第22話 知らない馬房
◇ 望視点
馬運車の匂いは、前から知っていた。
油。
鉄。
古い藁。
消毒液。
それから、少しだけ汗の匂い。
望だった頃、何度も見送った。
売られていく馬。
獣医病院へ向かう馬。
育成牧場へ移る馬。
戻ってくる馬。
そのたびに俺は、馬運車の後ろ扉を見ていた。
今日は、その扉が俺の前にある。
「坊や」
隣の馬房から、クラウンメアの声がした。
「行く?」
「少し」
「戻る?」
「戻る」
「ほんと?」
「ほんと」
今日は本格移動じゃない。
馬運車に慣らす日。
乗る。
降りる。
近くの育成牧場まで行って、馬房を見る。
無理なら戻す。
三浦さんは、そう説明していた。
人間の言葉としては分かる。
でも、馬の体は分かっていない。
目の前の箱に入れば、足元が揺れる。
匂いが変わる。
音が変わる。
母さんの鼻鳴らしが遠くなる。
それだけで、首の奥が硬くなった。
「ノゾ」
三浦さんが曳き手を持った。
「焦るな。今日は乗るだけでいい」
横で、宗一郎が杖をついて立っている。
春江は少し後ろ。
手には、見積書の入った封筒。
育成預託料。
馬運車代。
健康確認。
装蹄・削蹄予定。
また紙だ。
行くためにも、金がいる。
戻るためにも、金がいる。
鈴鹿は大学に行っている。
朝、出る前に馬房へ来た。
「今日、乗る練習だよね」
そう言って、俺の額に触れた。
「帰ってきてね。練習でも」
練習でも。
その一言が、ずっと耳に残っている。
俺は前脚を出した。
馬運車のステップは、少し高い。
ゴムの床。
人間だった頃なら、何度も確認した場所だ。
滑らないか。
段差は急すぎないか。
馬が首をぶつけないか。
今日は、自分の蹄で確かめる。
硬い。
でも、滑らない。
もう一歩。
中の空気が濃くなる。
鉄の壁が近い。
後ろでクラウンメアが強く鼻を鳴らした。
「坊や」
「戻る」
「坊や」
「戻る」
同じことしか言えない。
でも、言う。
三浦さんが首元を撫でた。
「いい。そこで止まれ」
俺は止まった。
耳が忙しく動く。
外の音。
母さんの息。
父さんの杖。
春江の封筒が擦れる音。
全部を探す。
「怖いだろうな」
宗一郎が言った。
「俺も、初めて外へ出る時は怖かった」
春江が小さく息を吐いた。
「あなた、それ今言うの」
「今だから言う」
宗一郎は門の方を見た。
「行って戻る練習だ。無理に押し込むな」
「分かってます」
三浦さんが短く答えた。
その声で、少し息が入った。
押し込まれない。
今日は、壊すための日じゃない。
慣れるための日だ。
俺はもう一歩だけ前へ出た。
体が全部、馬運車の中に入る。
扉は、まだ閉まらない。
三浦さんはすぐに降ろした。
「よし。今日は一回目、これで十分」
地面に蹄が戻る。
その瞬間、隣の馬房の方からクラウンメアが鳴いた。
短く。
強く。
「戻った」
「戻った」
「よし」
母さんは、それで少しだけ落ち着いた。
でも、俺は知っている。
本番はまだだ。
行って、戻る。
その練習は、始まったばかりだった。
◇ 客観視点
二度目の乗車で、ノゾミノカゼは馬運車の中に三分立った。
三度目は、扉を半分だけ閉めた。
そのたびに、クラウンメアが鼻を鳴らした。
春江は時計を見ていた。
正確には、時計と封筒を交互に見ていた。
「時間が延びると、料金も変わるの?」
三浦に聞く声は小さかった。
「今日は練習なので、そこまで厳密には取りません。ただ、本移動日は別です」
「そう」
春江は封筒を握り直した。
宗一郎はその手元を見た。
「春江」
「何?」
「今日は金額の話を先にしない」
「見てただけ」
「見てた」
「見るくらいは許して」
宗一郎は黙った。
春江は封筒を鞄にしまった。
しまったあとも、鞄の口を一度押さえた。
鈴鹿なら袖を握る。
春江は紙の入った鞄を押さえる。
家族は、みんな何かを握っている。
その日の午後、ノゾミノカゼは短い距離だけ馬運車に乗った。
行き先は、車で十分ほどの育成牧場。
本格預託前の確認だった。
馬房を見る。
通路を歩く。
知らない匂いを嗅ぐ。
無理なら戻す。
それだけの予定だった。
馬運車が動き出した時、クラウンメアが厩舎の中で大きく鳴いた。
春江の肩が揺れた。
宗一郎は杖を握った。
三浦は窓越しにノゾミノカゼの耳を見ていた。
耳は動いている。
前。
後ろ。
外。
中。
忙しい。
けれど、暴れてはいない。
◇ 望視点
知らない馬房は、広かった。
広いのに、狭い。
変な話だ。
柵も壁もきれいだ。
床も乾いている。
水桶もある。
乾草も置かれている。
悪い場所じゃない。
でも、俺の馬房ではなかった。
クラウンメアの鼻鳴らしが聞こえない。
鈴鹿の足音も聞こえない。
父さんの杖も。
春江が紙を伏せる音も。
何もない。
俺は馬房の真ん中で立った。
首を伸ばす。
匂いを嗅ぐ。
知らない馬。
知らない人。
新しい木。
別の乾草。
別の水。
「落ち着いてますね」
知らない男が言った。
育成牧場の人だ。
声は穏やかだが、目はよく見ている。
脚。
背中。
首。
肩。
俺を馬として見ている目だ。
三浦さんが答える。
「まだ警戒してます」
「ええ。でも、暴れない。考えてる感じがします」
考えてる。
そう見えるのか。
俺は少しだけ耳を伏せかけて、戻した。
宗一郎が馬房の外に立っている。
息が少し荒い。
短い距離でも、移動は父さんには負担だったはずだ。
でも来た。
見届けに来た。
「ここで、本当にやれるのか」
宗一郎が言った。
誰に聞いたのか分からない。
三浦さんか。
育成牧場の人か。
自分自身か。
俺は馬房の中で一歩だけ動いた。
床は少し柔らかい。
歩ける。
滑らない。
でも、知らない。
水桶に鼻を近づけた。
水の匂いが違う。
飲まない。
まだ。
乾草にも鼻を寄せた。
匂いだけ嗅ぐ。
今は、確認するだけでいい。
育成牧場の人が小さく頷いた。
「初日なら、これで十分です」
初日。
そうか。
今日は初日なのか。
行くための初日。
戻るための初日。
俺は馬房の入口を見た。
外には、馬運車が見える。
帰る道も、まだ見える。
なら、大丈夫だ。
今はまだ、帰れる。
俺は小さく鼻を鳴らした。
◇ 客観視点
夕方、ノゾミノカゼは風見牧場へ戻った。
馬運車が砂利を踏む音に、クラウンメアが真っ先に反応した。
耳を立てる。
首を上げる。
鼻を鳴らす。
ノゾミノカゼが馬運車から降りると、クラウンメアは隣の馬房で短く鳴いた。
ノゾミノカゼも答えた。
短い音だった。
でも、春江はそこでようやく息を吐いた。
「帰ってきた」
宗一郎が言った。
「練習でも、帰ってきた」
三浦は作業表に記録を書いた。
乗車三回。
短距離移動一回。
育成牧場馬房確認。
水、未飲。
乾草、匂い確認のみ。
暴れなし。
警戒あり。
帰厩後、母馬へ反応。
春江はその紙を見た。
数字ではない。
請求書でもない。
でも、これも風見牧場を支える紙だった。
鈴鹿が帰ってきたのは、その少し後だった。
大学の鞄を肩にかけたまま、厩舎へ走りかけて、途中で足を止める。
走ると驚かせる。
そう思い直した顔だった。
「ノゾ」
馬房の前に立つ。
「帰ってきた?」
ノゾミノカゼが鼻を鳴らした。
鈴鹿の顔が、くしゃりと歪んだ。
でも、泣かなかった。
「よかった」
その一言だけだった。
それから、鈴鹿は馬房札の横に挟まれた連絡メモを見た。
移動時期の確認。
健康確認。
馬運車の仮手配。
今日の練習記録。
紙は一枚増えていた。
行くための紙。
戻るための紙。
鈴鹿はそれを、指でそっと押さえた。
「私も、今日、説明会行ってきた」
ノゾミノカゼを見る。
「知らない教室だった。知らない人ばっかりだった」
ノゾミノカゼの耳が動く。
「でも、帰ってきた」
鈴鹿は少し笑った。
「同じだね」
馬房の中で、ノゾミノカゼが一歩だけ近づいた。
袖はくわえない。
鞄も押さない。
ただ、鈴鹿の手の近くへ鼻を寄せる。
鈴鹿は、その鼻先に触れた。
外では、夕方の風が乾草小屋の匂いを運んでいた。
まだ行く。
まだ戻る。
その練習を、今日から何度もする。
馬房札の横に、今日の練習記録が一枚増えた。




