第18話 出した紙は戻らない
◇ 鈴鹿視点
進路希望用紙を、提出箱に入れるだけだった。
たったそれだけ。
紙一枚。
でも、鈴鹿の指はなかなか離れなかった。
職員室前の小さな提出箱。
上には、赤い字で締切日が貼られている。
今日の日付。
その下に、何人分もの紙が重なっていた。
みんな、普通に出している。
悩んだのかもしれない。
家で揉めた子もいるかもしれない。
受験料で親に嫌な顔をされた子もいるかもしれない。
でも、鈴鹿の紙には、乾草屋の請求書の匂いがついている気がした。
ノゾの鼻先でついた小さなしわ。
涙の跡。
消しかけた「農」の字。
その上を、昨夜、赤ペンでなぞった。
兄さんの古いメモと並べながら。
鈴鹿。
受験料。
初年度。
交通費。
牧場から通えるか。
下宿なら無理。
兄さんの字は、そこに残っていた。
「風見さん?」
担任が職員室の中から声をかけた。
鈴鹿は肩を少し揺らした。
「出す?」
担任の声は、昨日と同じで責めていなかった。
でも今日は、少しだけ待ってくれている声だった。
鈴鹿は紙を見た。
第一希望。
農学部・動物資源科学系。
第二希望。
畜産科学系。
字は、まだ少し震えている。
でも、消えていない。
紙の角が、指の汗で少しだけ柔らかくなっていた。
このまま握っていたら、また折り目が増える。
鈴鹿は息を吸った。
「出します」
声は小さかった。
でも、自分の耳にはちゃんと聞こえた。
紙を箱に入れる。
指を離す。
進路希望用紙は、他の紙の上に乗った。
それだけだった。
鐘も鳴らない。
誰も拍手しない。
牧場の借金も消えない。
ノゾの売却話も消えない。
でも、鈴鹿の手から紙は離れた。
出した紙は、もう胸に隠せない。
担任が職員室から出てきた。
「受け取ったよ」
「はい」
「お父さんから、今朝電話があった」
鈴鹿は顔を上げた。
「父さんが?」
「うん。進路面談の日程と、費用のこと。奨学金や分納の相談先も聞いていた」
父さんが。
電話した。
本当に。
鈴鹿は、職員室の扉の金属の取っ手を見た。
少し曇っていて、自分の顔が歪んで映っている。
「お父さん、こう言ってたよ」
担任は、少しだけ声を低くした。
「本人が行きたいと言ったら、まず聞く。家の事情は、そのあと大人が話します、って」
鈴鹿は喉の奥が熱くなった。
泣くな。
ここは学校だ。
そう思って、袖を握ろうとした。
でも、途中で止めた。
袖は握らなかった。
「……父さん、そんなこと言ったんですか」
「言ってた」
「声、怖くなかったですか」
担任が少し笑った。
「真面目だった」
「怖い時の父さんだ」
「そうなの?」
「はい」
鈴鹿は少しだけ笑えた。
笑ったら、目の奥がもっと熱くなった。
担任は進路希望用紙の束を持った。
「じゃあ、次は面談ね。お母さんかお父さん、どちらか来られる?」
「父さんが来ると思います」
言ってから、鈴鹿は驚いた。
昨日までなら、母さんと答えた。
父さんは体が悪いから。
牧場の話になると苦しそうだから。
兄さんの話になると黙るから。
でも、今日は自然にそう言えた。
父さんが来ると思います。
その言葉が、少しだけ心強かった。
放課後、鈴鹿は急いで帰らなかった。
校門を出て、少しだけ立ち止まる。
鞄の中は軽い。
進路希望用紙がない。
その軽さが、怖かった。
でも、空っぽではない。
兄さんのメモの写しが入っている。
折れないように、クリアファイルへ入れてきた。
鈴鹿は鞄を胸に抱えた。
「出したよ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
兄さんにか。
父さんにか。
母さんにか。
ノゾにか。
でも、言いたかった。
牧場へ帰る道で、風が少しだけ乾草の匂いを運んできた気がした。
◇ 望視点
鈴鹿の足音が、昨日と違った。
軽い、とは違う。
走っているわけでもない。
でも、止まる回数が少ない。
馬房の中で、俺は耳を立てた。
「来る」
クラウンメアが言った。
「鈴鹿」
「泣く?」
「たぶん、少し」
「痛い?」
「少し」
「よし」
何がよしなのか分からない。
でも、母さんはそれで納得していた。
鈴鹿は馬房の前まで来た。
鞄を胸に抱えている。
でも、進路希望用紙は持っていない。
昨日まで、ずっと握っていた紙がない。
俺は柵の近くまで行った。
紙は?
出したのか。
消したのか。
聞けない。
鈴鹿は柵に手を置いた。
「ノゾ」
声が、少しだけ明るかった。
明るいというより、震えながら前に出ている声だった。
「出してきた」
俺は鼻を鳴らした。
強めに。
鈴鹿が笑った。
「うん。進路希望用紙。出してきた」
俺はもう一度、鼻を鳴らした。
よし。
よしだ。
クラウンメアが俺を見る。
「鈴、出す」
「うん」
「戻る?」
「戻るために、行く」
「遠い?」
「たぶん」
「帰る?」
「帰る」
「よし」
母さんは、それで全部分かったような顔をした。
馬はすごい。
行く。
戻る。
帰る。
それだけで足りる時がある。
鈴鹿は鞄から、別の紙を出した。
クリアファイルに入った古いメモ。
俺の字だった。
正確には、望だった俺の字。
鈴鹿。
受験料。
初年度。
交通費。
牧場から通えるか。
下宿なら無理。
見えた瞬間、変な気分になった。
俺が書いた。
夜中に、眠い目をこすりながら。
鈴鹿がまだ何も言っていないのに、勝手に調べていた。
あいつが言い出した時に、すぐ動けるように。
なのに、言わなかった。
言ったら、鈴鹿が気を遣うと思った。
春江が困ると思った。
父さんがさらに黙ると思った。
結局、俺も黙っていた。
父さんと似ている。
嫌になる。
「兄さん、こんなの調べてたんだね」
鈴鹿が言った。
「字、汚い」
ひどい。
でも、事実だ。
俺は鼻を鳴らした。
「怒った?」
怒っていない。
反論できない。
鈴鹿は少し笑った。
「でも、嬉しかった」
その一言で、息が変になった。
馬の喉だ。
人間みたいには詰まらない。
でも、呼吸が一つ遅れた。
俺は柵の近くまで、もう半歩近づいた。
鈴鹿は手を出した。
俺の額に触れる。
白い流星。
父さんも触れた場所。
春江も触れた場所。
今度は鈴鹿の手だ。
「父さんが、学校に電話してたって」
鈴鹿の指が少し震える。
「本人が行きたいって言ったら、まず聞くって。家の事情は、そのあと大人が話すって」
父さん。
言ったのか。
ちゃんと。
俺は目を閉じた。
少しだけ。
あの人は、遅い。
不器用だ。
でも、来た。
電話した。
言った。
それでいい。
「母さんも、奨学金とか分納とか聞いてこいって」
鈴鹿は続けた。
「だから、聞く。面談で聞く。お金ないから無理、じゃなくて、何が使えるか聞く」
俺は鼻を鳴らした。
それだ。
それでいい。
消す前に、聞く。
諦める前に、出す。
売る前に、見る。
全部、同じだ。
「でも、ノゾ」
鈴鹿の声が、少し落ちた。
「岸部さんの五百万円、消えたわけじゃないよね」
俺は動かなかった。
消えていない。
あの数字は、まだ事務所の机にある。
俺が聞いた金の話は、まだ生きている。
鈴鹿は俺の額を撫でた。
「私、あのお金で行きたいわけじゃない」
声が細くなる。
「でも、あのお金があれば行けるかもしれないって、思っちゃった」
それでいい。
思うな、とは言えない。
俺だって思った。
俺を売れば、鈴鹿が行けるかもしれない。
牧場が息をつけるかもしれない。
その考えは消せない。
消せないなら、見ればいい。
紙と同じだ。
見て、消さずに、考えろ。
俺は鈴鹿の手のひらに鼻を押しつけた。
少し強く。
鈴鹿が息を止める。
「答え、まだ出さなくていい?」
俺は答えられない。
でも、鼻を離さなかった。
鈴鹿は小さく頷いた。
「うん。まだ、出さない」
クラウンメアが後ろで鼻を鳴らした。
「寝る?」
「まだ」
「鈴、出す」
「出した」
「なら、寝る」
「うん」
母さんの中では、もう話が終わっているらしい。
鈴鹿は笑った。
「クラウン、たぶん寝ろって言ってる」
だいたい合ってる。
俺は少しだけ脚を折りかけて、止めた。
今日は、もう少し立っていたかった。
鈴鹿が出した紙の話を、もう少し聞いていたかった。
でも、母さんが耳を伏せた。
「寝る」
「はい」
俺は脚を折った。
藁に体を預ける。
鈴鹿は馬房の前で、進路希望用紙ではなく、兄のメモを胸に抱えていた。
出した紙は戻らない。
でも、戻れないわけじゃない。
鈴鹿は行く。
戻るために、行く。
俺は目を閉じた。
売るか残すかは、まだ決まっていない。
五百万円も消えていない。
でも今日、鈴鹿の未来は箱の中に入った。
消しゴムではなく、提出箱の中に。
提出箱の中に入った紙だけが、昨日より遠くにあった。




