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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第32話 騎手との初対面

 ◇ 望視点


 朝倉厩舎で迎える朝は、風見牧場の朝と違った。


 馬の声が近い。

 水桶の音が多い。

 人の足音が、通路を何度も行き来する。


 俺は飼葉桶に鼻を近づけた。


 一口。

 もう一口。


 昨日は、入って立つだけでよかった。


 今日は、食べたかどうかを見られている。


「飼葉は減ってるな」


 朝倉先生の声。


「水は」


「夜の線から、指二本分くらい減っています」


 厩務員が答える。


「左前」


「昨日より熱は軽いです。触った時の嫌がりもありません」


 朝倉先生の手が脚に来る。


 膝の下。

 球節。

 繋ぎ。


 痛くはない。


 俺は耳だけ動かした。


 そこへ、知らない足音が来た。


 軽い。


 でも、浮いていない。


 通路の途中で止まらない。

 馬房の前まで、まっすぐ来る足音だ。


「美浦駿です」


 若い声だった。


 俺は顔を上げた。


 細い体。

 短く切った髪。

 手には手袋。


 騎手。


 俺の背中に乗る人間。


 朝倉先生が言った。


「今日は時計の話をするな」


「はい」


「新馬戦の話もするな」


「はい」


「自分が落ちないように、先に手綱を握るのもやめろ」


 美浦さんの手が止まった。


「……では、今日は何を見ますか」


「乗ったあとに食うか。左前が熱を持たないか。馬房に戻って四本で立てるか」


 朝倉先生は、俺の脚をもう一度触った。


「この馬は前へ出る。だから、出したあとに戻せるかを見る」


 美浦さんは黙った。


 俺は鼻を鳴らした。


 この人は、すぐ俺を褒めなかった。


 それが少しだけよかった。


 ◇ 客観視点


 美浦駿は、馬房の前で手袋をはめ直した。


 朝倉厩舎の調教にも乗る若手騎手だ。


 朝倉は扉の横に立っている。


 厩務員は水桶を片づけず、飼葉桶の減りだけを記録紙に書いた。


「触っていいですか」


 美浦が聞く。


「手の甲から出せ。指を鼻先に突っ込むな」


 朝倉が答えた。


 美浦は、手の甲をノゾミノカゼの鼻先へ出した。


 指を伸ばしすぎない。

 顔へ急に行かない。

 まず、匂いを渡す。


 ノゾミノカゼは鼻を近づけた。


 手袋の匂い。

 汗。

 革。

 別の馬の毛。


 鼻先が触れる。


 美浦は動かなかった。


 朝倉が言った。


「今、動かなかったのはいい」


「馬が、ですか」


「お前だ。鼻が触れた瞬間に撫でに行かなかった」


 美浦は息を止めて、それから小さく頷いた。


「次も手を待ちます」


「そうしろ。謝るより、次で同じことをしろ」


 朝倉は馬房の中を見た。


「この馬は、手綱が動く前に首を上げる。騎手が先に握ると、背中が固まる」


 美浦はノゾミノカゼを見た。


「こちらが先に手綱を詰めない」


「そうだ」


 朝倉は扉を開けた。


「出す。今日は走らない。背中に人を乗せて、厩舎前を歩けるかを見る」


 美浦が頷いた。


「常歩だけですね」


「一回だけだ」


 ◇ 望視点


 鞍が来た。


 走るための鞍ではない。


 今日は、人を背中に乗せて歩けるかを見るための鞍だ。


 腹帯が締まる。


 一穴。

 もう一穴。


 息を吐く。


 締められる前に腹を固めるな。


 朝倉先生の声が飛ぶ。


「待て。腹が固い。手を止めろ」


 厩務員の手が止まる。


 俺は鼻から息を出した。


 腹の下が少し緩む。


「今だ。もう一穴」


 腹帯が決まる。


 美浦さんは、すぐ乗らなかった。


 鐙を見る。

 手綱を見る。

 俺の耳を見る。


 それから、左側に立った。


「左から乗ります」


「足を掛けても、すぐ上がるな」


「はい」


 足が鐙にかかる。


 体重が片側に乗る。


 背中が反応する。


 左へ逃げたい。


 でも、朝倉先生の手が前にある。


 美浦さんは、そこで止まった。


 全部乗ってこない。


 片足だけ。

 半分だけ。


 俺は息を吐いた。


 そのあと、美浦さんの体が静かに上がった。


 背中に重さが乗る。


 軽い。


 でも、人だ。


 鞍とは違う。


 布とも、パッドとも違う。


 美浦さんの膝が、俺の腹の横にある。


 手綱は短くない。


 口を引かれない。


「歩かせる。合図まで待て」


 朝倉先生の声。


 合図が来る。


 今度は、人より先に出ない。


 一歩。


 敷料ではない。


 通路の床。


 二歩。


 背中の重さが少し動く。


 三歩。


 美浦さんの手が、俺の動きを追っている。


 押さえない。

 引かない。

 合わせてくる。


 俺は耳を動かした。


 この人は、まだ勝とうとしていない。


 ◇ 鈴鹿視点


 母さんのスマホには、動画の再生ボタンがなかった。


 届いたのは、報告紙の写真だけだった。


 初めて騎手が跨った日の写真はない。


 鞍の写真もない。


 背中に人が乗った瞬間も、写っていない。


 紙だけ。


『美浦駿騎手、初対面』

『手の甲から接触。馬、鼻先確認』

『騎乗一回。厩舎前を常歩のみ』

『手綱を詰めず、馬の首上げなし』

『終了後、飼葉確認』


 私は最後の行で指を止めた。


 終了後、飼葉確認。


 乗った。

 歩いた。

 それでも、食べたかを見る。


 父さんが横から覗いた。


「勝てそうとは書いてないな」


「うん」


「いい紙だ」


 母さんが赤鉛筆を持った。


 線を引いたのは、そこだった。


『手綱を詰めず、馬の首上げなし』


 私は聞いた。


「騎手さん、どんな人かな」


 母さんは写真の端を見た。


 馬房の前に、少しだけ写った手袋。


「手袋しか写ってないわね」


 父さんが言った。


「それでいい。最初から顔が大きく写る騎手より、手袋だけでいい」


 私は少し笑った。


 でも、すぐ報告紙へ目を戻した。


 ノゾの背中に、人が乗った。


 兄さんではない誰かが、ノゾの背中に乗った。


 胸の奥が少しざらついた。


 でも、紙の最後には、飼葉確認。


 私はノートに書いた。


『乗ったあと、食べたか』


 その横に、小さく足す。


『騎手より先に、ノゾを見る』


 ◇ 客観視点


 常歩は、厩舎の前の短い通路だけで終わった。


 美浦駿は、降りたあとすぐに口を開かなかった。


 手袋を外す。

 右手の親指を一度曲げる。

 それから、朝倉を見る。


「前へ出る力があります。でも、手綱を短くした瞬間に背中が固まりそうです」


 朝倉は頷いた。


「ほかは」


「こっちが勝ちに行く形を作ると、首が先に動きます」


「どうする」


「追い出す合図を早く出しません。手綱を先に詰めません」


 朝倉の目が少し細くなった。


「今のところは、それでいい」


 美浦は、ノゾミノカゼの方を見た。


 厩務員が腹帯を緩めている。


 ノゾミノカゼは首を振らない。

 尻尾も大きく振らない。

 耳だけが美浦の方へ向いている。


「先生」


「何だ」


「前へ出る力が、かなりあります」


「それで」


 美浦は言葉を飲み込んだ。


 少し考える。


「止めるのが遅れたら、左前まで使い切ります」


 朝倉は、そこで初めて小さく頷いた。


「それを忘れるな」


 厩務員が飼葉桶を置いた。


 ノゾミノカゼが鼻を近づける。


 一口。


 噛む。


 朝倉は記録紙に書いた。


『騎手初騎乗。厩舎前を常歩のみ。終了後、摂食あり』


 その下に、もう一行。


『美浦駿、手綱を先に詰めないこと』


 美浦は、その字を見てから、深く頭を下げた。

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