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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第15話 売れば入学金になる馬

 ◇ 客観視点


 岸部透は、その日の午後、もう一度来た。


 馬房へ向かう前に、事務所の机へ封筒を置く。


 春江は、すぐには開けなかった。


 宗一郎は椅子に座り、杖を膝の横に置いている。


 鈴鹿は机の端に立っていた。


 鞄の中には、折らずに持って帰った進路希望用紙が入っている。


「金額を出します」


 岸部が言った。


「今日、決めろという意味ではありません。ただ、判断材料がないまま悩むのは、そちらにも、この仔にもよくない」


 三浦は黙って岸部を見ていた。


 岸部は封筒から一枚の紙を出した。


 そこに書かれていた数字を見て、春江の指が止まる。


 五百万円。


 事務所の空気が、音もなく変わった。


 鈴鹿には、数字の大きさがすぐには飲み込めなかった。


 けれど、母の指が震えたことで分かった。


 これは、ただの数字ではない。


 乾草代。


 相馬先生への支払い。


 母馬の管理費。


 自分の受験料。


 入学金。


 そのいくつかに、手が届いてしまう金額だった。


 春江は、請求書の束を見る前に、鈴鹿の鞄を見てしまった。


 すぐに視線を戻した。


 でも、鈴鹿は見ていた。


「本来なら、今日の段階で出す額ではありません」


 岸部は言った。


「血統と母系込みの、先物の値段です。走ると思うから欲しい。ですが、歩きもまだ見ていない。母馬の回復も途中です。こちらにもリスクはあります」


 宗一郎が低く聞いた。


「今の段階で、その額か」


「ええ」


 岸部は馬房の方を見た。


「それでも、欲しい」


 悪人ではない。


 だから余計に、断りにくかった。


 買い叩きではない。


 夢物語でもない。


 紙の上に、現実として置かれた五百万円だった。


「今日、返事は要りません。ただ、他へ話を持っていく前に、連絡をください」


 鈴鹿は、鞄のひもを握った。


 昨日、初めて言った。


 行きたい。


 その言葉の横に、五百万円が置かれた。


 誰も、鈴鹿のために売るとは言っていない。


 でも、誰もが分かっていた。


 ノゾミノカゼを売れば、鈴鹿は進学に近づく。


「少し、考えさせてください」


 春江が言った。


「もちろんです」


 岸部は封筒を机に残した。


「馬房を、見ても?」


 三浦が短く答えた。


「外からだけです」


「分かっています」


 鈴鹿は、すぐには動けなかった。


 馬房へ行きたい。


 でも、今行けば、ノゾの顔を見た瞬間に何か言ってしまいそうだった。


 売らないで。


 それとも。


 私のせいで、ごめん。


 どちらも言いたくなかった。


 ◇ 望視点


 知らない男の気配がした。


 岸部だ。


 前に来た時より、事務所の空気が固い。


 紙の音。


 春江の息。


 父さんの杖を握る音。


 鈴鹿の鞄が、ぎゅっと鳴る音。


 俺は馬房の中で耳を立てた。


 言葉の全部は拾えない。


 でも、一つだけ、はっきり聞こえた。


 五百万円。


 人間だったころの俺なら、その数字が何を意味するか、すぐ分かった。


 乾草代が払える。


 相馬先生にも頭を下げずに済む。


 鈴鹿の受験料にもなる。


 入学金にも届くかもしれない。


 俺を売れば。


 俺は、風見牧場の馬ではなくなる。


 クラウンメアのそばから離れる。


 鈴鹿の袖の匂いも、父さんの杖の音も、春江が帳簿を伏せる音も、遠くなる。


 でも、鈴鹿は進学できるかもしれない。


 牧場も、少し息ができるかもしれない。


「坊や」


 クラウンメアが俺を見る。


「痛い?」


「痛い」


「どこ?」


「分からない」


「寝る?」


「まだ」


 母さんは、俺の首を舐めた。


 その舌が温かい。


 俺は母さんの腹へ鼻を寄せようとして、止まった。


 乳の匂いがする。


 生きるための匂いだ。


 でも、その瞬間、五百万円という数字が頭に残った。


 俺が飲む。


 俺が生きる。


 俺が残る。


 そのたびに、鈴鹿の紙から何かが消えるのではないか。


 そんな馬鹿な考えが、腹の奥に沈んだ。


「飲む?」


 母さんが言った。


「……まだ」


「まだ?」


「あとで」


 クラウンメアの耳が伏せられた。


「坊や、飲む」


「あとで」


「飲む」


 いつもより強い声だった。


 母さんには、五百万円は分からない。


 入学金も分からない。


 でも、仔が乳をためらっていることは分かる。


 俺は一歩下がった。


 その時、馬房の外で足音が止まった。


 鈴鹿だった。


 ◇ 鈴鹿視点


 ノゾミノカゼが、クラウンの腹から離れていた。


 鈴鹿は、それだけで嫌な予感がした。


「ノゾ」


 声をかける。


 ノゾはこっちを見る。


 いつもなら、クラウンの腹へ鼻を寄せる時間だ。


 なのに、立っている。


 細い脚で、妙に我慢するみたいに。


「飲まないの?」


 ノゾは動かない。


 クラウンメアが不満そうに鼻を鳴らした。


「……私のせいみたいじゃん」


 言った瞬間、喉が詰まった。


 五百万円。


 机に置かれた紙。


 鞄の中の進路希望用紙。


 全部が頭の中で勝手につながる。


「やめてよ」


 鈴鹿は柵に手を置いた。


「ノゾが飲まないと、クラウンが困るでしょ」


 ノゾは耳だけ動かした。


「私が行きたいって言ったから? お金がいるから? だから、いい子ぶってるの?」


 言葉が震えた。


「そういうの、嫌だ」


 ノゾミノカゼが少しだけ首を下げる。


 鈴鹿は鼻の奥が熱くなるのをこらえた。


「飲んでよ」


 声が小さくなった。


「私のせいみたいじゃん」


 ノゾはまだ動かなかった。


 クラウンメアが、仔の首を舐める。


 短く、強く。


 それで、やっとノゾが一歩動いた。


 クラウンの腹へ戻る。


 ためらうみたいに鼻を寄せる。


 そして、乳を飲み始めた。


 鈴鹿は息を吐いた。


 胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。


「……いい子ぶるの、下手」


 自分でも驚くくらい、弱い声だった。


 でも、少しだけ笑えた。


 ノゾミノカゼは飲みながら、耳だけこっちへ向けた。


 聞いている。


 たぶん、分かっている。


 そう思ってしまう自分が、少し怖い。


 でも、今日はそれでよかった。


 鈴鹿は鞄の上から、進路希望用紙を押さえた。


 ノゾの名前の横に、入学金という文字が勝手に並んでしまう。


 入学金。


 でも、いま乳を飲んでいる。


 兄さんが助けようとした命。


 うちの馬。


 どれか一つに、できなかった。


 ◇ 望視点


 乳は温かかった。


 飲めば、俺はここに残りたいと言っているみたいだった。


 飲まなければ、鈴鹿の進学を責めているみたいだった。


 どちらも違う。


 俺はただ、生きる。


 生きて、それから考える。


 母さんの腹に鼻を押しつける。


 鈴鹿が、柵の向こうで息を吐いた。


 売れば助かる。


 それは、たぶん本当だ。


 それでも、俺はまだここで飲んでいる。


 鈴鹿の紙も。


 春江の帳簿も。


 父さんの杖も。


 岸部が置いていった金の話も。


 何も、まだ消えていない。


 俺も、まだ消えていない。


 母さんの乳を飲みながら、俺は小さく息を吐いた。


 今日は、売られるために生きるんじゃない。


 残るためだけに生きるんでもない。


 明日、また選べるように。


 まず、飲む。


 それだけだった。

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