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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第19話 返事を急がない家

 ◇ 客観視点


 朝、岸部から電話があった。


 春江は、受話器を取ったまま、机の上の封筒を見た。


 五百万円。


 その数字が書かれた紙は、昨日から裏返してある。


 裏返しても、そこにあることは分かる。


「はい。昨日はありがとうございました」


 春江の声は、いつもより少し硬かった。


 宗一郎は椅子に座っていた。


 杖を膝の横に置き、春江の手元を見ている。


 鈴鹿は学校へ行った。


 進路希望用紙を出した次の日で、鞄の中には兄のメモの写しだけが入っている。


 机の端には、乾草屋の請求書。


 相馬先生の診療明細。


 岸部の封筒。


 鈴鹿の進学費用を書き出したメモ。


 紙ばかりが増えていく。


「……返事ですか」


 春江の指が、受話器のコードを軽く押さえた。


 宗一郎の目が細くなる。


「少し、お時間をいただけませんか」


 電話の向こうの声は聞こえない。


 春江は黙って聞いた。


「一週間」


 その言葉で、宗一郎の手が杖にかかった。


「分かりました。家族で話します」


 春江はそう言って、受話器を置いた。


 しばらく、誰も動かなかった。


「一週間か」


 宗一郎が言った。


「ええ」


 春江は、裏返した封筒に手を置いた。


「岸部さんも、いつまでも待てないって。ほかに買いたい馬も見るそうよ」


「当然だ」


 宗一郎は短く答えた。


 怒ってはいなかった。


 岸部は商売をしている。


 馬主として、馬を探している。


 風見牧場だけを待つ理由はない。


「一週間で、売るか残すか決めるのか」


 春江の声は、低かった。


「決めない」


 宗一郎が言った。


 春江が顔を上げる。


「決めない?」


「売るか残すかを、一週間で決めるんじゃない」


 宗一郎は杖を取った。


 まだ立たない。


 ただ、手元に引き寄せた。


「一週間で決めるのは、岸部に何を返すかだ」


 春江は黙った。


「今すぐ売りません。だが、話を切るわけでもありません。夏まで見ます。それでも待てるなら、その時にもう一度見てください」


「そんな都合のいい返事が通る?」


「通らないかもしれない」


 宗一郎は言った。


「だが、こちらも馬を売るんだ。頭を下げるだけじゃない。条件を言う」


 春江の目が少し揺れた。


 宗一郎が、そう言った。


 売ってくださいではなく。


 買ってくださいでもなく。


 こちらの条件を言う、と。


「あなた、岸部さんに直接言うの?」


「ああ」


「電話で?」


「いや」


 宗一郎は、そこで初めて杖に体重をかけた。


「向こうが来るなら、俺が会う」


「無理よ」


 春江の声が早くなった。


「昨日だって乾草小屋へ行っただけで、夜まで痛がっていたでしょう」


「痛い」


「だったら」


「痛いが、行く」


 宗一郎は立ち上がった。


 右足が少し遅れる。


 杖の先が床を探す。


 こつん。


 音はまだ弱い。


 けれど、昨日より前に出ていた。


「鈴鹿の面談にも行く。岸部にも会う。俺が牧場主だ」


 春江は、すぐには何も言えなかった。


 宗一郎の顔色は悪い。


 腰も痛い。


 立っているだけで、額にうっすら汗が浮いている。


 それでも、目だけは逃げていなかった。


「望に任せていたことを、少しずつ戻す」


 宗一郎は言った。


「全部は無理だ。今さら全部は無理だ。だが、返事くらいは俺がする」


 春江は、裏返した封筒から手を離した。


「……分かった」


 そう言ってから、台所の方へ行きかける。


 途中で戻ってきて、引き出しから湿布を出した。


 宗一郎の前に置く。


「貼ってから行く練習をして」


「今か」


「今」


 春江の声は、少しだけ昔に戻っていた。


 宗一郎は渋い顔をした。


 でも、湿布の袋を受け取った。


 ◇ 望視点


 父さんの杖の音が、朝から聞こえた。


 こつん。


 こつん。


 止まる。


 また、こつん。


 いつもの厩舎までの足音じゃない。


 母屋の中で、何度も行ったり来たりしている音だ。


 歩く練習をしている。


 俺は馬房の中で耳を立てた。


「来る?」


 クラウンメアが言った。


「まだ」


「父、痛い」


「うん」


「歩く?」


「歩く」


「なぜ?」


「返事」


「返事?」


「売る話」


 母さんの耳が少し伏せられた。


「坊や、行く?」


「まだ分からない」


「母、嫌」


「うん」


「鈴、嫌?」


「たぶん」


「父?」


「痛いけど、行く」


 クラウンメアは、しばらく黙った。


 馬の沈黙は短い。


 でも、母さんは少しだけ長く黙った。


「父、来る」


「うん」


「なら、見る」


「うん」


 事務所の方から、春江の声が聞こえた。


 はっきりとは聞こえない。


 でも、湿布の袋を破る音は聞こえた。


 ぱり、と乾いた音。


 父さんが嫌そうに息を吐く音。


 春江が何かを短く言う音。


 望だったころの俺なら、笑った。


 父さん、湿布くらい素直に貼れ。


 母さん、そこじゃない、腰の少し下。


 そう言ったと思う。


 今は言えない。


 でも、なぜか少しだけ安心した。


 春江が怒っている。


 父さんが渋っている。


 そういう普通のやり取りが、牧場に戻ってきた気がした。


 こつん。


 また杖の音がした。


 今度は厩舎の方へ近づいてくる。


 父さんが来た。


 春江も一緒だ。


 馬房の前で、父さんは止まった。


 昨日より、息が荒い。


 けれど、立っている。


「ノゾ」


 父さんが俺を見た。


「一週間だそうだ」


 全部は分からない。


 でも、五百万円の話だと分かった。


 俺は鼻を鳴らした。


「すぐ売るとは言わない」


 父さんは続けた。


「だが、断るともまだ言えない」


 正直な言葉だった。


 きれいではない。


 でも、逃げていない。


「夏まで見る、と言うつもりだ」


 俺は父さんの足を見た。


 右足が震えている。


 杖を握る手も、少し白い。


 それでも、父さんは言った。


「お前が壊れず育つか。クラウンが戻るか。鈴鹿が進学をどうするか。そこまで見てから決めたい、と言う」


 春江が横で黙っていた。


 手には、使い終わった湿布の袋。


 その袋を、くしゃりと握っている。


「通るかは分からないわ」


 春江が言った。


「でも、言うだけは言う」


 父さんが答える。


 俺は一歩、柵に近づいた。


 近づきすぎない。


 父さんを支えることはできない。


 電話もできない。


 岸部に頭も下げられない。


 でも、見ていることはできる。


 父さんが逃げないところを。


 春江が紙を伏せずに見ているところを。


 鈴鹿が出した紙の先を。


 クラウンメアが俺の背を舐めた。


「坊や」


「うん」


「残る?」


「まだ」


「売る?」


「まだ」


「生きる?」


「うん」


「よし」


 母さんは、またそこへ戻した。


 生きる。


 迷うのは人間の仕事。


 でも、生きていなければ迷うこともできない。


 俺は母さんの腹へ鼻を寄せた。


 乳の匂いがする。


 今日はためらわなかった。


 飲む。


 明日も選べるように。


 父さんが、馬房の外で小さく息を吐いた。


「……飲んだな」


 春江が、ほんの少しだけ笑った。


「ええ」


 父さんは杖を握り直した。


「じゃあ、俺も歩く」


「無理しないで」


「分かってる」


「分かってない顔よ」


「……貼っただろ、湿布」


「貼っただけで治るなら苦労しないわ」


 春江の声に、少しだけ力が戻っていた。


 父さんは何も言い返せなかった。


 俺は乳を飲みながら、耳だけ動かした。


 一週間。


 岸部への返事。


 進路面談。


 乾草代の残り。


 何も片づいていない。


 でも、父さんは歩くと言った。


 春江は湿布を出した。


 俺は飲んだ。


 それぞれが、自分の足元でできることを一つだけした。


 今日のところは、それでいい。


 父さんの杖の音が、また遠ざかる。


 こつん。


 こつん。


 昨日より少しだけ、間が短かった。


 父さんは杖を握った。

 春江は湿布の袋を小さく丸めた。

 俺は母さんの乳を飲んだ。


 今日できたのは、それだけだった。

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