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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第27話 脚を預ける

 ◇ 望視点


 朝、牧野さんは俺の前脚を見ていた。


 歩かせる前ではない。


 走らせる前でもない。


 馬房の前で、ただ黙って、蹄を見ている。


「今日は削蹄の確認だ」


 削蹄。


 その言葉で、俺の耳が動いた。


 人間だった頃は、何度も見てきた。


 蹄の伸び方。


 削る角度。


 左右の減り方。


 立ち方の癖。


 脚元の未来は、蹄に出る。


 でも、馬の体でそれをされるとなると話が違う。


 脚を持ち上げられる。


 体重を三本に預ける。


 逃げようと思えば、暴れられる。


 でも、暴れれば自分の脚を痛める。


 人を蹴れば、その後が難しくなる。


 牧野さんは、いきなり脚を取らなかった。


 まず肩に触れた。


 首。


 肩。


 前腕。


 膝。


 球節。


 ゆっくり下りてくる。


 俺は耳を動かした。


 手の重さ。


 呼吸。


 立つ位置。


 この人は、蹴られない場所にいる。


 怖がらせない場所にもいる。


「上げるぞ」


 短い声。


 合図がある。


 それだけで少し違った。


 牧野さんの手が、俺の左前脚を取った。


 蹄が地面から離れる。


 体が少し傾く。


 右前に重さが乗る。


 後ろ脚が、少し踏ん張る。


 嫌だ。


 馬の体が、そう言う。


 脚を取られるのは嫌だ。


 でも、ここで跳ねれば終わる。


 俺は首を低くした。


 息を吐く。


 預ける。


 全部じゃない。


 少しだけ。


「よし」


 牧野さんは、すぐ下ろした。


 長く持たない。


 欲張らない。


 もう一度。


 今度は少し長い。


 蹄裏を見る。


 指で軽く触れる。


 泥を落とす。


 削らない。


 今日は、見るだけ。


「いいな」


 少し離れたところで、削蹄師らしい男が頷いた。


「我慢してるんじゃない。考えて立ってる」


 我慢ではない。


 考えている。


 そう言われると、少し困る。


 俺は馬だ。


 でも、望でもある。


 だから、たぶん両方だ。


 右前脚。


 左後脚。


 右後脚。


 後ろは、前より嫌だった。


 後ろ脚を預けると、逃げる形がなくなる。


 蹴る脚もなくなる。


 背中が硬くなる。


 牧野さんは無理に高く上げなかった。


「今日は低くていい」


 削蹄師が言った。


「この時期に高く持ちすぎると、嫌な記憶だけ残る」


 嫌な記憶。


 青いシートと同じだ。


 怖いものを消さない。


 でも、怖いまま押しつけない。


 俺は後ろ脚を少しだけ預けた。


 ほんの少し。


 でも、地面から離れた。


「十分」


 牧野さんが言った。


 十分。


 その言葉は、今日も優しかった。


 ◇ 客観視点


 削蹄師の名は、横山と言った。


 他の育成馬の削蹄に来たついでに、ノゾミノカゼの脚も見ることになっていた。


 年配の男で、手袋の親指だけが少し薄くなっている。


 牧野はノゾミノカゼの脚を下ろすたび、必ず一度離れた。


 すぐ次へ行かない。


 馬に、四本の脚で立ち直る時間を渡す。


 横山はその様子を見て、短く言った。


「この馬、賢いな」


「ええ」


「ただ、賢い馬は覚えるぞ。いいことも、悪いことも」


「だから今日は削りません」


 牧野は答えた。


「持つ。見る。下ろす。そこまでです」


 若いスタッフが、記録紙を持って立っている。


「削蹄しないんですか」


「今日はしない」


 横山が先に言った。


「できるからって削ると、人間が得した気になるだけだ。馬は得してない」


 若いスタッフは、少し慌てて頷いた。


 横山はノゾミノカゼの左前蹄をもう一度見た。


「蹄形は悪くない。減り方も変じゃない。ただ、これから体が伸びる。月一で見ろ」


「はい」


「あと、後ろを嫌がる。嫌がるが、蹴りに来ない」


 横山は記録紙を指で叩いた。


「ここは大事に書いとけ」


 若いスタッフがペンを動かす。


 脚上げ確認。


 前肢良好。


 後肢緊張あり。


 蹴り行動なし。


 短時間なら保持可。


 削蹄は次回以降。


 牧野はその最後に一行足した。


 嫌がる前に下ろす。


 横山がそれを見て、少しだけ笑った。


「いいじゃねえか」


「何がです」


「馬より先に、人間に癖をつけるんだろ」


 牧野は答えなかった。


 馬房の中で、ノゾミノカゼは耳だけ動かした。


 ◇ 鈴鹿視点


 その日の報告紙には、見慣れない言葉があった。


 脚上げ確認。


 前肢良好。


 後肢緊張あり。


 蹴り行動なし。


 削蹄は次回以降。


 鈴鹿は、馬房札の横でその紙を読んだ。


 空の馬房は、今日も広い。


 隣でクラウンメアが鼻を鳴らす。


「後ろ脚、嫌だったんだって」


 クラウンメアは、空の馬房を見たままだった。


「でも、蹴らなかったって」


 鈴鹿は報告紙の角を押さえた。


 講義で聞いた骨の名前が、まだ頭に残っている。


 球節。


 飛節。


 蹄。


 紙に書かれた言葉が、急にノゾの体になっていく。


 後肢緊張あり。


 その一行だけで、ノゾが少し怖がったのが分かる。


 蹴り行動なし。


 その一行だけで、ノゾが踏ん張ったのも分かる。


 でも、報告紙の最後に、牧野さんの字で一行だけ足されていた。


 嫌がる前に下ろす。


 鈴鹿は、その文字を指でなぞった。


「よかった」


 小さく言った。


 勝ったわけじゃない。


 走ったわけでもない。


 ただ、脚を預けて、嫌になる前に下ろしてもらった。


 それだけで、胸の奥が少し緩んだ。


 台所から母さんの声がした。


「鈴鹿、夕飯食べる?」


「あとで」


「また厩舎?」


「うん」


 母さんは、それ以上聞かなかった。


 鈴鹿は報告紙を戻した。


 それから、鞄から大学ノートを出した。


 表紙の端に、バスの中でついた折れ目が残っている。


 前肢の骨格図。


 まだ下手な線。


 でも、今日のノゾの脚とつながっている。


「私も覚えるから」


 空の馬房に向かって言った。


「ノゾの脚、ちゃんと分かるようになるから」


 クラウンメアが短く鳴いた。


 それは、待つ音ではなかった。


 少しだけ、許す音に聞こえた。


 ◇ 望視点


 夜、俺は馬房で後ろ脚を休めていた。


 痛くはない。


 でも、少し疲れた。


 走っていない。


 歩いてもいない。


 ただ、脚を預けただけ。


 それでも疲れる。


 怖いものの横を歩くのと同じだ。


 体が、心より先に力を使う。


 隣の馬が鼻を鳴らした。


「脚」


「うん」


「取られた?」


「預けた」


「同じ」


「違う」


「何が?」


 俺は少し考えた。


「下ろした」


「ふうん」


 隣の馬には、伝わったのか分からない。


 でも、俺には大事だった。


 取られたんじゃない。


 預けた。


 そして、嫌になる前に下ろしてもらった。


 牧野さんは、俺の脚を奪わなかった。


 横山さんも、無理に削らなかった。


 この場所は、怖い。


 知らない。


 母さんはいない。


 鈴鹿もいない。


 でも、人の手を全部疑わなくてもいいかもしれない。


 まだ、少しだけ。


 俺は藁に体を沈めた。


 明日はまた歩く。


 明後日は、もっと触られるかもしれない。


 その先に、走る日が来る。


 でも、今日は。


 脚を預けて、壊さず終わった。


 それだけでいい。


 俺は目を閉じた。


 持ち上げられた脚の重さだけが、まだ体に残っていた。

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