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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第25話 広いダートの風

 ◇ 望視点


 三浦さんの車が、朝の砂利道を出ていった。


 タイヤの音が、少しずつ遠くなる。


 昨日までは、柵の外に三浦さんがいた。


 腕を組んで、黙って見ていた。


 風見牧場の匂いを知っている人間が、近くにいた。


 今日は違う。


 通路にいるのは、牧野さんだ。


 育成牧場の人。


 声は低い。


 動きはゆっくり。


 でも、俺の脚元を見る目は細かい。


「今日は外を歩く」


 牧野さんが曳き手を持った。


「走らせない。広いダートを一周だけだ」


 一周だけ。


 人間には軽い言葉だ。


 でも、馬の体には軽くない。


 丸馬場は円だった。


 今日のダートは広い。


 広いぶん、風が入る。


 音も入る。


 遠くの馬の足音。


 トラクターの低い唸り。


 水を撒いたあとの土の匂い。


 風見牧場とは違う。


 家の匂いが、どこにも混じっていない。


 俺は一歩目を置いた。


 砂は丸馬場より浅い。


 でも、場所によって硬さが違う。


 乾いたところ。


 湿ったところ。


 蹄の下で、音が変わる。


 牧野さんの手は、強くない。


 引っ張らない。


 押しつけない。


 ただ、俺の肩より少し前を歩く。


 その距離を、俺は覚え始めていた。


 前へ行きすぎるな。


 遅れすぎるな。


 人の手を疑いすぎるな。


 でも、任せきるな。


 鈴鹿の声が、昨日から残っている。


 帰る場所はある。


 今日、風見牧場へ戻るという意味じゃない。


 ここで育つ。


 ここで歩く。


 ここで食べる。


 その先に、家族の前へ戻る道がある。


 俺は耳を動かした。


 右から風。


 左で馬の鼻鳴らし。


 前方で、ビニールの音。


 ぱたん。


 ぱたん。


 乾草置き場の横で、青いシートが揺れていた。


 風を受けて、端が跳ねる。


 普通の音だ。


 人間だった頃なら、そう思う。


 でも、馬の体は違う。


 青いものが急に動く。


 視界の端で跳ねる。


 首の奥が硬くなる。


 前脚が止まりかけた。


「止まれ」


 牧野さんが言った。


 引かない。


 怒鳴らない。


 ただ、足を止めた。


 俺も止まった。


 シートがまた鳴る。


 ぱたん。


 隣の放牧地で、一頭が跳ねた。


 砂を蹴る音。


 馬の息。


 跳ねる気配。


 走るな。


 俺は自分に言った。


 ここで跳ねても、勝ちじゃない。


 駆け出しても、前には進まない。


 脚をひねれば終わる。


 俺は首を少し下げた。


 シートを見る。


 目を逸らさない。


 でも、近づきすぎない。


 風が来る。


 跳ねる。


 止まる。


 また跳ねる。


 間がある。


 音には、間がある。


 俺はその間で、一歩出した。


 牧野さんの手が、少しだけ緩む。


「そうだ」


 低い声。


 褒めすぎない声。


 次の一歩。


 まだ怖い。


 でも、蹄は置ける。


 ぱたん。


 一歩。


 ぱたん。


 一歩。


 シートの横を通り過ぎた時、背中に汗が浮いていた。


 走っていない。


 それでも汗が出る。


 怖いものの横を、歩いて通っただけ。


 でも、今日はそれで十分だった。


 ◇ 客観視点


 牧野は、ダートの外側でノゾミノカゼを止めた。


 距離は十分に取っている。


 シートへ近づけすぎない。


 反対側へ退ける幅も残している。


 若馬に「平気だろう」と決めつけて寄せれば、一度で人を疑う。


 怖いものを怖いまま見せる。


 そのうえで、通れる距離を選ばせる。


 ノゾミノカゼは、跳ねなかった。


 耳は忙しく動いている。


 首も硬い。


 背中には緊張が出ている。


 だが、前脚は乱れない。


 止まる。


 見る。


 間を待つ。


 風でシートが跳ねる、その合間に蹄を置く。


 牧野は小さく息を吐いた。


「音の間を見たか」


 近くにいた若いスタッフが首を傾げた。


「音ですか」


「いや、風かもしれない」


 牧野はノゾミノカゼの首筋を見る。


 汗が薄く浮いている。


 怖がっていないわけではない。


 怖がったうえで、崩れていない。


 そこが大事だった。


「怖くない馬じゃない」


 牧野は言った。


「怖がっても、脚を守る馬だ」


 スタッフはダートの端を見た。


 青いシートはまだ鳴っている。


 ノゾミノカゼは、その音へ耳を向けたまま立っていた。


「もう一回通しますか」


「通さない」


 牧野は即答した。


「今日は一回でいい」


「でも、今の感じなら――」


「だから、やらない」


 牧野は曳き手を持ち直した。


「できた直後が、一番人間が欲を出す」


 若いスタッフは黙った。


 牧野はノゾミノカゼを馬房へ向けた。


「退ける幅は残す。だが、反射で飛ぶ癖は作らない」


 その言葉は、昨日の記録と同じ場所に落ちた。


 明日も歩けるように終わる。


 それが、牧野の線だった。


 ◇ 望視点


 馬房へ戻ると、水を飲んだ。


 喉が乾いていた。


 丸馬場のあとより、ずっと乾いていた。


 走っていないのに。


 歩いただけなのに。


 体は、怖さでも汗をかく。


 乾草を噛むと、少しだけ落ち着いた。


 隣の馬が顔を出す。


「青い」


「うん」


「跳ねた?」


「跳ねない」


「怖い?」


「少し」


「弱い?」


「違う」


「強い?」


「違う」


「何?」


 昨日も聞かれた気がする。


 俺は乾草を噛んだまま、少し考えた。


「歩く」


「ふうん」


「明日も」


 隣の馬は鼻を鳴らした。


 分かったのかは知らない。


 でも、今日はそれでよかった。


 夕方、牧野さんが通路の端で電話をしていた。


「はい。今日は広いダートを歩きました。走ってません」


 少し間がある。


「青いシートに反応しましたが、跳ねてはいません。汗は出ました。水は飲んでます」


 風見牧場へ報告しているのだろう。


 誰が電話の向こうにいるのかは分からない。


 春江か。


 宗一郎か。


 鈴鹿か。


 でも、聞かせたいことは分かる。


 壊れていない。


 食べている。


 歩いた。


 今日は、それでいい。


 牧野さんは電話を切ると、俺の馬房の前に来た。


「ノゾミノカゼ」


 俺は耳を向けた。


「明日は、同じ場所をもう一度歩く。シートは片づけない」


 片づけない。


 怖いものを消さない。


 通れる距離を覚える。


 そういうことだ。


「お前は、逃げるより先に考える。そこを潰さない」


 牧野さんは、俺の首を軽く叩いた。


 俺は返事をしなかった。


 できない。


 だから、水桶へ鼻を寄せた。


 もう一口飲む。


 明日も歩くために。


 夜、馬房の外で青いシートが小さく鳴った。


 ぱたん。


 遠い音。


 俺は耳を向けた。


 無視しない。


 でも、追われない。


 音の間を覚える。


 風の向きを覚える。


 蹄を置く場所を覚える。


 勝つより前に。


 走るより前に。


 壊れない一歩を、また一つ覚える。

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