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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第20話 歩いて会いに行く(後半)

 ◇ 客観視点


 翌日、岸部透は牧場の入口で車を止めた。


 前と同じ黒い上着。


 歩きやすそうな靴。


 ただ、今日は事務所へ真っすぐ向かわなかった。


 門柱の横に、宗一郎が立っていたからだ。


 杖をついている。


 春江が半歩後ろにいる。


 三浦は少し離れて、厩舎側に立っていた。


 鈴鹿もいた。


 制服ではなく、牧場用の上着を着ている。


 袖口は握っていない。


 代わりに、進路希望用紙の控えと兄のメモの写しを入れたクリアファイルの角を、両手で押さえていた。


「お待たせしました」


 岸部が頭を下げる。


 宗一郎も、杖に体重を預けながら頭を下げた。


「こちらこそ、来てもらってすみません」


「事務所ではなく、こちらで?」


「はい」


 宗一郎は門柱に手を置いた。


 古い木の表面が、掌に引っかかる。


「ここから、風見牧場です」


 岸部は少しだけ目を細めた。


「なるほど」


「紙の上だけで話すと、五百万円しか見えなくなる」


 宗一郎の声は低かった。


「でも、ここには馬房がある。乾草小屋がある。母馬がいる。仔馬がいる。娘もいる」


 鈴鹿の指が、クリアファイルの角を押さえ直す。


 宗一郎は続けた。


「あの金額は、正直ありがたい」


 春江は目を伏せなかった。


 岸部も黙って聞いている。


「乾草代も払える。獣医代も払える。鈴鹿の進学にも近づく」


 鈴鹿の肩が小さく動いた。


「だから、怖い」


 岸部が初めて少しだけ表情を変えた。


「怖い、ですか」


「はい。金額だけで決めてしまいそうになる」


 宗一郎は杖を握り直した。


「うちは弱い牧場です。金もない。人も足りない。望もいない」


 その名前を出した時、春江の指が少しだけ動いた。


 でも、誰も止めなかった。


「だからこそ、今すぐ売るとは言えません」


 岸部は、すぐには返事をしなかった。


「つまり、お断りですか」


「いいえ」


 宗一郎は首を横に振った。


「今日売るとは言えない、という返事です」


 岸部は黙る。


 三浦が、宗一郎を見た。


 宗一郎は、内ポケットから小さなメモを出した。


 震えた字。


 でも、折り目は春江が直してある。


「一歳の夏まで見たい」


 宗一郎は言った。


「母馬の回復を見る。仔の馬体を見る。歩様を見る。クラウンメアから離す時期も、ちゃんと考える」


 岸部の目が、厩舎の方へ向く。


「その間、他へ売らないと?」


「今の条件では、です」


 宗一郎は逃げなかった。


「ただし、資金が詰まれば再協議します。三か月ごとに数字を出す。乾草代、獣医代、鈴鹿の進学費用。全部見ます」


「鈴鹿さんの進学費用も?」


 岸部が聞いた。


 鈴鹿は顔を上げた。


「私のためにノゾを売るなら、私は進学しません」


 春江が息を止める。


 宗一郎は振り返らなかった。


 振り返らず、前を見たまま言った。


「それは違う」


 鈴鹿の唇が震える。


「父さん」


「ノゾミノカゼを売るか残すかは、牧場として考える。お前が進学するかどうかは、お前の未来として考える」


 宗一郎は、そこで一度だけ息を吸った。


「混ぜない。もう、誰かを誰かの代わりにしない」


 鈴鹿は何も言えなくなった。


 春江が、そっと鈴鹿の背に手を添えた。


 岸部は、しばらく宗一郎を見ていた。


「待てる保証はありません」


「分かっています」


「一歳の夏までに、他に買いたい馬が出るかもしれない」


「それも分かっています」


「その時、私は手を引くかもしれない」


「はい」


 宗一郎は頷いた。


「それでも、今日売るよりはいい」


 岸部は小さく息を吐いた。


 怒っているようには見えなかった。


 むしろ、少しだけ困った顔だった。


「風見さん」


「はい」


「私は、この仔が走ると思っています」


「ありがとうございます」


「だから欲しい」


「はい」


「ですが、今日の返事で、もっと見たくなりました」


 宗一郎の手が、杖の上で止まる。


 岸部は厩舎の方を見た。


「一歳の夏。もう一度、見に来ます」


 鈴鹿が小さく息を吸った。


 春江の肩が少し下がる。


 宗一郎は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし」


 岸部は言った。


「その時に馬体が崩れていたら、私は買いません。金額も今日のままとは限りません」


「承知しています」


「それでも残すんですね」


 宗一郎は、門柱から手を離した。


「残します」


 短い言葉だった。


 でも、門の前にまっすぐ落ちた。


「一歳の夏まで、風見牧場で見ます」


 鈴鹿の目が赤くなった。


 でも、泣かなかった。


 春江は、帳簿を抱えていない。


 今日は、ただ宗一郎の横に立っていた。


 岸部は帽子もないのに、軽く額へ手をやった。


「分かりました」


 それから、少しだけ笑った。


「では、私は夏に厄介な馬を見に来ます」


 三浦が初めて口を開いた。


「厄介ですか」


「ええ」


 岸部は厩舎を見た。


「値段より、理由が先に来る馬ですから」


 ◇ 望視点


 門の方から、人の声が聞こえた。


 全部は分からない。


 でも、父さんの声だけは、いつもより通っていた。


 一歳の夏。


 母馬。


 馬体。


 鈴鹿。


 進学。


 混ぜない。


 ところどころ、言葉が届く。


 俺は馬房の中で、息を止めた。


「坊や」


 クラウンメアが言った。


「人間、話す」


「うん」


「売る?」


「まだ」


「残る?」


「夏まで」


「夏?」


「遠い」


「帰る?」


「まだ、ここ」


「よし」


 母さんは、またそれで終わらせた。


 でも、俺は終われなかった。


 門の方で、父さんが言った。


 はっきり聞こえた。


「残します」


 俺は前脚を踏み直した。


 床が小さく鳴る。


 売られない。


 今は。


 夏まで。


 風見牧場で見る。


 その意味を、馬の体が少し遅れて理解した。


 クラウンメアの匂い。


 鈴鹿の袖。


 春江の紙を伏せる音。


 父さんの杖。


 まだ、ここにある。


 全部、まだ遠くならない。


「坊や」


「うん」


「飲む?」


「飲む」


「寝る?」


「あとで」


「立つ?」


「少し」


「よし」


 俺は柵の方へ歩いた。


 門は見えない。


 岸部の顔も、父さんの表情も見えない。


 でも、鈴鹿の足音が近づいてくる。


 軽い。


 走りかけて、途中で止めた足音。


 馬房の前に来た鈴鹿は、目を赤くしていた。


「ノゾ」


 声が震えている。


「夏まで、うちにいるって」


 俺は鼻を鳴らした。


 鈴鹿は笑った。


 泣きそうな顔のまま。


「まだ決まったわけじゃないよ。夏までだって。ちゃんと育たないと駄目だって。お金も、まだ足りないって」


 分かってる。


 でも、それでいい。


 今日売られない。


 それだけで、今日は十分だ。


「私も、ちゃんと面談行く。奨学金も聞く。分納も聞く。逃げない」


 俺は柵に近づいた。


 袖はくわえない。


 今日は止める日じゃない。


 鈴鹿が自分で言った日だ。


 俺は、鈴鹿の手に鼻を寄せた。


 鈴鹿の指が、俺の額の白い流星に触れる。


「兄さんの代わりにしないって、父さん言った」


 鈴鹿が小さく言う。


「私の代わりに、ノゾを売らないって」


 俺は目を閉じた。


 父さん。


 言えたんだな。


 ちゃんと。


 クラウンメアが後ろから鼻を鳴らす。


「鈴、行く」


「うん」


「坊や、残る」


「夏まで」


「夏、遠い」


「うん」


「なら、飲む」


「うん」


 母さんは、今日も正しい。


 夏まで残るなら、飲む。


 育つ。


 立つ。


 寝る。


 母さんを心配させない。


 鈴鹿を泣かせすぎない。


 父さんが門まで歩くなら、俺は馬房の中で倒れない。


 春江が帳簿を見るなら、俺は乳を飲む。


 それが、今の俺にできる仕事だ。


 俺はクラウンメアの腹へ鼻を寄せた。


 乳の匂いがする。


 温かい。


 生きる匂いだ。


 外では、岸部の車がゆっくり動き出した。


 砂利を踏む音が遠ざかる。


 連れていかれる音ではない。


 また来る音だった。


 俺は乳を飲みながら、耳だけ動かした。


 夏まで。


 遠い。


 でも、今日より遠い。


 売られる今日より、ずっと遠い。


 それだけで、少し息ができた。


 鈴鹿が馬房の外で、ぽつりと言った。


「帰ってきてね」


 俺は飲むのを止めなかった。


 でも、耳だけ鈴鹿へ向けた。


 帰る。


 まだ、どこにも行っていない。


 でも、いつか走るなら。


 売るためでも、残るためだけでもなく。


 この家に帰るために走る。


 そのために、まずは夏まで。


 俺は、母さんの乳を飲み続けた。

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