第28話 走りの片鱗
◇ 望視点
脚を預けることを覚えたあと、次に来たのは坂だった。
坂路。
人間だった頃、俺はその言葉を何度も使った。
でも、馬の体で見る坂は違う。
上り口に立っただけで、前脚の下が重くなる。
後ろ脚が土を探す。
鼻の奥が、先に熱くなる。
「今日は軽く上がるだけだ」
史門さんの声。
「行きたがっても行かせるな。先に人を読む癖がある」
牧野さんが短く返す。
「分かってる」
俺は耳だけ動かした。
先に読まない。
人の足音。
手綱のゆるみ。
息の間。
分かりすぎるから、待つ。
坂の土を踏む。
一歩目。
前脚が沈む。
後ろ脚が押す。
体が前へ出ようとした。
違う。
まだだ。
牧野さんの手が、少し遅れて動く。
それを待つ。
合図が来てから、首を伸ばす。
坂が胸に来る。
息が熱くなる。
でも、脚は残す。
頭を上げれば楽だ。
前脚だけで引っ張れば、もっと楽に上へ行ける。
でも、そこで背中が割れる。
次の日、後ろ脚が腹の下へ入らなくなる。
牧場で、そういう背中を何度も見た。
今は、俺の背中がそうなりかけている。
坂の途中で、息を入れる。
鼻から吐く。
首を少し下げる。
背中を丸める。
後ろ脚を腹の下へ入れる。
上まで、体を残す。
坂の終わりだけを見る。
最後まで、頭を上げない。
脚を余らせて、上がり切る。
そこで、ようやく止まる。
口の中が熱い。
胸が上下する。
でも、脚は震えていない。
俺は鼻を鳴らした。
まだ脚は残っている。
でも、今日は使わない。
脚を残して、馬房へ戻る。
今日はそれを見せる。
◇ 客観視点
坂路の上で、若いスタッフが記録紙にペン先を置いたまま止まった。
タイムを見るための一本ではない。
軽いフォーム確認。
坂でどこに力を入れるか。
息がどこで乱れるか。
最後に脚を残せるか。
それを見るための一本だった。
ノゾミノカゼは速かった。
だが、史門が見ていたのは速さではない。
坂の途中で、馬が自分から息を入れた。
前へ行きすぎず、背中を残した。
最後に脚を投げなかった。
「……今、追ってないですよね」
若いスタッフが小さく言った。
牧野は答えなかった。
史門が、坂の上のノゾミノカゼを見る。
汗は出ている。
息も上がっている。
だが、前脚の置き方が乱れていない。
「こいつ」
史門が口を開いた。
「勝つ前に、戻ってくる走り方をしてる」
牧野が横を見た。
「走らせますか」
「まだ言うな」
史門はすぐに首を振った。
「一回で決めると、こっちが馬を壊す」
若いスタッフが記録紙を持ち直す。
「どう書きますか」
「軽坂路。追わず。途中で息を入れる。上がりでフォーム維持」
史門はそこで止めた。
少し考えて、もう一行足す。
「脚を使い切っていない」
若いスタッフのペンが止まった。
「褒めすぎですか」
「違う。ここを抜くと、ただ速い馬になる」
史門は坂路の下を見た。
「ただ速い馬なら、売ればいい。これは、そこだけで見たら間違える」
牧野が記録紙を見る。
「外には?」
「出すな」
史門の声が低くなった。
「この紙が外に出たら、値段をつける人間が来る」
若いスタッフは、ペンを握り直した。
◇ 春江視点
電話が鳴った時、春江は請求書の封筒を裏返していた。
育成費。
装蹄。
獣医確認。
角をそろえて、帳簿の下へ入れようとしたところだった。
画面には、三浦史門の名前。
春江は一度だけ背筋を伸ばしてから、通話を押した。
「はい、風見です」
『史門です。今日、坂路で軽く見ました』
春江の指が、封筒の角を押さえる。
「問題がありましたか」
『逆です。ただ、軽くは聞かないでください』
横で、宗一郎の杖の先が床に触れた。
こつ。
春江は、スマホを少し外へ向けた。
『速いです。でも、それだけじゃない。途中で息を入れました。最後まで脚を残しています』
春江は返事を忘れた。
宗一郎も黙っている。
『前へ行きたいだけの馬じゃありません。自分の体を残して坂を上がりました』
「それは……いいことなんですか」
『かなり。ただ、急がせる理由にもなります。こちらでは急がせません』
春江は、帳簿の下に入れかけた封筒を止めた。
隠しても、支払いは消えない。
でも、この電話まで隠せない。
「鈴鹿にも、伝えていいですか」
『はい。ただ、走る価値がある、くらいに留めてください。まだ完成ではありません』
「分かりました」
通話を切ったあと、宗一郎が言った。
「走るのか」
春江は封筒を机に戻した。
裏返さずに。
「走れるかもしれない、だそうです」
「……そうか」
宗一郎の杖が、もう一度鳴った。
こつ。
今度は、少し軽かった。
春江は机の端を見た。
古い名刺が一枚、帳簿の下から少し出ている。
岸部透。
以前、ノゾミノカゼを買いたいと言った男の名刺だった。
春江は、育成費の封筒と名刺を見比べた。
封筒の厚み。
名刺の薄さ。
薄い紙の方が、今は重く見えた。
電話が来るなら、たぶん次は前より高い。
そう思った指が、名刺の角で止まった。
◇ 鈴鹿視点
大学の廊下で、スマホが震えた。
母さんからだった。
『史門さんから報告。ノゾ、坂路で軽く走ったそうです』
私は足を止めた。
学生たちが横を通り過ぎていく。
誰も私を見ていない。
それなのに、袖口を握った。
続けて、写真が届いた。
『軽坂路。追わず。途中で息を入れる。上がりでフォーム維持。脚を使い切っていない』
私は文字を何度も読んだ。
速い。
そうは書いていない。
でも、速いのだと分かった。
それより、最後の一行で指が止まった。
脚を使い切っていない。
兄さんなら、そこに線を引く。
私は講義ノートを開いた。
昨日の文字が残っている。
『成長を急がせない』
『負荷を増やす時期』
『骨端線』
その横に書く。
『走れるかもしれない。でも急がせない』
スマホを握る。
『よかった』
それだけ打った。
でも、消さなかった。
少し迷って、もう一文足す。
『急がせないで』
送信する。
すぐに既読がついた。
『分かってる』
私は廊下の壁に背中をつけた。
袖口を握る指が痛い。
「よかった……」
声は、廊下のざわめきに混じった。
大きく言ったら、泣いてしまう。
私はノートを閉じた。
折り目が、『急がせないで』の字にかからないように。
もう一度、報告紙の写真を見る。
線を引くなら、ここだ。
『脚を使い切っていない』
私はその行だけを、親指で隠さずに残した。




