第31話 入厩
◇ 望視点
朝倉先生は、俺の顔より先に脚を見た。
黒い長靴。
細い指。
短い声。
膝の下。
球節。
繋ぎ。
蹄の縁。
順番に触っていく。
「左前、少し熱が残りやすそうだな」
牧野さんが頷いた。
「坂路の後は、毎回触っています」
「触っただけで終わらせるな。記録は」
記録紙が渡された。
朝倉先生は、褒めなかった。
紙を見る。
赤線で止まる。
もう一度読む。
「脚を使い切っていない、か」
そこだけ声に出した。
俺は耳を動かした。
この人は、速いと言わない。
勝てるとも言わない。
まず、脚を見る。
次に、背中へ手が来た。
押す。
離す。
もう一度、押す。
痛くはない。
でも、楽でもない。
「背中は使える。ただ、先に読ませると硬くなる」
史門さんが言った。
「人の指示を先に読みます」
「利口じゃない。疲れる癖だ」
朝倉先生の声は硬い。
でも、嫌な硬さじゃない。
俺は鼻を鳴らした。
疲れる癖。
人間だった頃の俺なら、褒めていたかもしれない。
反応が早い。
扱いやすい。
頭がいい。
でも、馬の体では違う。
先に読むと、背中が固まる。
首が先に動く。
脚が遅れる。
朝倉先生は、俺の目の前で手を上げた。
俺は動かなかった。
手が下がる。
まだ動かない。
牧野さんの指が動いた。
そこで、一歩出した。
朝倉先生の眉が少しだけ動く。
「今のはいい」
それだけだった。
短い。
でも、俺の背中は少し緩んだ。
◇ 客観視点
朝倉隼人は、ノゾミノカゼの周りを一周した。
血統の話をしない。
坂路の時計も聞かない。
大きな声も出さない。
脚。
背中。
首。
目。
人の手への反応。
その順に見た。
若いスタッフは、横で記録紙を持っている。
史門が聞いた。
「どう見ますか」
朝倉は、ノゾミノカゼの左前にもう一度触れた。
「入れる」
若いスタッフの肩が動いた。
だが、朝倉は続けた。
「ただし、急がない。入れてすぐ時計を出さない。ゲートも詰めない」
「最初は何を見ますか」
史門が聞く。
「食うか。寝るか。脚が熱を持たないか」
朝倉は、記録紙を指で叩いた。
「新馬戦の話は、まだするな」
若いスタッフが口を閉じた。
「厩舎へ入れば、馬は変わる。水も、人も、音も変わる。そこで崩れる馬はいる」
牧野が記録紙を出した。
「条件を書きます」
「書いておけ」
朝倉はノゾミノカゼを見た。
「この馬は、走らせる価値がある」
そこで一度、言葉を切る。
「壊さずに帰す価値もある」
史門は、その言葉を記録紙の端に書いた。
◇ 鈴鹿視点
入厩。
母さんが、その二文字をノートに書いた。
朝倉先生からの連絡は、史門さん経由で届いた。
『入れる。ただし急がない』
母さんは、その文を二回読んだ。
父さんは、杖を膝の前に立てていた。
「入るのか」
「うん」
私が答えると、父さんは目を伏せた。
「売らないだけじゃなくなったな」
「うん」
机の端には、岸部さんの名刺がまだある。
でも、真ん中には置かれていない。
真ん中にあるのは、移動予定の紙。
育成牧場から、朝倉厩舎へ。
日付。
時刻。
持っていく馬具。
健康確認。
到着後の連絡先。
母さんが、一つずつ線を引く。
「鈴鹿、行く?」
「行く」
即答した。
母さんは止めなかった。
父さんが言った。
「泣くなよ」
「無理」
「なら、馬運車の前では袖を噛むな。ノゾが見る」
私は袖口を握った。
噛む前に、手の中で丸める。
「分かった」
◇ 望視点
馬運車の匂いは、もう知っている。
でも、今日は違う。
戻るための馬運車じゃない。
入るための馬運車だ。
鈴鹿がいた。
目元が赤い。
でも、泣いてはいない。
袖口を手の中で丸めている。
噛んでいない。
俺は鼻を伸ばした。
鈴鹿の指に、少しだけ触れる。
「ノゾ」
声が震えた。
俺は鳴かなかった。
鳴けば、鈴鹿が崩れる。
だから、鼻先を手の甲に押しつけるだけにした。
「行ってらっしゃい」
違う。
俺は帰る。
そう言えない。
だから、馬運車の中へ一歩入った。
二歩目で、床が鳴る。
後ろの扉が閉まる。
鈴鹿の顔が、細い隙間の向こうで小さくなる。
俺は脚を動かさなかった。
ここで暴れたら、鈴鹿が泣く。
だから、床を踏む。
揺れが来る。
牧場の匂いが後ろへ流れていく。
クラウンメアの息。
事務所の紙の匂い。
宗一郎さんの杖の音。
鈴鹿の袖の感触。
それらが揺れの向こうへ下がっていく。
俺は床を踏んだ。
鼻先には、まだ鈴鹿の手の匂いが残っていた。
◇ 客観視点
朝倉厩舎の馬房には、新しい敷料が入っていた。
水桶。
飼葉桶。
馬房札。
そこに、新しい文字がある。
ノゾミノカゼ。
鈴鹿は、史門と朝倉の許可を受けて、馬房の外に立っていた。
馬運車から降りたノゾミノカゼは、一度だけ首を高くした。
知らない匂い。
知らない馬の声。
遠くの調教コースから響く蹄の音。
朝倉は手を上げなかった。
急がせない。
ノゾミノカゼは、自分で馬房の入口を見る。
一歩。
敷料を踏む。
もう一歩。
中へ入る。
すぐには食べない。
水桶に鼻を近づける。
離す。
馬房の壁に鼻を寄せる。
耳を動かす。
朝倉が言った。
「今日はこれでいい」
鈴鹿が、馬房の外で息を止めていた。
「まだ何もしてません」
朝倉は、ノゾミノカゼを見たまま答えた。
「入った」
その一言で、鈴鹿の目に涙がたまった。
「入って、立っている。今日はそれで十分だ」
鈴鹿は袖口を握った。
今度は噛まなかった。
馬房札の下で、ノゾミノカゼは四本の脚をそろえた。
遠くで蹄音が鳴る。
ノゾミノカゼは、敷料を踏み直した。




