第17話 父、初めて怒る
◇ 客観視点
夕飯は、母屋ではなく事務所の小さなテーブルで済ませた。
春江が握ったおにぎり。
昨日の味噌汁を温め直したもの。
漬物。
食卓と呼ぶには狭い。
けれど、今日は誰も母屋へ戻ろうとしなかった。
机の端には、帳簿がある。
岸部透の封筒がある。
鈴鹿の進路希望用紙がある。
食事の皿より、紙の方が多かった。
鈴鹿はおにぎりを半分だけ残した。
春江はそれに気づいたが、何も言わなかった。
宗一郎は杖を椅子の横に立てかけ、味噌汁の椀を両手で持っていた。
湯気が薄く上がる。
誰も、うまいとも、まずいとも言わない。
先に口を開いたのは、鈴鹿だった。
「私、進学やめる」
春江の箸が止まった。
宗一郎も、椀を置いた。
鈴鹿は進路希望用紙を見なかった。
見たら、言えなくなるからだ。
「牧場に残る。母さん一人じゃ無理だし、父さんもまだ現場に戻れないし、ノゾだって売るか分からない。だったら、私が」
「鈴鹿」
春江が止めようとした。
でも、その先が出なかった。
お金がない。
人手もない。
牧場は苦しい。
鈴鹿の言葉は間違っていない。
間違っていないから、春江は言葉に詰まった。
鈴鹿は、残したおにぎりを見た。
「いいよ。私、もともと牧場好きだし。大学行かなくても、ここで覚えればいいし」
声だけが、少し明るくなった。
無理に明るくした声だった。
「兄さんだって、そうしてたし」
その瞬間。
杖の先が、床を叩いた。
こつん、ではなかった。
乾いた音が、事務所の床を強く打った。
鈴鹿の肩が跳ねる。
春江も宗一郎を見る。
宗一郎の顔色は悪い。
それでも、目だけは逃げていなかった。
「望を、言い訳にするな」
低い声だった。
鈴鹿の唇が震えた。
「言い訳じゃない」
「言い訳だ」
「違う!」
鈴鹿が初めて声を荒げた。
「兄さんはいないじゃん!」
事務所の空気が止まった。
春江が息をのむ。
宗一郎の手が、杖の柄の上で止まる。
鈴鹿は言ってから、口を押さえなかった。
涙も拭かなかった。
止められなかった言葉を、そのまま床に落とした。
「いないじゃん。兄さんはもういない。牧場を回してた兄さんも、私に『ちゃんと書け』って言う兄さんも、夜に帳簿見てた兄さんも、もういないじゃん」
宗一郎は黙っていた。
その沈黙が、鈴鹿には怖かった。
でも、宗一郎は目を伏せなかった。
「そうだ」
短く言った。
「望はいない」
春江の目が揺れる。
鈴鹿の顔が歪む。
宗一郎は、逃げなかった。
「だから、俺が言う」
杖を握る手に力が入る。
「お前が進学を諦めるな。望は、そんなこと望んでいない」
「分かんないでしょ」
「分かる」
「なんで」
「見ていたからだ」
宗一郎は、椅子の横に置いていた古い封筒を机に出した。
岸部の封筒ではない。
茶色く古い封筒。
角が少し丸くなっている。
「望の部屋にあった」
鈴鹿が固まる。
宗一郎は封筒から数枚の紙を出した。
大学の資料。
学費のメモ。
奨学金の制度を印刷した紙。
余白には、望の字があった。
鈴鹿。
受験料。
初年度。
交通費。
牧場から通えるか。
下宿なら無理。
春江が、口元を押さえた。
鈴鹿は紙を見つめた。
兄の字だった。
少し右上がり。
急いで書くと「料」の右側が潰れる癖。
間違いなく、兄の字だった。
「望は、お前に言わなかった」
宗一郎が言った。
「あいつは、勝手に調べていた。お前が行きたいと言った時、どうにかできるように」
鈴鹿の涙が落ちた。
紙の上ではなく、膝の上に。
「なんで……」
「心配させたくなかったんだろう」
「馬鹿じゃん」
「ああ」
宗一郎は頷いた。
「馬鹿だ」
春江が目を伏せた。
宗一郎は続けた。
「俺も馬鹿だった。望に背負わせた。春江にも背負わせた。今度は、お前に同じことをさせるところだった」
鈴鹿は首を横に振った。
「私が残れば」
「残るなと言ってるんじゃない」
宗一郎の声が少しだけ強くなった。
「お前が選んで残るなら、聞く。だが、金がないから、兄貴がいないから、牧場が苦しいから。それで自分の行きたい場所を消すな」
鈴鹿は、兄の字が書かれた紙を握った。
ぐしゃり、と音がした。
すぐに手を緩める。
破ってはいけないと思った。
「でも、ノゾは」
声が震える。
「ノゾを売れば、私、行けるかもしれないんでしょ」
春江の顔が痛そうに歪んだ。
宗一郎は、すぐには答えなかった。
逃げなかった。
「そうだ」
鈴鹿の涙が、また落ちる。
「売れば、金になる。お前の進学にも近づく」
「じゃあ」
「だが、それだけで決めない」
宗一郎は言った。
「ノゾミノカゼは、金額だけの馬じゃない。クラウンの仔だ。望が助けようとした命だ。風見牧場が、まだ何を残せるかを見せる馬でもある」
鈴鹿は黙った。
「だから、売るか残すかも、進学するか残るかも、逃げるために決めるな」
宗一郎は、机の上の進路希望用紙を鈴鹿の方へ押した。
「明日、学校に出せ」
「父さん」
「出せ。金は、俺と春江が考える。三浦にも相談する。岸部への返事も急がない」
春江が頷いた。
涙は落としていない。
でも、目元は赤かった。
「鈴鹿」
春江が言った。
「行きたいなら、行きたいって書きなさい」
鈴鹿は進路希望用紙を見た。
消しかけた「農」の字。
涙の跡。
ノゾの鼻でしわになった端。
兄の字が書かれた学費メモ。
全部が、机の上に並んでいる。
鈴鹿は消しゴムを探した。
そこにはない。
春江が、まだ返していない。
代わりに、赤ペンがあった。
兄さんが昔、勝手に持ってきそうな赤ペン。
鈴鹿はそれを手に取った。
消しかけた「農」の字を、なぞった。
ゆっくり。
少し震えながら。
でも、消すためではなく、濃くするために。
「……出す」
鈴鹿は言った。
「私、これ出す」
宗一郎は頷いた。
春江も頷いた。
その時、厩舎の方で、蹄が床を叩く音がした。
一度だけ。
強く。
鈴鹿が顔を上げた。
「ノゾ?」
◇ 望視点
全部は聞こえなかった。
事務所の戸は閉まっていた。
夜の空気は冷えていて、声は切れ切れにしか届かない。
でも、聞こえた。
進学やめる。
兄さんはいないじゃん。
望は、そんなこと望んでいない。
俺の名前。
鈴鹿の声。
父さんの低い声。
春江の息。
それだけで、十分だった。
俺は馬房の中で、前脚に力を入れた。
クラウンメアが顔を上げる。
「坊や」
「うん」
「怒る?」
「違う」
「痛い?」
「痛い」
「行く?」
「行けない」
「踏む?」
「踏む」
母さんは少しだけ首を傾げた。
俺は前脚を上げた。
床を叩く。
一度だけ。
強く。
馬房の木の床が、乾いた音を返した。
それは言葉じゃない。
返事にもならない。
でも、止まっていられなかった。
鈴鹿。
消すな。
父さん。
言ってくれてありがとう。
春江。
その紙を伏せないでくれ。
俺はここにいる。
何も伝わらなくてもいい。
いや、嘘だ。
少しでいいから、届いてほしかった。
クラウンメアが俺の首を舐める。
「届く?」
「分からない」
「でも、踏んだ」
「うん」
「よし」
母さんは、それで十分だと言うように鼻を鳴らした。
事務所の方で、誰かが椅子を引く音がした。
足音が近づいてくる。
軽い。
少し走っている。
鈴鹿だ。
馬房の前に来た鈴鹿は、進路希望用紙を胸に抱えていた。
目が赤い。
でも、さっきまでとは違う。
「ノゾ」
鈴鹿は柵に手を置いた。
「出す」
声が震えていた。
でも、言い切った。
「私、これ出す」
俺は鼻を鳴らした。
鈴鹿は笑った。
泣きながら。
「今の、返事?」
返事だ。
たぶん。
いや、返事にしたい。
俺は柵の手前まで近づいた。
紙はくわえない。
袖もくわえない。
今日は、止める日じゃない。
鈴鹿が自分で出すと言った日だ。
俺は、鈴鹿の手の甲に鼻を寄せた。
冷たい。
紙を握っていたせいか、指先が少し固い。
鈴鹿はそのまま動かなかった。
「兄さんが、調べてくれてたんだって」
鈴鹿が言った。
「学費とか、奨学金とか。私に言わないで」
知ってる。
俺がやった。
言えない。
俺は鼻を離さなかった。
「馬鹿だよね」
うん。
馬鹿だ。
「でも、嬉しかった」
俺は目を閉じかけた。
だめだ。
寝るには早い。
鈴鹿が泣いている。
「ノゾ」
「……」
「私、行きたいって書く。牧場に戻るために、行きたいって」
俺は小さく息を吹いた。
鈴鹿の手が少し温まる。
クラウンメアが後ろで鼻を鳴らした。
「鈴」
「行く」
「戻る?」
「戻る」
「よし」
母さんは、それで分かったことにしたらしい。
鈴鹿は涙を拭いた。
今度は袖で拭かなかった。
進路希望用紙を濡らさないように、手の甲で拭いた。
「明日、出してくる」
俺はもう一度、鼻を鳴らした。
今度は少し短く。
鈴鹿が頷く。
「うん。分かった。寝て」
命令が遅い。
でも、今日は許す。
俺は藁の上へ戻った。
脚を折る。
クラウンメアがすぐに俺を舐めた。
「坊や」
「うん」
「鈴、行く」
「うん」
「戻る」
「うん」
「なら、寝る」
「うん」
母さんの言葉はいつも短い。
でも、今日はそれだけで足りた。
鈴鹿は馬房の前に、少しだけ立っていた。
進路希望用紙を胸に抱えて。
兄の字が書かれた学費メモを、もう片方の手に持って。
売却額の五百万円は、まだ事務所の机にある。
乾草代も残っている。
岸部への返事もまだだ。
何も片づいていない。
それでも、鈴鹿は明日、紙を出す。
俺は目を閉じた。
今日、勝ったわけじゃない。
でも、消しかけた未来を、少しだけ濃くできた。
それで十分だった。




