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ノゾミノカゼ -死んだ兄は、馬として家族のもとへ帰ってきた-  作者: ビッグサム


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第65話 買えなかった馬主

 ◇ 客観視点


 翌日の風見牧場に、黒い車が入ってきた。


 砂利を踏む音で、春江が事務所の窓を見る。


 机の端には、昨日届いた投資会社の資料がまだ伏せてあった。


 上には、湯呑みの丸い跡が残っている。


「岸部さんです」


 春江が言った。


 宗一郎は窓際の椅子から立たない。


 ただ、杖を手元へ寄せた。


 鈴鹿はノートを閉じる。


 昨日の夜、電話で聞いた名前。


 ノゾミノカゼではなく、別の当歳馬を見たい。


 その言葉が、まだ引っかかっていた。


 岸部透は車から降りると、まず厩舎へ深く頭を下げた。


 ノゾミノカゼにではない。


 風見牧場に対してだった。


「急なお願いで失礼しました」


 春江は慎重に会釈する。


「こちらこそ。ただ、今はノゾの右前もありますので、長い見学は……」


「分かっています」


 岸部はすぐに頷いた。


「今日は、ノゾミノカゼを見に来たわけではありません」


 宗一郎の杖が、床を一度だけ鳴らした。


 ◇ 鈴鹿視点


 放牧柵の向こうに、栗毛の当歳馬がいた。


 小さい。


 ノゾのように目を引く馬ではない。


 クラウンメアの仔でもない。


 母系に大きな重賞馬の名前はない。


 父の名も、新聞の見出しになる種牡馬ではなかった。


 風見牧場で生まれた、まだ誰にも名前を覚えられていない牡馬だった。


 ただ、歩かせると少し違った。


 左耳が、風に少し遅れて動く。


 右耳が先に向く。


 左耳があとからついてくる。


 その遅れた一瞬の間に、栗毛の仔は首を落とさない。


 小さくよろけても、背中が沈み切らない。


 膝はまだ甘い。


 でも、前へ出たあと、自分で戻る。


 鈴鹿はノートを開いた。


 栗毛。

 派手ではない。

 左耳遅い。

 背中、沈み切らない。


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 岸部は柵に触らなかった。


 手を伸ばさない。


 声もかけない。


 ただ、見ている。


 それが、少し意外だった。


「この子ですか」


 鈴鹿が聞くと、岸部は頷いた。


「はい」


「ノゾじゃなくて?」


「ノゾミノカゼは、もう私が値段をつけられる馬ではありません」


 その言い方には、悔しさがあった。


 でも、変な湿り方はしていなかった。


「ノゾミノカゼは買えませんでした。でも、風見牧場を見る目を間違えたとは思っていません」


 鈴鹿の指が、ノートの端を押さえた。


 ◇ 客観視点


 春江は黙っていた。


 宗一郎は岸部の横顔を見ている。


「今度は、足元を見るつもりか」


 低い声だった。


 岸部は笑わなかった。


 以前なら、ここで条件の話をしたかもしれない。


 だが、今日は名刺をすぐには出さなかった。


「足元を見たから、あの馬を買えなかったんです」


 風が吹いた。


 栗毛の当歳馬の左耳が、また少し遅れて動いた。


「風見さんが苦しいことは分かっていました。だから、安く買えると思った。血統と事情を両方見て、こちらに有利な条件を出せると考えた」


 春江の手が、バインダーの端を握る。


 岸部は続けた。


「でも、あの時のノゾミノカゼは、もう家族を見ていました」


 宗一郎の目が細くなる。


「馬が家族を?」


「少なくとも、私にはそう見えました」


 岸部は柵の向こうを見た。


「値段だけで連れていける馬ではなかった。だから買えなかった」


 沈黙が落ちる。


 宗一郎は杖の先を土へ押しつけた。


「それで、今度はこの仔か」


「はい」


「また買う話か」


 岸部は少し間を置いた。


「買う話だけではありません」


 ◇ 望視点


 俺は厩舎横の小さな放牧地にいた。


 走るためではない。


 右前の様子を見るための短い時間だ。


 三浦さんが、柵の横で俺の歩き出しを見ている。


 土は柔らかい。


 けれど、深く踏まない。


 右前を浅く置く。


 奥の重さは、まだある。


 柵の向こうに、岸部がいる。


 あの男だ。


 昔、俺を買おうとした男。


 金の匂いを隠さない男。


 でも、馬を見る目まで曇らせる男ではなかった。


 岸部の視線は、俺ではなく栗毛の仔へ向いている。


 クラウンメアの血ではない。


 俺の弟でもない。


 でも、風見牧場の馬だ。


 栗毛の仔が一歩前へ出る。


 膝が少し揺れる。


 首は残る。


 背中が沈み切らない。


 いい。


 派手ではない。


 すごいとも、まだ言えない。


 でも、いい。


 岸部が何かを言う。


 全部は聞こえない。


 ただ、宗一郎の杖の音がした。


 鈴鹿のペンが止まる音もした。


 俺は鼻を鳴らす。


 拒むだけではない。


 見る。


 この人間が、風見牧場に何を持ってくるのか。


 ◇ 鈴鹿視点


 岸部は古い名刺を一枚出した。


 まだノゾが売却候補だった頃に見た名刺と、肩書は少し変わっていた。


 でも、名前は同じだった。


 岸部透。


 鈴鹿はその名前を見て、昔の机を思い出す。


 血統書。


 請求書。


 入学金の紙。


 岸部の名刺。


 あの時は、ノゾが売られるかもしれなかった。


 今は違う。


 でも、胸の奥が少し硬くなる。


「次は、値切りに来たんじゃありません」


 岸部は言った。


「育てる話をしに来ました」


 春江が顔を上げる。


「育てる?」


「はい。今すぐ買い切るより、この牧場でどこまで見せられるかを一緒に考えたい。必要なら、育成費の一部をこちらで持つ形もあります。ただし、所有や売却の形は急ぎません」


 宗一郎は黙っている。


 春江の目は、もう金額だけを見ていなかった。


 条件。


 権利。


 育成費。


 売却時期。


 昨日、鈴鹿がノートに書いた言葉が戻ってくる。


 知らないままじゃ、守れない。


「契約書、見せてもらえますか」


 鈴鹿が言った。


 春江が少し驚いた顔をする。


 宗一郎もこちらを見た。


 鈴鹿はノートを持ち直す。


「今すぐ決めるって意味じゃないです。ちゃんと読んでから、考えたいです」


 岸部は初めて、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「もちろんです」


 栗毛の当歳馬が、柵の向こうでもう一歩前へ出る。


 左耳が、遅れて風を拾った。


 ノゾミノカゼが、その方へ耳を向けている。


 鈴鹿はノートに一行だけ書いた。


 買えなかった馬主。

 今度は、育てる話。


 ペン先を止める。


 その下に、もう一行足した。


 急がない。

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