第16話 母の帳簿
◇ 春江視点
夜の事務所で、帳簿を開いた。
紙をめくる音が、やけに大きい。
乾草代。
獣医代。
削蹄代。
電気代。
借入の返済。
鈴鹿の受験料。
入学金。
交通費。
教材費。
どれも必要だった。
どれも、あとでいいとは言えなかった。
春江は鉛筆を持ったまま、数字の横に小さく丸をつけた。
半分だけ払う乾草代。
三週間以内に払う残り。
岸部が置いていった五百万円。
その数字だけ、帳簿の上で浮いて見える。
五百万円。
乾草屋に頭を下げなくて済む。
相馬先生にも支払える。
鈴鹿の進学費用にも回せる。
クラウンメアの管理も、しばらくはできる。
そう考えた瞬間、春江は鉛筆を置いた。
置いたというより、指から落ちた。
机の端に、鈴鹿の進路希望用紙の写しがある。
農学部。
動物資源科学系。
消しかけた跡。
涙の跡。
あの子は、あの紙を胸に押しつけていた。
ノゾミノカゼを売れば、その紙は少し軽くなる。
でも、その紙を軽くするために、あの仔を馬房から出すのか。
クラウンメアから離すのか。
鈴鹿が袖を握る理由を、また一つ増やすのか。
「……だめね」
春江は、誰に言うでもなく呟いた。
母親なのに、すぐ計算してしまう。
売ったらいくら残る。
支払いにいくら回せる。
進学にいくら残せる。
泣く前に、まず数字を見る。
それが嫌だった。
でも、数字を見なければ、馬は食べられない。
鈴鹿も進めない。
宗一郎は明日、学校へ電話すると言った。
あの人なりに、父親に戻ろうとしている。
鈴鹿は「行きたい」と言った。
あの子なりに、逃げずに言った。
ノゾミノカゼは乳を飲んだ。
あの仔なりに、生きることを選んだ。
それなのに。
春江だけが、また帳簿の前で止まっている。
電話の横に、望のマグカップが置いてあった。
片づけられないまま、ずっとそこにある。
欠けたふち。
内側の茶渋。
取っ手のところに、薄く残った泥の跡。
望は夜中、よくそのマグカップで冷めた茶を飲んでいた。
飲みながら、帳簿を覗き込む。
『母さん、それ今月分?』
『見なくていい』
『見るよ。俺が乾草屋に電話する』
『あんたは寝なさい』
『寝る寝る。これだけ見たら』
そう言って、結局寝なかった。
春江は請求書の一枚を手に取った。
岸部の封筒ではない。
乾草屋の請求書でもない。
鈴鹿の受験料のメモでもない。
全部、見たくなくて。
全部、見なければならなくて。
春江はその紙を、裏返して伏せた。
一枚だけ。
それだけで、何かを隠せた気になった。
何も変わらない。
金額は消えない。
期限も伸びない。
それでも、紙の表が見えなくなっただけで、息が少しだけ入った。
泣くつもりはなかった。
泣いている時間があれば、数字を合わせなければいけない。
でも、目の奥が熱い。
春江は顔を上げた。
窓の外に、厩舎の屋根が見える。
あの中に、クラウンメアがいる。
ノゾミノカゼがいる。
望が助けようとした命がいる。
春江は、伏せた請求書の上に手を置いた。
「明日、見よう」
声に出して言った。
明日も見る。
逃げない。
でも、今夜は伏せる。
それだけは、自分に許した。
◇ 望視点
母屋の灯りが、まだ消えない。
夜の厩舎から、事務所の窓だけが小さく見えた。
春江だ。
あの灯りの色は、帳簿を開いている時の色だ。
テレビでもない。
食卓でもない。
台所でもない。
机の上に紙を広げて、背中を丸めている時の灯りだ。
望だったころなら、母屋へ行った。
母さん、寝ろ。
明日見るから。
俺が乾草屋に電話するから。
相馬先生には俺から言うから。
鈴鹿には聞かせるな。
そう言って、帳簿を奪った。
たぶん、また同じことをした。
そして、また自分で抱えた。
馬房の中で、俺は鼻を鳴らした。
今は行けない。
ドアを開けられない。
電話もできない。
請求書を伏せることもできない。
クラウンメアが顔を上げた。
「坊や」
「うん」
「人間、起きる」
「母さん」
「母?」
「春江」
「痛い?」
「たぶん」
「行く?」
「行けない」
「寝る?」
「まだ」
母さんは、俺の背を舐めた。
短く。
それで終わり。
馬は、人間の帳簿を知らない。
でも、眠らない人間の匂いは分かるのかもしれない。
俺は母屋の灯りを見た。
見ているだけだ。
それしかできない。
その灯りが、少し揺れた気がした。
誰かが立ったのか。
紙を伏せたのか。
窓の向こうは見えない。
でも、春江が泣かないようにしていることだけは分かった。
昔からそうだ。
母さんは、泣く前に紙を動かす。
請求書を伏せる。
帳簿を閉じる。
電話の受話器を少しだけ真っ直ぐに直す。
そうやって、涙より先に手を動かす。
俺は柵に鼻を寄せた。
行けない。
だから、せめて明日だ。
明日、春江が馬房に来たら。
何も言えなくても、そばに寄る。
望だったころみたいに、余計なことは言わない。
今度は、黙っている。
それくらいなら、馬でもできる。
◇ 春江視点
朝、春江は馬房へ向かった。
帳簿は閉じてきた。
請求書も伏せたままにしてきた。
でも、数字は頭から消えない。
五百万円。
乾草代。
受験料。
入学金。
どれも、足音に混じってついてくる。
馬房の前で立ち止まると、クラウンメアが顔を上げた。
その横で、ノゾミノカゼもこちらを見た。
小さい。
まだ細い。
でも、昨日より少しだけ目がはっきりしている。
「おはよう」
春江は言った。
声は普通に出た。
出せた。
ノゾミノカゼは、ゆっくり近づいてきた。
急がない。
跳ねない。
媚びるようにも寄らない。
ただ、柵の近くまで来る。
春江が手を出す前に、ノゾミノカゼは顔を少し上げた。
額の白い流星が見える。
王冠みたいな模様。
クラウンメアと同じ白。
春江は、息を止めた。
望も、そうだった。
こういう時だけ、黙ってそばにいた。
励ますでもない。
慰めるでもない。
ただ、台所の入口に立つ。
事務所の壁に寄りかかる。
帳簿を取り上げる時だけはうるさいくせに、こちらが本当に黙ってほしい時には、妙に黙る。
「……望も」
春江は、そこで一度言葉を止めた。
ノゾミノカゼの目を見る。
馬だ。
この仔は馬だ。
分かっている。
それでも、言葉が出た。
「望も、こういう時だけ黙ってそばにいたわね」
言った瞬間、胸の奥が痛くなった。
ノゾミノカゼは動かなかった。
逃げない。
首を振らない。
ただ、そこにいる。
春江は手を伸ばした。
白い流星に触れる。
温かい。
短い毛が、指の腹に当たる。
仔馬の額だ。
望の額ではない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、指が離れなかった。
「ごめん」
言いそうになった。
望に。
ノゾミノカゼに。
鈴鹿に。
クラウンメアに。
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。
だから、春江は手を離した。
すぐに。
これ以上触れていたら、言ってしまう。
言ってしまえば、この仔に望を押しつけてしまう。
それだけは、してはいけない。
春江は一歩下がった。
「……ごはんじゃないわね。あなたはまだ、飲む方」
自分で言って、少しだけ笑った。
ノゾミノカゼが耳を動かす。
春江はクラウンメアを見た。
「クラウン、しっかり食べてね」
クラウンメアが鼻を鳴らした。
返事のように聞こえた。
春江は馬房札を見た。
ノゾミノカゼ。
鈴鹿の字。
少し右上がりの文字。
その札に、昨日より長く目を置いた。
「今日も、帳簿を見るわ」
春江は言った。
「嫌だけど、見る」
ノゾミノカゼは、何も言わない。
当たり前だ。
馬だから。
でも、その沈黙が、春江には少しだけありがたかった。
泣く前に計算する。
請求書を伏せる。
それでも朝になれば、また見る。
それが今の自分の仕事だ。
春江は馬房を離れた。
背中を向ける前に、もう一度だけノゾミノカゼを見る。
仔馬は、まだ柵の内側にいた。
何も言わずに。
ただ、こちらを見ていた。
その顔を見て、春江は今日初めて、まっすぐ息を吸えた。




