第21話 鈴鹿の入学
ノゾミノカゼを今すぐ売らないと決めた日から、冬を越え、春が来た。
鈴鹿は高校を卒業し、風見牧場には一歳になったノゾミノカゼが残っていた。
乾草代は消えなかった。
岸部の名刺も、事務所の引き出しに残っている。
相馬先生の診療明細も、鈴鹿の奨学金の書類も、まだ紙の束の中にある。
それでも、鈴鹿の入学式の日が来た。
◇ 鈴鹿視点
兄さんの牧場ジャンパーは、まだ少し大きかった。
袖を通すと、手の甲まで布が落ちる。
泣きそうな朝も、帳簿の話を聞いた夜も、ノゾの馬房へ行く時も、これを着た。
袖口を握れば、兄さんの代わりに何かを握っていられる気がした。
でも今日は、途中で手を止めた。
鏡の中の自分を見る。
入学式用に買った新しい上着。
肩のところが、まだ馴染んでいない。
机の上には、兄さんの古いメモがある。
鈴鹿。
受験料。
初年度。
交通費。
牧場から通えるか。
下宿なら無理。
字は汚い。
でも、兄さんの字だ。
「……行ってくるね」
鈴鹿は牧場ジャンパーを畳んだ。
雑に畳むと、兄さんに怒られそうな気がして、もう一度だけ畳み直す。
今日は、これを着ない。
兄さんの代わりに行くんじゃない。
自分で選んで、行く。
新しい上着に袖を通す。
袖口を少し握った。
すぐに離した。
前ほど強く握らなくても、立てた。
台所へ行くと、母さんが弁当を包んでいた。
白い布。
少し色の薄い梅干し。
小さな卵焼き。
隅に、牧場で採れたわけでもないミニトマトが二つ入っている。
「お昼、これで足りる?」
「足りる」
「学食もあるんでしょう」
「あるけど、今日は混むと思う」
「式のあと、説明会もあるんでしょう」
「うん。帰り、少し遅くなる」
「そう」
母さんは弁当を鞄に入れた。
それから、入学案内の封筒を見て、少しだけ手を止めた。
奨学金の書類。
分納の控え。
通学定期の申込書。
全部、台所の隅に重なっている。
消えたわけじゃない。
でも、今日は伏せていない。
母さんはそれらを見える場所に置いたまま、鈴鹿の鞄を軽く叩いた。
「行ってらっしゃい」
「うん」
玄関には、父さんがいた。
杖を持っている。
外までは出ない。
でも、今日は玄関まで来ていた。
鈴鹿が靴を履く間、父さんは何も言わなかった。
いつもの沈黙だった。
でも、昔とは少し違う。
黙って逃げているわけじゃない。
言葉を選んでいる沈黙だった。
「鈴鹿」
「うん」
「行ってこい」
短かった。
それだけだった。
でも、十分だった。
「行ってきます」
鈴鹿は答えた。
玄関を出る前に、厩舎へ向かった。
入学式の朝だろうと、ここに寄らずには行けない。
◇ 望視点
鈴鹿の足音が、いつもと違った。
急いでいる。
でも、逃げていない。
鞄の金具が小さく鳴る。
新しい上着の布が擦れる音もする。
俺は馬房の中で顔を上げた。
一歳になった体は、前よりずっと高い。
脚は伸びた。
首も伸びた。
生まれたばかりの頃みたいに、すぐ膝が笑うことはもうない。
でも、完成には遠い。
走る体へ向かう途中の、骨と筋肉だ。
隣の馬房で、クラウンメアが鼻を鳴らした。
「鈴」
「行く日」
「遠い?」
「少し」
「戻る?」
「戻る」
「よし」
母さんはそれで済ませた。
馬はいい。
行く。
戻る。
そこが大事だと、いつも知っている。
鈴鹿が馬房の前に来た。
兄の牧場ジャンパーではない。
新しい上着。
少しだけ肩が硬そうだ。
袖口は握っていない。
代わりに、鞄の持ち手を両手で押さえていた。
「ノゾ」
鈴鹿が笑った。
少し緊張している。
でも、泣く顔ではなかった。
「私、ちゃんと勉強してくる」
俺は柵の近くへ寄った。
「馬の体のこと。飼料のこと。繁殖のこと。壊れない育て方も」
鈴鹿は俺の額へ手を伸ばした。
白い流星に触れる。
父さんも触れた。
春江も触れた。
今日は鈴鹿の手だ。
「牧場に戻るために」
その言葉で、胸の奥が熱くなった。
戻るために、行く。
それならいい。
それなら、送り出せる。
俺は鈴鹿の袖を見た。
今日は、くわえない。
止める日じゃない。
押す日だ。
俺は首を伸ばし、鈴鹿の鞄の端を鼻先で軽く押した。
強くない。
落とさない。
ただ、前へ。
鈴鹿が目を丸くする。
「……押すんだ」
俺は鼻を鳴らした。
行け。
今度は、ちゃんと自分のために。
鈴鹿は少しだけ笑った。
唇が震えていたけれど、涙は落ちなかった。
「うん。行く」
隣の馬房で、クラウンメアが俺の方へ鼻を伸ばした。
「坊や」
「うん」
「鈴、行く」
「うん」
「戻る」
「うん」
「なら、よし」
母さんの言葉は短い。
でも、今日はそれだけでよかった。
鈴鹿はもう一度、俺の額に触れた。
「夏まで、ちゃんと育ってね」
夏。
岸部がもう一度来る季節。
俺がここに残れるか、もう一度見られる季節。
遠い。
でも、今日より遠い。
「私も、ちゃんとやる」
鈴鹿は鞄を肩にかけ直した。
今度は、袖ではなく鞄の持ち手を握る。
そして、馬房に背を向けた。
途中で一度だけ振り返る。
「行ってきます」
俺は鼻を鳴らした。
隣で、クラウンメアも短く鳴いた。
鈴鹿は笑って、牧場の門へ向かった。
新しい上着の背中が、朝の光の中で少しだけ硬く見えた。
でも、前へ進んでいた。
◇ 客観視点
鈴鹿が出ていったあと、風見牧場には少しだけ静かな時間が戻った。
春江は台所で弁当箱の残りを片づけた。
宗一郎は玄関から戻り、椅子に座る前に一度だけ厩舎の方を見た。
三浦は作業表を持って、ノゾミノカゼの馬房へ向かった。
春の空気は冷たすぎず、暖かすぎない。
馬房の中で、ノゾミノカゼは柵の向こうを見ている。
隣の馬房でクラウンメアが鼻を鳴らすと、ノゾミノカゼの耳がすぐそちらへ向いた。
同じ馬房ではない。
それでも、まだ届く距離だった。
ノゾミノカゼの仔馬の丸さは抜け始めている。
脚は長くなった。
首も伸びた。
額の白い流星だけが、生まれた日のまま目立っている。
三浦は馬房札の横に、新しい紙を挟んだ。
育成牧場との連絡メモ。
移動時期の確認。
健康確認。
馬運車の仮手配。
春江がそれを見て、少しだけ息を止める。
「もう、そんな時期なのね」
三浦は頷いた。
「少しずつ準備します。急に連れていく形にはしません」
宗一郎が杖をつきながら近づいてきた。
馬房の中のノゾミノカゼを見る。
「行くのは、鈴鹿だけじゃないか」
誰もすぐには答えなかった。
ノゾミノカゼが、柵の内側で鼻を鳴らした。
まるで聞こえているみたいに。
春江は馬房札を見た。
ノゾミノカゼ。
鈴鹿の字。
少し右上がりの、あの日より少しだけ濃い文字。
「そうね」
春江は言った。
「この子も、行く準備をしないとね」
厩舎の外では、鈴鹿を乗せたバスが遠くの道を曲がっていく。
馬房の中では、ノゾミノカゼが柵の向こうを見ていた。
馬房札はまだここにある。
でも、その横に挟まれた紙だけが、先に外へ出ようとしていた。




