第29話 再び売却話
◇ 春江視点
電話は、夕方に鳴った。
春江は、帳簿の上に封筒を並べていた。
育成費。
装蹄。
獣医確認。
その横に、岸部透の名刺がある。
薄い紙なのに、封筒より重く見えた。
画面の名前は、岸部透。
春江は一度だけ息を吸って、通話を押した。
「はい。風見です」
『岸部です。お時間、よろしいでしょうか』
声は前と同じだった。
丁寧で、低い。
こちらの机の上まで見ているような声。
「ご用件は」
『ノゾミノカゼの件です』
春江の指が、名刺の角で止まった。
横で、宗一郎の杖の先が床に触れる。
こつ。
『前回の提示額を、見直したいと思いまして』
「……いくらですか」
聞かないふりはできなかった。
岸部は、数字を言った。
春江は返事をしなかった。
前より高い。
育成費の封筒。
鈴鹿の奨学金資料。
厩舎の修繕見積もり。
クラウンメアの獣医代。
机の上の紙が、全部その数字へ寄っていく。
『もちろん、すぐに結論をとは申しません』
岸部の声が続く。
『ただ、坂路に入った、とだけ聞きました。中身までは存じません』
春江の指が名刺から離れた。
「どこで、それを」
『この業界は狭いですから。だからこそ、正式にお話ししたかった』
「こちらからは、何も出していません」
『承知しています。ですから、風見さんから直接伺いたい』
春江は、宗一郎を見た。
宗一郎は黙っていた。
杖を握る指だけが白い。
「家族で話します」
『もちろんです。ただ、風見さん』
岸部の声が、少し低くなった。
『走る前が、一番きれいに売れる時もあります』
春江は目を閉じなかった。
その言葉を、聞いたまま机に置いた。
「家族で話します」
同じ言葉だけ返して、電話を切った。
通話が終わっても、事務所の中は静かだった。
宗一郎が言った。
「いくらだ」
春江は数字を言った。
宗一郎の杖が、床を叩かなかった。
少し浮いて、また戻った。
「……鈴鹿を呼ぶ」
春江は頷いた。
封筒を帳簿の下へ戻しかけて、やめた。
今日は、隠して話す金額ではなかった。
◇ 鈴鹿視点
事務所の机に、紙が並んでいた。
育成費の封筒。
奨学金の資料。
岸部透の名刺。
そして、白い紙に母さんの字で書かれた数字。
私は、その数字を見た。
手が、袖口を探した。
握る。
強く握る。
「これ、ノゾの値段?」
母さんは、すぐには頷かなかった。
「岸部さんの提示額」
「同じことじゃないの」
声が少し強くなった。
父さんが、杖を膝の前に置いた。
「同じじゃない」
「どこが」
「値段をつけられたことと、売ることは違う」
父さんの声は低かった。
でも、逃げていなかった。
母さんが言った。
「この金額があれば、今月と来月はかなり楽になる。鈴鹿の進学のことも、選べるものが増える」
「じゃあ」
言いかけて、喉が詰まった。
じゃあ、売るの。
その言葉が出なかった。
出したら、机の上の名刺が返事をする気がした。
「鈴鹿」
母さんが私を見る。
「あなたに決めさせる話ではない」
「でも、私の進学の話も入ってる」
「入ってる。だから、聞かせてる」
母さんは封筒を帳簿の下へ戻さなかった。
「隠して決める話でもない」
私は唇を噛んだ。
ノゾは、今、育成牧場にいる。
ここにはいない。
でも、馬房はある。
空の馬房。
兄さんが死んだ夜から、何度も立ち止まった場所。
私は立ち上がった。
「どこへ」
父さんが聞く。
「馬房」
止められなかった。
◇ 鈴鹿視点
ノゾの馬房は、空だった。
新しい敷料は入っていない。
水桶もない。
でも、扉の傷は残っている。
ノゾが仔馬の頃、鼻先をぶつけた小さな跡。
私は扉に手を置いた。
木が冷たい。
ここにいない馬の値段が、事務所の机に置かれている。
売れば助かる。
それは本当だ。
母さんの封筒も、父さんの杖も、私の奨学金の紙も、本当だ。
でも、売ったら。
私は、扉の傷を親指でなぞった。
「ノゾは」
声が、馬房の中に落ちた。
「ノゾは、風見牧場の馬だよ」
誰も聞いていないと思った。
でも、後ろで杖の音がした。
こつ。
父さんが立っていた。
少し遅れて、母さんも来た。
母さんは何も言わず、馬房の扉を見た。
父さんが言った。
「望にも、そう言わせたかったな」
私は振り返らなかった。
「あいつは、いつも先に金を見た。見させたのは、俺だ」
「父さん」
「だから、今回は順番を間違えない」
杖の先が、通路のコンクリートに置かれる。
「金を見る。封筒も見る。鈴鹿の紙も見る」
父さんは、一度息を吸った。
「その上で、ノゾの馬房を見る」
母さんが、小さく頷いた。
「今は売らない」
母さんの声だった。
私は、ゆっくり振り返った。
「いいの?」
「いい、じゃないわ」
母さんは言った。
「支払いは消えない。奨学金の紙も、空欄のまま。でも」
母さんは馬房の扉に手を置いた。
「今、この馬房を空にするために売るのは違う」
父さんが頷いた。
「名刺をしまうだけなら、封筒を帳簿の下へ戻すのと同じだ」
父さんは杖を握り直した。
「次は、史門さんに聞く。入厩にいくらかかる。誰の名義で走らせる。どこまで風見で持てる。紙に出す」
私は袖口を握った。
ノゾは、ここにはいない。
でも、扉の傷は残っている。
私はその傷をもう一度なぞった。
「……うん」
小さく頷いた。
◇ 春江視点
事務所へ戻って、春江は岸部の名刺を封筒の上に置いた。
隠さない。
捨てもしない。
机の上に置く。
それが、今の答えだった。
宗一郎が椅子に座る。
鈴鹿は、奨学金の資料を自分の前へ引き寄せた。
希望区分は、まだ空欄。
でも、紙は伏せていない。
春江はスマホを手に取った。
岸部へ返事を打つ。
『ご提示ありがとうございます。家族で話しました。今は売却しません』
送信前に、指が止まる。
今は。
逃げ道にもなる言葉だ。
でも、嘘ではない。
春江は一文を足した。
『今後については、こちらで走らせる可能性を含めて検討します』
送信した。
すぐには返事は来なかった。
その沈黙の間に、春江は帳簿を開いた。
支払い予定の欄に、赤い線を引く。
楽にはならない。
でも、馬房の扉を見たあとでは、数字の形が少し違って見えた。
「明日、史門さんに電話するわ」
宗一郎が顔を上げる。
「走らせる話か」
「その前段階。費用。入厩。馬主の名義。風見でどこまで持てるか。全部聞く」
鈴鹿が、ノートを開いた。
「私も書く」
春江は頷いた。
「聞いたことを、全部紙に残しましょう」
宗一郎が言った。
「都合のいいところだけ拾わないようにな」
春江は岸部の名刺を見た。
薄い紙は、まだ机にある。
でも、机の真ん中には置かなかった。
真ん中には、ノゾミノカゼの報告紙を置いた。
軽坂路。
追わず。
途中で息を入れる。
上がりでフォーム維持。
脚を使い切っていない。
春江は、その最後の行にだけ、赤鉛筆で線を引いた。




