第26話 空の馬房の音
◇ 鈴鹿視点
大学の帰り、バスの窓に自分の顔が映った。
疲れている。
知らない教室。
知らない先生。
知らない人の笑い声。
それでも、今日はノートを取れた。
馬体構造の最初の講義で、前肢の骨の名前を聞いた。
肩甲骨。
上腕骨。
橈骨。
手根骨。
球節。
聞きながら、ノゾの脚を思い出した。
あの細い脚で、青いシートの横を歩いたらしい。
牧野さんからの報告を、母さんがメッセージで送ってくれた。
青いシートに反応。
跳ねず。
汗あり。
飲水あり。
摂食あり。
鈴鹿は画面を閉じた。
数字でも、成績でもない。
でも、十分だった。
牧場に帰って、最初に厩舎へ行った。
もう、そこにノゾはいない。
分かっている。
それでも、足は勝手に馬房へ向かう。
馬房札は残っていた。
ノゾミノカゼ。
自分の字。
少し右上がり。
その下に、今日の報告紙が挟まれていた。
母さんが印刷してくれたものだ。
空の馬房は、思ったより広かった。
乾草の匂いは薄い。
水桶は外されている。
床は掃かれている。
きれいすぎて、嫌だった。
隣の馬房で、クラウンメアが鼻を鳴らした。
「……ノゾ、今日も食べたって」
返事はない。
クラウンメアは鈴鹿を見ず、空の馬房を見ていた。
鈴鹿は袖を握りかけた。
でも、途中で止めた。
代わりに、報告紙の角を押さえる。
青いシートに反応。
跳ねず。
汗あり。
飲水あり。
摂食あり。
その一行ずつが、今日のノゾだった。
「ちゃんと、やってる」
声が少し震えた。
クラウンメアが短く鳴いた。
意味は分からない。
でも、待っている音だった。
鈴鹿は報告紙を馬房札の横へ戻した。
「私も、ちゃんと行く」
空の馬房に言った。
ノゾには届かない。
それでも、言わないと帰れなかった。
◇ 望視点
青いシートは、片づけられていなかった。
昨日と同じ場所。
乾草置き場の横。
風を受けて、端が揺れる。
ぱたん。
ぱたん。
昨日より音は分かる。
でも、怖くないわけじゃない。
知っている怖さと、平気は違う。
牧野さんが曳き手を持つ。
「昨日と同じ場所を歩く」
俺は耳を動かした。
右から風。
前に青いシート。
左に下がれる幅。
後ろに牧野さんの足音。
昨日より、情報が多い。
昨日より、体は先に固まりそうになる。
知ったせいで、身構える。
人間だった頃なら、よく見た。
一度怖かった馬は、二度目に先回りして怖がる。
昨日通れたから、今日も簡単。
そんなことはない。
むしろ今日の方が難しい。
昨日の怖さを、体が覚えている。
「止まれ」
牧野さんが言った。
俺は止まった。
シートが鳴る。
ぱたん。
風が止まる。
間がある。
でも、俺の前脚は動かなかった。
昨日は動けた。
今日は、動けない。
それだけで、腹の奥が冷える。
だめだ。
焦るな。
昨日できたことを、今日もできると決めつけるな。
ここで無理に出せば、跳ねる。
跳ねれば、脚を取る。
俺は首を下げた。
シートを見る。
青。
揺れる端。
土の匂い。
水を撒いたあとの湿り。
牧野さんの手は、動かない。
引かない。
押さない。
待っている。
「いい。見ろ」
低い声。
「今日は見る日でもいい」
その言葉で、胸の奥に入っていた力が少し抜けた。
歩けなくても、終わりじゃない。
見ていい。
怖がっていい。
跳ねなければいい。
壊さなければいい。
俺は一歩出した。
小さい一歩。
昨日より短い。
でも、蹄は地面に置けた。
ぱたん。
止まる。
一歩。
ぱたん。
止まる。
昨日より遅い。
でも、昨日より雑じゃない。
シートの横を抜けた時、牧野さんは大げさに褒めなかった。
ただ、首を一度だけ撫でた。
「昨日より遅い。だが、今日の方がいい」
そうか。
遅くてもいいのか。
壊れないなら。
俺は鼻を鳴らした。
◇ 客観視点
牧野は二度目を通さなかった。
若いスタッフが、少し意外そうに見る。
「昨日より止まりましたよね」
「止まったな」
「もう一回やった方が慣れるんじゃないですか」
「今日はやらない」
牧野は即答した。
「昨日より止まった。だから今日は一回で終わる」
「通れたのに?」
「通れたから終わる」
牧野はノゾミノカゼの背中に浮いた汗を見た。
「これ以上やると、通った記憶じゃなく、我慢しすぎた記憶が残る」
スタッフは黙った。
ノゾミノカゼは、首を低くしたまま立っている。
耳はシートへ向いている。
体は逃げていない。
でも、緊張は残っている。
「怖いものを消さない。だが、怖いまま押しつけない」
牧野は記録紙に書いた。
二回目。
青シート。
停止あり。
接近可。
通過可。
飛節・球節乱れなし。
汗あり。
過負荷前に終了。
そして最後に、短く足した。
昨日より遅い。
内容は前進。
◇ 望視点
夕方、馬房で乾草を噛んでいると、通路の端から牧野さんの声が聞こえた。
「はい。昨日より止まりました」
電話だ。
風見牧場への報告だろう。
「でも、通れました。跳ねてません。脚元も乱れていません」
少し間がある。
「ええ。今日は一回でやめました」
また、間。
「大丈夫です。後退じゃありません」
後退じゃない。
その言葉が、耳に残った。
昨日より遅い。
昨日より止まった。
でも、後退ではない。
そう言ってもらえるのは、少し楽だった。
隣の馬が鼻を鳴らす。
「青い」
「うん」
「遅い」
「うん」
「弱い?」
「違う」
「じゃあ、何?」
俺は乾草を飲み込んだ。
「覚えた」
「何を?」
「怖い」
隣の馬は黙った。
「怖い。歩く」
「変」
「うん」
変でいい。
怖くないふりをして跳ねるより、怖いまま歩く方がいい。
夜、馬房の外で風が鳴った。
青いシートの音は、ここまでは届かない。
でも、耳の奥には残っている。
ぱたん。
ぱたん。
俺は脚を折って、藁に体を沈めた。
風見牧場では、報告紙が馬房札の横に挟まれているはずだ。
鈴鹿の指が、その角を押さえているかもしれない。
それだけで、今日の一歩は少しだけ戻れる。
明日も、青いシートは片づけられない。
俺も、怖さをなかったことにはしない。
怖いまま、壊れない一歩を選ぶ。




