扉の向こうに、空が細く見えた。


 金具の音。

 人の足。

 隣の枠の馬の鼻息。


 背中が固まりかける。


 その時、美浦さんの指が少しだけ緩んだ。


 押さえない。

 引かない。


 俺は息を吐いた。


 扉が開いた。


 前へ出られる。


 飛び出せる。


 でも、飛ばない。


 一歩目を置く。


 二歩目で、土を噛む。


 三歩目で、美浦さんの体が俺の動きに乗る。


 ためらわずに出た。


 でも、脚は全部使っていない。


「そこまで」


 朝倉先生の声が飛ぶ。


 美浦さんの手が少し閉じる。


 俺は止まった。


 前へ行ける。


 まだ行ける。


 でも、止まった。


 左前に嫌な熱はない。


 胸は熱い。


 脚は残っている。


 ◇ 客観視点


 朝倉は、ゲートの横で時計を見なかった。


 見ていたのは、ノゾミノカゼの耳と前脚だった。


 入る時、耳は前を向いた。

 中で、首は上がりかけた。

 扉が開いた瞬間、体は前へ出た。


 だが、暴れてはいない。


 後ろへ下がらない。

 扉にぶつけない。

 出たあと、手綱で止まれる。


 美浦駿が馬上で息を吐いた。


「もう一回ですか」


「今のは試験前の確認だ」


 朝倉は記録紙に書いた。


 入る。

 立つ。

 出る。

 止まる。


「次が本番だ。勝ちに行くな」


「はい」


「早く出すな。遅くもするな。馬が扉を嫌わない速さで出せ」


 美浦は手袋を握り直した。


 ノゾミノカゼの首を、軽く撫でる。


 すぐに手を離した。


「長く撫でるな。今は褒めすぎても背中が固まる」


「はい」


「返事より手を軽くしろ」


 美浦は手綱を持ち直した。


 ノゾミノカゼは、もう一度ゲートを見る。


 逃げる顔ではなかった。


 ただ、覚えている顔だった。


 ◇ 鈴鹿視点


 母さんのスマホが鳴ったのは、講義が終わったあとだった。


 私は廊下の端で立ち止まった。


 今日、ノゾはゲート試験を受ける。


 届いたのは、また報告紙の写真だった。


『試験前確認』

『入る、立つ、出る、停止』

『首上げかけ。後退なし』

『左前、終了後熱感なし』

『このあと試験』


 私は最後の行で止まった。


 このあと試験。


 手は袖口を探した。


 握る。


 噛まない。


 父さんなら、たぶん言う。


 試験の字より、左前を見ろ。


 私は報告紙の写真を拡大した。


『左前、終了後熱感なし』


 そこに親指を置いた。


 ノゾ。


 出ても、残して。


 勝つみたいに出なくていい。


 ちゃんと止まって。


 スマホがもう一度震えた。


『今、試験に入るそうです』


 私は返信欄を開いた。


 何も打てなかった。


 代わりに、ノートの端に書いた。


『入る』

『立つ』

『出る』

『止まる』


 四つ書いて、最後に一つ足す。


『食べる』


 ◇ 望視点


 二回目のゲートは、一回目より怖かった。


 知っているからだ。


 鉄の床。

 横の壁。

 前の扉。

 開く音。


 全部、さっき背中に入った。


 美浦さんの手が軽い。


 でも、緩すぎない。


 俺の首が上がる前に、指が少しだけ待つ。


 急がない。


 俺も待つ。


 合図が来る。


 入る。


 ゲートの中で、息を止めない。


 鼻から吐く。


 前の扉を見る。


 横の壁を見ない。


 美浦さんの膝が動かない。


 朝倉先生の声も動かない。


「そのまま」


 そのまま。


 人間の言葉は短い。


 でも、馬の体には長い。


 扉が鳴った。


 開く。


 前へ。


 俺は出た。


 ためらわずに出た。


 でも、左前で地面を叩きつけない。


 後ろ脚で押して、前へ流す。


 美浦さんの手が、口を引かずに道を作る。


 一完歩。

 二完歩。

 三完歩。


「止めろ」


 美浦さんの指が閉じる。


 俺は、もう一歩だけ出た。


 それから止まった。


 止まれた。


 鼻から熱い息が落ちる。


 左前に、嫌な熱はない。


 俺は土の上で立った。


 スターターの声がした。


「合格です」


 意味は分かる。


 でも、俺の体が覚えたのは、その言葉じゃない。


 入った。

 立った。

 出た。

 止まった。


 そして、まだ脚が残っている。


 ◇ 客観視点


 朝倉は、合格の言葉を聞いても笑わなかった。


 美浦駿も、ガッツポーズをしなかった。


 ノゾミノカゼの左前に触れる。


 次に、右前。


 後ろ脚。


 息。


 背中。


「熱は」


 厩務員が触る。


「今は出ていません」


「馬房に戻して、もう一度見る」


 朝倉は記録紙に書いた。


 ゲート試験、合格。

 後退なし。

 発進後、制御可。

 左前、直後熱感なし。

 戻し後、再確認。


 美浦が、記録紙を見た。


「合格って、大きく書かないんですか」


「書かない」


 朝倉はペンを止めない。


「大きく書くのは、馬房で食ってからだ」


 美浦は頷いた。


「はい」


 ノゾミノカゼは、厩舎へ戻った。


 馬房に入る。


 水桶に鼻を近づける。


 少し飲む。


 飼葉桶に顔を寄せる。


 一口。


 噛む。


 朝倉が、そこでようやく記録紙の下に一行足した。


 終了後、摂食あり。


 その横に、小さく書く。


 合格。


 美浦は、その小さな二文字を見て、息を吐いた。


 ◇ 鈴鹿視点


 母さんから届いた写真には、赤い丸がなかった。


 大きな文字もなかった。


 報告紙の下に、小さく二文字。


『合格』


 私は廊下の壁に背中をつけた。


 声を出したら、泣く。


 だから、息だけ吐いた。


 続けて届いた写真には、もう一行あった。


『終了後、摂食あり』


 私は、その行を見てから、ようやく笑った。


 合格より先に、食べた。


 ノゾは、ゲートを出たあとも食べた。


 私はノートを開いた。


 さっき書いた四つの言葉の下に、もう一つ書く。


『食べた』


 文字が少し曲がった。


 でも、消さなかった。


 父さんに送る。


『ノゾ、合格。食べた』


 返事はすぐだった。


『よし。食べたならいい』


 私はスマホを胸に当てた。


 廊下の窓に、午後の光が入っている。


 その光の中で、袖口を握る指を少しだけ緩めた。

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