第20話 歩いて会いに行く(前半)
◇ 客観視点
宗一郎は、母屋の玄関で立ち止まっていた。
靴は履いている。
杖も持っている。
腰には湿布を貼った。
上着のポケットには、岸部透の名刺が入っている。
それでも、玄関の框を越えるまでに時間がかかった。
「無理なら、今日はやめる」
春江が言った。
声は強くない。
でも、すぐ支えられる距離に立っている。
宗一郎は首を横に振った。
「牧場の入口まで行く」
「岸部さんに会うのは明日でいいのよ」
「分かってる」
「じゃあ、今日は入口まで」
「ああ」
春江は手に持っていたタオルを畳み直した。
何度も畳んで、角がずれている。
鈴鹿は学校へ行っている。
進路希望用紙を出した次の日だ。
今朝、玄関で「父さん、無理しないで」と言った。
言ってから、自分で少し驚いた顔をした。
父に何かを頼むのではなく、父の体を心配する言葉だった。
宗一郎はその時、短く答えた。
「無理はする。無茶はしない」
鈴鹿は困った顔をした。
「それ、兄さんも言ってた」
「だろうな」
そう言って、宗一郎は少しだけ笑った。
今は、その言葉を自分で確かめる番だった。
宗一郎は杖を前に出した。
こつん。
玄関の床に音が落ちる。
右足を出す。
腰が少し逃げる。
春江の指が動きかけた。
でも、触れなかった。
二歩。
三歩。
玄関を出る。
外の空気が、少し冷たい。
宗一郎は門の方を見た。
そこまで、遠い。
昔なら、何も考えずに歩いた距離だった。
馬運車を誘導する時は、この倍も三倍も歩いた。
馬房と放牧地を行き来し、乾草小屋へ行き、事務所へ戻り、また厩舎へ向かった。
今は、玄関から牧場の入口までが遠い。
「行ける?」
春江が聞く。
「行く」
宗一郎は答えた。
こつん。
杖の音が、庭の砂利に変わった。
木の床より鈍い音。
足元が少し沈む。
右足が遅れる。
春江は黙って横を歩いた。
支えない。
急かさない。
ただ、横にいる。
宗一郎は、一度だけ足を止めた。
厩舎の方から、馬の鼻鳴らしが聞こえた。
クラウンメアだ。
その横に、あの仔がいる。
ノゾミノカゼ。
五百万円の馬。
望が助けようとした命。
鈴鹿が袖を濡らされた馬。
春江が帳簿の上で計算してしまう馬。
宗一郎は息を吸った。
「春江」
「何?」
「俺は、あの仔を金額だけで見たくない」
「うん」
「だが、金額を見ないふりもできない」
「うん」
「岸部に会ったら、そこを逃げずに言う」
春江は少しだけ頷いた。
「言える?」
「紙に書いてきた」
宗一郎は上着の内ポケットを叩いた。
そこには、名刺とは別に、小さなメモが入っている。
字は震えていた。
けれど、宗一郎の字だった。
今すぐ売らない。
夏まで見る。
母馬の回復を見る。
仔の馬体を見る。
鈴鹿の進路と切り離して考える。
返事は一週間以内。
その下に、もう一行。
望の代わりに、鈴鹿を使わない。
春江はそのメモを今朝、見た。
何も言わず、折り目だけを直して返した。
「入口まで行けたら、今日は合格にして」
春江が言った。
「誰の合格だ」
「私の」
「お前の?」
「止めずに見てる方も、練習が要るの」
宗一郎は少しだけ笑った。
その笑いは、すぐに痛みに変わった。
眉間に皺が寄る。
春江が手を伸ばしかける。
宗一郎は、杖を強く握った。
「まだ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「そういう時だけ元気ね」
春江の声に、少しだけ昔の調子が戻る。
宗一郎はまた歩いた。
こつん。
ざり。
こつん。
ざり。
牧場の入口まで、あと少し。
その時、厩舎の方から、仔馬の短い鼻鳴らしが聞こえた。
宗一郎は足を止めた。
「見てるな」
春江が厩舎を見た。
「見てるわね」
「嫌な仔だ」
「あなたに似たのかも」
「望に似たんだ」
言ってから、宗一郎は自分で黙った。
けれど、前のように言葉を飲み込まなかった。
「……望に似たんだろうな」
もう一度、少しだけ静かに言った。
春江は何も返さなかった。
ただ、横にいた。
宗一郎は牧場の入口まで歩いた。
門柱に手を置く。
冷たい。
古い木の表面が、掌に引っかかる。
昔、望が塗り直そうと言っていた場所だ。
結局、後回しになった。
そういう後回しが、牧場にはいくつも残っている。
宗一郎は門柱を握った。
「明日、岸部に会う」
「うん」
「ここで」
「事務所じゃなくて?」
「まず、ここで」
宗一郎は牧場の奥を見た。
厩舎。
乾草小屋。
母屋。
古い馬房。
どれも、金に困っている場所だった。
でも、金だけではなかった。
「紙の前じゃなく、牧場の入口で会う」
春江は宗一郎を見た。
「風見牧場として?」
「ああ」
宗一郎は短く答えた。
「風見牧場として」
◇ 望視点
父さんが歩いていた。
厩舎の中からでも分かった。
杖の音が、いつもより遠い。
こつん。
ざり。
こつん。
ざり。
砂利の音が混じっている。
外を歩いている。
玄関から、牧場の入口へ向かっている。
俺は顔を上げた。
クラウンメアが耳を立てる。
「父、遠い」
「歩く」
「痛い」
「うん」
「なぜ?」
「会うため」
「誰?」
「岸部」
「売る?」
「まだ」
「残る?」
「まだ」
「生きる?」
「うん」
「よし」
母さんは、またそれで終わらせた。
俺は終わらせられなかった。
父さんの杖の音が、砂利の上で少し乱れる。
右足が遅れた時の音だ。
分かる。
見なくても分かる。
望だったころ、あの音がすると、すぐ外へ出た。
父さん、座れ。
父さん、今日はもうやめろ。
父さん、俺が行く。
そう言って、父さんの仕事を奪った。
守っているつもりだった。
でも、父さんから牧場主の足を奪っていたのかもしれない。
今は出られない。
止められない。
それが、少しだけよかった。
父さんは自分で歩いている。
痛くても。
遅くても。
春江が横にいても。
自分の杖で、牧場の入口まで歩いている。
俺は馬房の中で、前脚をそろえた。
踏まない。
鳴かない。
今日は、見ている。
父さんが行くなら、行かせる。
クラウンメアが俺の背を舐めた。
「坊や」
「うん」
「行かない?」
「行けない」
「怒る?」
「少し」
「でも、見る」
「うん」
「よし」
母さんの「よし」は、雑だ。
でも、嫌いではない。
父さんの足音が止まった。
遠くで、春江の声がする。
何を言っているかは分からない。
でも、声は尖っていない。
父さんも何かを返した。
少しだけ、笑ったような息が混じった。
俺は鼻を鳴らした。
それでいい。
牧場の入口まで行けた。
たぶん。
父さんが、入口で止まっている。
そこは、馬運車が入ってくる場所だ。
買い手も、獣医も、乾草屋も、みんなあそこから来る。
そして、あそこから出ていく。
望だった俺も、何度もあそこに立った。
馬を送り出す時。
帰ってくる馬を待つ時。
売られていく馬を見送る時。
そのたびに、門柱を触った。
古い木で、少しささくれている。
父さんも今、触っているのかもしれない。
俺は目を閉じかけた。
明日、岸部が来る。
父さんは会う。
紙の前ではなく、牧場の入口で。
それは、たぶん大事なことだ。
五百万円の話は消えない。
鈴鹿の進学費用も消えない。
乾草代も残っている。
でも、売るか残すかを、机の上の数字だけで決めない。
父さんがそう言おうとしている。
俺は乳の匂いに鼻を寄せた。
今日はもう飲んでいる。
でも、もう少しだけ飲む。
明日、父さんが立つなら。
俺も、倒れているわけにはいかない。
「坊や」
「うん」
「飲む」
「飲む」
「よし」
母さんは満足そうに鼻を鳴らした。
外では、杖の音が戻ってくる。
こつん。
ざり。
こつん。
ざり。
行きより、少しだけ遅い。
でも、戻ってきている。
それでいい。
行って、戻る。
父さんも。
鈴鹿も。
俺も。
この牧場で必要なのは、たぶんそれだった。




