第23話 群れの順位
◇ 望視点
本当に風見牧場を出る日は、練習の日より静かだった。
馬運車の匂いは同じだ。
油。
鉄。
古い藁。
消毒液。
でも、今日は乗って降りるだけの練習ではない。
育成牧場へ行く日だ。
隣の馬房で、クラウンメアが鼻を鳴らした。
「坊や」
「母さん」
「行く」
「行く」
「戻る?」
「戻る」
「ほんと?」
「ほんと」
同じ言葉しか返せない。
でも、何度でも返す。
鈴鹿は朝、大学の講義があると言っていた。
出発には間に合わない。
それでも馬房へ来て、俺の額の流星に触れた。
「怪我しないで」
それだけ言った。
勝って、ではない。
走って、でもない。
怪我しないで。
鈴鹿は、俺に勝つことより先に、帰ることを頼んだ。
三浦さんが曳き手を持つ。
「行くぞ、ノゾ」
俺は馬運車へ向かった。
怖くないわけじゃない。
でも、練習で一度戻った。
戻れると知っている。
なら、行ける。
後ろでクラウンメアが鳴いた。
「走れ」
その言葉だけ、いつもと違った。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、止まる。
だから前を見る。
馬運車の中へ入る。
扉が閉まる。
鉄の音が、腹の下へ沈んだ。
行く。
戻るために、行く。
◇
馬運車の扉が開いた時、風の匂いが変わっていた。
育成牧場の放牧地は、風見牧場より広かった。
柵も高い。
地面も整っている。
同じ草の匂いでも、ここには家の匂いが混じっていない。
今日は全頭放牧ではない。
牧野という育成牧場の担当者が、性格の強すぎる馬を外し、三頭だけに絞った試験放牧だと説明していた。
それでも、群れは群れだ。
大きい馬。
首の太い馬。
後肢の筋肉が張っている馬。
俺は、その中では目立つほど大きくない。
血統はいい。
でも、血統表はここでは歩いてくれない。
放牧地で必要なのは、脚と耳と間合いだ。
「新入り」
近くの栗毛が鼻を鳴らした。
「小さい」
別の鹿毛が首を振る。
「どけ」
短い言葉。
馬の群れは、人間の会議より早い。
強い馬が前に出る。
弱い馬は下がる。
曖昧な馬は試される。
俺は耳だけ動かした。
怒るな。
ぶつかるな。
ここで勝っても意味がない。
鈴鹿の声が残っている。
怪我しないで。
クラウンメアの声も残っている。
走れ。
走る前に、壊れるな。
放牧地の奥から、馬格のある青鹿毛が近づいてきた。
肩が厚い。
首の使い方が強い。
耳は半分伏せている。
尾の振り方が荒い。
こいつが、この小さな群れの上だ。
「どけ」
青鹿毛が言った。
俺の真正面に来る。
普通なら、逃げる。
それか、頭を上げて張り合う。
どちらも危ない。
逃げれば、追われる。
張り合えば、肩をぶつけられる。
若馬の喧嘩は、遊びでも脚を取る。
膝。
球節。
蹄。
ひねれば終わる。
俺は、青鹿毛の肩を見た。
右肩が先に入る。
踏み込みは左前。
耳は俺ではなく、俺の左側を少し見ている。
来る。
まっすぐじゃない。
左へ押し出すつもりだ。
俺は逃げなかった。
半歩だけ、右へずれた。
遅すぎず。
早すぎず。
青鹿毛の肩が、俺の前を通った。
風が首筋をかすめる。
ぶつからない。
青鹿毛の蹄が、少し深く地面を踏んだ。
空振り。
「……?」
青鹿毛が振り返る。
俺は頭を上げない。
勝った顔をしない。
ただ、草の匂いを嗅ぐふりをした。
喧嘩じゃない。
順位を奪う気もない。
でも、壊される気もない。
青鹿毛がもう一度近づく。
今度は速い。
耳が伏せる。
首が低くなる。
突っかけてくる。
俺は脚を見た。
右後肢の蹴り出しが強い。
次は肩ではなく、前を塞ぐ。
なら、後ろへ逃げない。
斜め前へ抜ける。
俺は首を低くした。
相手の鼻先が来る前に、斜めへ半歩。
青鹿毛の首が空を切る。
俺の尻尾の毛先だけが揺れた。
「速い」
「逃げた」
「違う」
違う。
逃げたんじゃない。
壊れない場所にいただけだ。
青鹿毛は三度目を来なかった。
俺を見た。
耳を動かした。
それから、草を噛むふりをして横へ行った。
勝ったわけじゃない。
負けたわけでもない。
ただ、怪我をしなかった。
今はそれでいい。
◇ 客観視点
放牧地の柵の外で、三浦史門は腕を組んでいた。
風見牧場では、春江も鈴鹿も「三浦さん」と呼ぶ。
望が生前、ノゾミノカゼが生まれたら一度見てほしいと頼んでいた育成の男だ。
その隣で、育成牧場の担当者・牧野がノートを開いている。
「今の、見ました?」
三浦が聞く。
「ああ」
牧野はノートから目を離さない。
「逃げたんじゃないな。避けた」
青鹿毛の肩が入る前に、ノゾミノカゼは半歩ずれた。
大きく跳ねない。
尻を向けない。
後ろへ逃げない。
ぶつからず、追われず、相手に転ばせる隙も作らない。
「気が弱いわけじゃないですね」
三浦が言う。
「弱い馬なら、もっと後ろへ逃げます」
牧野はノートに書いた。
試験放牧。
接触回避。
脚元乱れなし。
無駄に争わない。
そこまで書いて、ペンが止まる。
「壊れない場所を選ぶ癖がありますね」
三浦は放牧地の中を見た。
ノゾミノカゼは、青鹿毛から少し離れた場所に立っている。
勝ち誇らない。
怯えもしない。
ただ、群れ全体の動きを耳で拾っている。
「厄介ですね」
牧野が言った。
「悪い意味で?」
「いい意味でも、悪い意味でもです」
牧野はノートを閉じた。
「賢い馬は、早く伸びる。でも、納得しないことを無理にやると、すぐ人を疑う」
「見ますか」
「見ます」
牧野は、放牧地の中のノゾミノカゼを見た。
「この馬、個別に観察します」
◇ 望視点
夕方、俺は知らない馬房へ戻った。
水を飲んだ。
少しだけ。
乾草にも口をつけた。
風見牧場の匂いとは違う。
でも、食べられないわけじゃない。
もう乳だけで生きる体ではない。
食べる。
寝る。
明日も立つ。
それが、今の仕事だ。
隣の馬房から、別の一歳馬の鼻鳴らしがする。
「新入り」
「うん」
「避けた」
「うん」
「弱い?」
「違う」
「強い?」
「違う」
「何?」
俺は少し考えた。
馬の言葉は短い。
だから、嘘がつきにくい。
「帰る」
隣の馬は黙った。
分かったのか、分からないのか。
俺にも分からない。
でも、それでよかった。
勝つために、ここへ来たんじゃない。
売られないためだけでもない。
鈴鹿が大学へ行った。
父さんが門まで歩いた。
春江が封筒を鞄にしまった。
母さんが「走れ」と言った。
俺はここで、壊れず育つ。
そして、帰る。
馬房の外で、牧野が立ち止まった。
手にはノート。
俺を見る目が、昼より少しだけ変わっている。
ただの新入りを見る目ではない。
「ノゾミノカゼ」
牧野が小さく名前を呼んだ。
「お前、何を見て避けた?」
答えられるわけがない。
俺は乾草をもう一度噛んだ。
牧野は、少しだけ笑った。
「明日から、ちゃんと見る」
それだけ言って、通路を歩いていく。
足音が遠ざかる。
知らない馬房。
知らない群れ。
知らない人。
でも、一つだけ分かった。
ここでは、ただ大人しくしているだけでは済まない。
見られている。
走る前から。
俺は耳を伏せずに、通路の奥を見た。
明日も、壊れない場所を選ぶ。




