表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/53

第24話 丸馬場の円

 ◇ 望視点


 丸馬場は、思っていたより小さかった。


 柵が円を作っている。


 逃げる角がない。


 まっすぐ走る場所もない。


 ただ、同じ線をぐるりと回る。


 人間だった頃は、何度も見てきた。


 若馬を歩かせる場所。


 人の声に慣らす場所。


 体の傾きを見る場所。


 でも、馬の体で入ると違う。


 円は、思ったより脚に来る。


 外へ膨らめば、肩が逃げる。


 内へ倒れれば、脚が詰まる。


 曲がるだけで、球節と膝に小さな力がかかる。


 走る前から、壊れる馬は壊れる。


 牧野さんが曳き手を持った。


「今日は歩くだけだ」


 三浦さんが柵の外に立つ。


 腕を組んでいる。


 昨日より口数が少ない。


 風見牧場へ戻る前に、最後に見ていくつもりなのだろう。


 朝、三浦さんが通路の端で電話をしていた。


「はい。今日は丸馬場です。走らせません。歩くだけです」


 少し間があった。


「……ええ。伝えます」


 電話を切った三浦さんが、俺の馬房の前に来た。


「鈴鹿ちゃんからだ」


 俺は耳を向けた。


「無理するな。ちゃんと食べろ。帰る場所はあるから、だそうだ」


 帰る場所はある。


 今日、風見牧場へ戻るという意味じゃない。


 ここで育つ。


 ここで歩く。


 それでも、俺が帰る場所はなくならない。


 その言葉だけ、耳の奥に残った。


 俺は一歩、円の中へ入った。


 砂が柔らかい。


 風見牧場の地面とは違う。


 少し深い。


 蹄が沈む。


 沈む分、蹴り返しが遅い。


 焦れば、脚を取られる。


「常歩」


 牧野さんが短く言った。


 俺は歩いた。


 一歩。


 二歩。


 円の外側の肩が、少し引かれる。


 内側の前脚を早く置きたくなる。


 違う。


 そこで詰めると、内へ倒れる。


 俺は首を少しだけ低くした。


 背中を固めない。


 前へ行きすぎない。


 外へ逃げすぎない。


 歩くだけだ。


 でも、歩くだけが難しい。


「……ん?」


 牧野さんの手が少し緩んだ。


 俺はその緩みを追わなかった。


 勝手に速くしない。


 曳き手の位置を見て、半歩だけ待つ。


 牧野さんが小さく息を吐いた。


「今、合わせたな」


 答えられない。


 俺は歩く。


 円の半分。


 また半分。


 同じ場所に戻る。


 でも、同じじゃない。


 砂の深さ。


 風の向き。


 牧野さんの手。


 自分の脚の重さ。


 一周ごとに違う。


 丸馬場は、同じところを回る場所じゃない。


 同じように見える違いを拾う場所だ。


 ◇ 客観視点


 柵の外で、三浦史門は黙って見ていた。


 牧野はノゾミノカゼを速く歩かせなかった。


 一歳馬の脚は、まだ作っている途中だ。


 深い砂で無理をさせれば、筋肉より先に関節へ来る。


 だから今日は、常歩だけ。


 止まる。


 歩く。


 曲がる。


 人の位置を見る。


 それだけの確認だった。


 そのはずだった。


「内へ倒れませんね」


 三浦が言った。


「ええ」


 牧野は曳き手を軽く持ったまま答える。


「普通はもう少し内へ入るか、外へ膨らみます」


「怖がって固まる馬もいる」


「この馬は、固まっていない」


 ノゾミノカゼは、歩くたびに耳を動かしていた。


 前。


 後ろ。


 牧野の足音。


 柵の外の三浦。


 遠くの馬房。


 拾いすぎるほど拾っている。


 それでも、脚は乱れない。


 円の内側へ落ちない。


 外側へ逃げない。


 大きな動きではない。


 見逃そうと思えば、見逃せる。


 けれど、馬を長く見てきた人間には分かる。


 この馬は、力で曲がっていない。


 崩れない場所を探している。


「昨日の放牧と同じですね」


 牧野が言った。


「壊れない場所を選ぶ」


 三浦は小さく頷いた。


「望も、よく言ってました」


「何を?」


「勝たせる前に、壊さない。壊れたら、勝つ場所まで行けない」


 牧野は、ノゾミノカゼを見た。


「その考え方、この馬にも染みているみたいですね」


 三浦はすぐには笑わなかった。


「……そう見える時があります」


 丸馬場の中で、ノゾミノカゼが止まった。


 勝手に止まったのではない。


 牧野の足が止まる半拍前に、速度を落としていた。


 牧野は眉を上げた。


「また合わせた」


 三浦は柵に指をかけた。


「気をつけてください」


「何をです?」


「この馬、分かりすぎると、人間が雑になります」


 牧野は少しだけ笑った。


「分かる馬だから、説明しなくていいと思うな、ということですか」


「はい」


 三浦の声は低かった。


「望は、そこを嫌いました」


 牧野は頷いた。


 そして、ノゾミノカゼの首を軽く叩いた。


「よし。今日はここまで」


 ノゾミノカゼは、耳だけ動かした。


 まだ歩ける。


 そう言っているようにも見えた。


 だが、牧野は続けなかった。


「足りないくらいで終わる。明日も歩けるように」


 三浦が、ようやく少しだけ頷いた。


 ◇ 望視点


 終わり、と言われた時、少し拍子抜けした。


 まだ歩ける。


 そう思った。


 でも、牧野さんは続けなかった。


 足りないくらいで終わる。


 その言葉は、馬の体に優しい。


 人間の欲には、少し物足りない。


 望だった俺なら、たぶん分かっていた。


 良い動きをした時ほど、もう一回見たくなる。


 もう一周。


 もう少し。


 もう一度だけ。


 そうやって、馬の脚から明日を削る。


 牧野さんは削らなかった。


 俺はそれを覚えた。


 この人は、止める。


 動かすだけじゃなく、止める。


 馬房へ戻ると、水を飲んだ。


 昨日より多く。


 乾草も食べた。


 少しだけではなく、ちゃんと噛んだ。


 隣の馬が鼻を鳴らす。


「円」


「うん」


「走った?」


「歩いた」


「つまらない」


「大事」


「変」


 変でいい。


 俺は乾草を噛んだ。


 もう乳だけで生きる体ではない。


 母さんはいない。


 鈴鹿もいない。


 風見牧場の馬房でもない。


 でも、ここで食べる。


 ここで眠る。


 ここで歩く。


 いつか家族の前へ戻るために、今はここで育つ。


 通路の向こうで、三浦さんが電話していた。


「はい。歩きました。走ってません。……ええ、牧野さんが止めました」


 少し間がある。


「鈴鹿ちゃんに伝えてください。ちゃんと食べてます」


 春江だろうか。


 それとも宗一郎だろうか。


 俺には分からない。


 でも、その言葉だけで十分だった。


 ちゃんと食べている。


 ちゃんと歩いた。


 壊れていない。


 今日は、それを風見牧場へ返せる。


 夜、牧野さんが馬房の前に来た。


 手にはノート。


 昨日と同じだ。


「ノゾミノカゼ」


 名前を呼ばれる。


 俺は耳を向けた。


「明日は少しだけ、外へ出す」


 外。


 丸馬場ではない場所。


「坂路じゃない。まだ早い。広いダートを、曳いて歩くだけだ」


 坂路。


 その言葉に、体の奥が少し反応した。


 まだ早い。


 そうだ。


 まだ早い。


 今は、歩く。


 壊れない一歩を覚える。


 牧野さんはノートを見ながら、三浦さんに言った。


「常歩。丸馬場一周半。内へ倒れず、外へ逃げず。過負荷なし。摂食良好。明日も歩ける」


 明日も歩ける。


 俺は、その言葉だけを拾った。


 それは、勝つより前の勝ちだ。


 俺は藁の上に脚を折った。


 知らない馬房の匂いは、まだ知らないままだ。


 でも、昨日より少しだけ、敵ではなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ