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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第30話 この馬は走らせる

 ◇ 春江視点


 春江は、机の真ん中に白い紙を置いた。


 岸部透の名刺ではない。

 ノゾミノカゼの報告紙でもない。


 まっさらな紙。


 そこに、赤鉛筆で見出しを書く。


 入厩。

 競走馬登録。

 馬主。

 預託契約。

 輸送。

 保険。

 休ませる金。


 最後の五文字で、鉛筆の芯が少し削れた。


 鈴鹿は、シャープペンを持ったまま黙っている。


 宗一郎は、杖を膝の前に立てていた。


「史門さんに電話するわ」


 春江が言うと、宗一郎が頷いた。


「金から聞け」


「最初から?」


「最後に聞くと、聞かなかったことにしたくなる」


 春江は通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音のあと、史門が出る。


『三浦です』


「風見です。昨日の件で、相談があります」


『岸部さんの話ですね』


 春江の指が止まった。


「早いですね」


『牧野から、今日電話があると思う、とだけ聞きました』


 春江は息を吐いた。


「売りません。少なくとも、今は」


『はい』


「その上で聞きます。ノゾミノカゼを走らせるには、何が要りますか」


 電話の向こうで、一拍だけ間が空いた。


『紙、ありますか』


「あります」


『分けてください。入厩。競走馬登録。馬主。預託契約。輸送。保険。あと、休ませる金』


 鈴鹿がすぐに書き始めた。


 入厩。

 競走馬登録。

 馬主。

 預託契約。

 輸送。

 保険。

 休ませる金。


 最後の文字だけ、少し大きい。


「休ませる金、ですか」


『予定外に疲れた時の放牧費。脚元が熱を持った時の検査代。使わないレースの登録料を捨てる覚悟。その金です』


 宗一郎の杖を握る手が動いた。


「厳しいな」


 春江はスマホを少し傾けた。


『厳しいです。走る馬ほど、早く使わせたい人が増えます』


 鈴鹿の手が止まった。


 春江は紙の端に、赤鉛筆で線を引く。


 早く使わせたい人。


「馬主の名義は」


『そこは曖昧にできません。名義だけ借りる形は駄目です』


 史門の声が少し固くなった。


『誰の馬として登録するのか。そこを曖昧にしたら、朝倉先生は首を縦に振りません』


「岸部さんに売る以外で、道はありますか」


『あります。ただし、金も書類も増えます』


 春江は封筒を見た。


 育成費。

 装蹄。

 獣医確認。


 金も書類も増える。


 その言葉は、封筒の厚みと同じだった。


『朝倉先生に一度見てもらいましょう』


 史門が言った。


『入厩させるかどうかは、そのあとです。まず、調教師の目で見る』


「朝倉先生は、受けてくれますか」


『走る馬なら見る人です。でも、無理に使う人ではありません』


 鈴鹿が顔を上げた。


「無理に使わない?」


 春江は、スマホを鈴鹿の方へ向ける。


『はい。脚を痛めず、馬房へ戻れるかを見る人です』


 鈴鹿は、紙に小さく書いた。


 脚を痛めず、馬房へ戻れるか。


 春江はその字を見た。


 兄の字とは違う。

 でも、右端だけ少し跳ねていた。


 ◇ 宗一郎視点


 宗一郎は、紙の項目を見ていた。


 入厩。

 競走馬登録。

 馬主。

 預託契約。

 輸送。

 保険。

 休ませる金。


 どれも金がかかる。


 どれも、岸部の名刺一枚で消えるものだった。


 だが、机の真ん中には名刺を置いていない。


 置いてあるのは、ノゾミノカゼの報告紙だ。


 軽坂路。

 追わず。

 途中で息を入れる。

 上がりでフォーム維持。

 脚を使い切っていない。


 宗一郎は、その最後の行を指で押さえた。


「史門さん」


 春江がスマホをこちらへ寄せる。


「宗一郎です」


『はい』


「俺は、望に紙を渡しすぎた」


 鈴鹿が息を止めた。


「金の紙も、馬の紙も、あいつに渡した。渡して、俺は椅子に座っていた」


 春江は何も言わない。


 宗一郎は、杖を握り直した。


「今度は、先に紙へ出す。春江にも、鈴鹿にも、隠さん」


『それがいいと思います』


「走らせるなら、止める条件も先に書く」


 鈴鹿のシャープペンが止まった。


「脚に熱が出たら休む。食いが落ちたら使わない。走ったあと、馬房で立ち方が崩れたら次を考える」


 電話の向こうで、史門が小さく息を吐いた。


『そこまで書くなら、朝倉先生に話せます』


 宗一郎は、杖を床につけた。


 こつ。


「なら、話してくれ」


『分かりました』


「ただし」


 宗一郎は、報告紙の最後の行から指を離さなかった。


「勝った数だけ見る人なら、断る」


 史門はすぐに答えた。


『それなら、朝倉先生でいいです』


 ◇ 鈴鹿視点


 私は、ノートに項目を書き写した。


 入厩。

 競走馬登録。

 馬主。

 預託契約。

 輸送。

 保険。

 休ませる金。


 休ませる金。


 その文字を、もう一度なぞる。


 勝つためのお金だけじゃない。

 熱を測るお金。

 検査するお金。

 放牧に出すお金。

 出るはずだったレースをやめるお金。


 昨日の岸部さんの名刺は、封筒の上に置かれている。


 机の端だ。


 真ん中にはない。


「売らないって決めたのに、まだ置いておくの?」


 私が聞くと、母さんは頷いた。


「捨てたら、見ないふりになる」


「見ないふり?」


「売れば楽になる。その事実は消えない」


 父さんが言った。


「でも、真ん中には置かない」


 私は、名刺と報告紙を見比べた。


 薄い名刺。

 少し折れた報告紙。


 報告紙の端には、母さんの赤線。


 脚を使い切っていない。


 私はその横に、小さく書いた。


『使い切らないで走る』


 母さんは何も言わなかった。


 父さんも、何も言わなかった。


 スマホから史門さんの声が続く。


『朝倉先生に連絡します。返事が来たら、こちらから電話します』


「お願いします」


 母さんが言った。


 通話が切れた。


 私はノートを閉じなかった。


 閉じたら、この項目がまた遠くなる気がした。


「鈴鹿」


 父さんが言った。


「進学の紙も、ノゾの紙も、どちらも机に置く」


「うん」


「どちらかを隠して、どちらかを選ぶな」


 私は袖口を握った。


「どっちも見るの、苦しい」


「苦しいな」


 父さんは、すぐに認めた。


「でも、苦しいって紙に書いておけば、次に見た時に逃げにくい」


 私はノートの下に書いた。


『苦しい』


 その横に、もう一つ書く。


『でも、見る』


 ◇ 春江視点


 夜、史門から折り返しの電話が来た。


 春江は、鈴鹿と宗一郎を呼んだ。


 机の上には、さっきの紙が残っている。


 入厩。

 競走馬登録。

 馬主。

 預託契約。

 輸送。

 保険。

 休ませる金。


 どれも消していない。


「はい、風見です」


『史門です。朝倉先生に話しました』


 春江は、赤鉛筆を持った。


『一度、直接見たいそうです』


 鈴鹿の手が止まる。


 宗一郎の杖も鳴らない。


『ただし、先に条件を確認したいと』


「条件?」


『脚元を見る。背中を見る。気性を見る。今の時点で入れるべきでないと判断したら、入れない』


 春江は、紙に書いた。


 入れない判断あり。


『それでもよければ、来週、朝倉先生が育成牧場へ来ます』


 鈴鹿が、小さく息を吐いた。


「来る……」


 春江は返事をする前に、宗一郎を見た。


 宗一郎は頷いた。


 鈴鹿も、袖口を握ったまま頷いた。


「お願いします」


 春江は言った。


「見ていただきたいです」


『分かりました』


 通話が切れた。


 春江は、紙の最後に一行足した。


 朝倉先生、来場。


 その下に、もう一行。


 入れない判断も聞く。


 鈴鹿が、その行を見つめていた。


「入れないって言われるかもしれないんだ」


「そう」


 春江は赤鉛筆を置いた。


「でも、それを言える人に見てもらう」


 宗一郎が杖を鳴らした。


 こつ。


 宗一郎は、報告紙の最後の行を指で押さえた。


「この馬は走らせる」


 春江は顔を上げた。


「ただし、脚を使い切った日は次を使わない。食いが落ちた日は休ませる。そういう日まで含めてだ」


 鈴鹿は、ノートにそのまま書いた。


『脚を使い切った日は使わない』

『食いが落ちた日は休ませる』


 字が少し震えていた。


 でも、消さなかった。

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