第二話:縋(すが)る指先
■ ビジュアルリンク一覧
【00】アムネシア外観
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【01】いおりとゆめ
https://www.pixiv.net/artworks/143622038
【02】いおりとゆめ(幼少期)
https://www.pixiv.net/artworks/143622191
【03】いおり
https://www.pixiv.net/artworks/143622530
【04】ゆめ
https://www.pixiv.net/artworks/143622446
【05】ユウリ
https://www.pixiv.net/artworks/143622588
【06】セシリア
https://www.pixiv.net/artworks/143622964
【07】ステラ
https://www.pixiv.net/artworks/143623298
【08】リナ
https://www.pixiv.net/artworks/143623436
【09】ラヴァ
https://www.pixiv.net/artworks/143623526
【10】すず
https://www.pixiv.net/artworks/143623581
【11】もか
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【12】オールキャスト
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第一章:調整室の審判
白磁の調整室「コキュートス」は、その名の通り、一切の体温を拒絶する氷の監獄だった。
天井に埋め込まれた無影灯が、影の存在すら許さない暴力的なまでの白光を放ち、検診台に横たわるいおりの輪郭を鋭利に削り出している。背中に伝わる金属板の感触は、結露した水分が皮膚を吸い付けるような粘り気のある冷たさを帯びていた。
「——心拍数、上昇。共鳴係数、基準値を三%超過。……誤差の範囲ですね」
頭上に設置されたスピーカーから、セシリアの声が降ってくる。それは鼓膜を震わせる「音」というよりも、脳組織に直接撃ち込まれる冷徹な「命令」に近かった。
いおりの頭部を覆うのは、蜘蛛の脚を思わせる無数の銀色電極だ。それがこめかみの皮膚を微かに食い破り、脳波という名の「魂の波形」を強制的に読み取っていく。
視界の端。いおりの細い右腕から伸びる半透明のチューブには、どろりとした、鉛のような光沢を持つ「銀色の液体」が流れていた。
結晶病——いおりの体内で暴走し、彼女を内側から硝子へと変えようとする死の毒が、いま、チューブを伝って隣の検診台へと移送されていく。
「……っ……あああ……ッ!!」
隣に座るゆめの小さな身体が、落雷に打たれたように大きく跳ねた。
チューブの先、ゆめの背中に打ち込まれたコネクタから、いおりの「毒」が逆流する泥のように彼女の回路へ流れ込んでいく。
ゆめの透き通った銀髪が、静電気を帯びたかのようにパキパキと音を立てて逆立ち、その一本一本が鋭い針のように変質して床を叩いた。
「ゆめ……っ、ゆめ……!」
いおりは、自身の四肢が自由を奪われていることを呪った。
ゆめの喉から漏れるのは、もはや悲鳴ではない。肺胞の奥まで結晶化が進み、呼吸のたびに胸の内で細かな硝子が擦れ合うような、ひどく乾いた金属音だ。
それでも、ゆめは決して共鳴を断ち切ろうとはしない。
彼女の細い指先がいおりの手を握りしめる。その握力は、骨が軋むほどに強く、そして震えていた。
「いおり……だいじょ、ぶ。……あったか、い……よ……?」
ゆめが、噛み締めた唇を血に染めながら、無理やり微笑みを作った。
彼女の瞳——かつてのチワワの純粋な輝きを宿した瞳の奥で、銀色の幾何学模様が、呼吸を忘れるほどの速さで増殖していく。
いおりの苦痛を吸い上げるたびに、ゆめの「心」は削られ、その物理的な身体は脆い結晶の塊へと近づいていく。
「続けなさい」
セシリアの指先が、空中に浮かぶホログラムのパネルを無慈悲にスライドさせた。
「調整」のレベルが最終段階へと引き上げられる。
キィィィィィ——。
高周波の警告音が鼓膜を焼き、いおりの視界が真っ白な火花に飲み込まれた。
(……ああ。また、奪われていく……)
それは、肉体を裂かれる痛みを超えた、実存の剥離だった。
記憶。感情。自分が「自分」であるための拠り所。
昨日、ふとした瞬間に思い出した、春の風の匂い。
ユウリと視線を交わした時に感じた、言葉にできない連帯感。
それらが、回路の深淵へと吸い込まれ、高純度の戦闘エネルギーへと精製されていく。
「いおり、あなたは次世代の基幹ユニット。個の感情など、出力を乱すノイズに過ぎません。……ゆめ、あなたも分かっているはずですね。その少女の輝きを守るために、あなたは『浄化槽』として誂えられたのだと。……不純物を、余さず喰らいなさい」
セシリアの軍服が擦れる衣擦れの音さえも、この部屋では死神の鎌の音に聞こえた。
いおりの意識が、極限の負荷に耐えかねて溶解を始める。
痛みと忘却の激流の中で、いおりは必死に、ゆめの指先の感触を求めた。
その時だった。
白磁の壁が歪み、脳裏に強制的な「回路」が奔る。
焼けるような電流の先に現れたのは、無機質な調整室ではない。
かつて——いおりが、ただの「一人の子供」として笑うことが許されていた、遥かな過去の残像。
黄金色の陽光が差し込む、小さなリビングの風景だった。
第二章:誕生の光と影
「調整」の激しいノイズが遠のき、いおりの意識は、琥珀色の光がたゆたう記憶の深淵へと、深海に沈む石のように静かに降下していった。
そこには、白磁の壁も、肉体を焼く電撃も、無機質なオゾンの匂いもない。
いおりが最初に触れた世界は、古い木製家具が放つ微かな蜜蝋の香りと、窓辺で春の陽光に温められたレースのカーテンが運ぶ、穏やかな陽だまりの匂いに満ちていた。
(……ああ。そうだ。ここは、私が『いおり』として生まれた場所)
記憶の中の視界は、まだおぼろげな色彩の混濁に過ぎない。
乳児だったいおりが、柔らかな日差しが落ちるふかふかの絨毯の上で、意味もなく手足をばたつかせている。その頬に、驚くほど柔らかく、そして温かな「何か」が触れた。
銀茶色の、絹糸よりも細く滑らかな毛並み。
それが、ゆめだった。
「クゥ……」
喉の奥を震わせる微かな振動が、いおりの未熟な鼓動と共鳴する。
ゆめがいおりの隣に座ると、わずかに弾む絨毯の感触が伝わってきた。ゆめはいおりがこの家にやってくる四年前から、このリビングの主だった。彼女にとって、後から現れた赤ん坊のいおりは、守るべき「群れの一員」であり、同時に自分の全存在を懸けて愛でるべき「小さな宝物」だった。
ゆめはいおりの傍らに静かに身を横たえると、その小さな掌に、濡れた鼻先をそっと押し当てた。
冷たくて、けれどどこか安心する湿り気。
いおりが反射的にその銀茶色の、縁が少しだけ焦げたような色の耳を掴んでしまっても、ゆめは決して怒らなかった。ただ、慈しむように、琥珀色の瞳を細めるだけ。
ゆめはいおりの指先を、丁寧に、一箇所ずつ、温かな舌で舐めとっていく。
それは、言葉を持たない彼女なりの「歓迎」の儀式であり、「あなたがこの家で一番大切な存在だ」と告げる宣言でもあった。
「ゆめは本当にいいお姉さんね。いっちゃんのこと、よろしくね」
頭上から降ってくる、母の柔らかな声。
その声に呼応するように、ゆめは誇らしげに小さな胸を張り、ピンと立った耳を細かく動かして、赤ん坊の寝顔を見守った。
いおりが眠れば、ゆめはその足元で丸くなり、外部のわずかな物音一つ逃さぬよう、片目だけを薄く開けて番をした。
いおりが泣き出せば、誰よりも早く駆け寄り、その小さな身体を自分の体温で包み込んだ。
この時期のいおりにとって、世界とは「母の腕」と「ゆめの背中」の二つで構成されていた。
一切の代償を求めない、純粋な愛の重み。
ゆめの身体から漂う、日向ぼっこの後のような、香ばしくて甘い匂い。
その温もりこそが、いおりの魂の根底に深く、深く根付いた「生の肯定」だった。
自分が愛されていること。世界が、自分を拒絶していないこと。
その確信の源泉は、すべてこの小さな、銀茶色の生き物から与えられたものだった。
(……行かないで。この光を、奪わないで……)
現実の調整室で、いおりの瞳から一筋の涙が、こめかみの電極を濡らして溢れ出した。
琥珀色のリビングが、冷酷な白光に侵食されていく。
幸せであればあるほど、その記憶は「調整」の炎に投げ込まれる際に、より激しいエネルギーを放ち、そして灰へと変わる。
いおりが「人間」であった最初の証明が、いま、回路の奥へと吸い込まれて消えようとしていた。
第三章:黄金の季節
意識の沈降は止まらない。
電極から流れる強制的な走査が、いおりの脳のさらに深い層、活発に動き回っていた幼少期のアーカイブを抉り出した。
そこは、白磁の壁を透過した、どこまでも高い蒼穹の下。
初夏の陽光が、庭の雑草の青臭い匂いと土の香りをむせ返るほどに蒸し上げている。
「ゆめ、待って! 待ってよぉ!」
いおりが幼い、おぼつかない足取りで芝生を駆けると、ゆめはわざと捕まるかのような、けれど決して捕まらない絶妙な距離を保ちながら、軽やかに先を走った。
ゆめは、いおりの「お姉さん」だった。
人間と犬という種族の違いなど、当時のいおりには関係なかった。ゆめが立ち止まればいおりも止まり、ゆめが何かを見上げれば、いおりも同じ空を仰いだ。
ゆめはいおりに、世界の美しさを教えてくれた。
どの草花が踏んでも柔らかいか。どの木陰が一番涼しく、心地よい風が吹き抜けるか。
ゆめが鼻先で示した生い茂るクローバーの陰には、宝石のような露が光り、彼女が耳を澄ませた先には、季節を告げる鳥の声があった。
(……ゆめ。あなたは、いつだって私の一歩先を歩いていたわね)
ある日の午後。
庭の隅にある小さな段差で、いおりが足をもつれさせ、派手に転んだことがあった。
ざらついたコンクリートに膝を打ち付け、真っ赤な血が滲む。
いおりは呼吸を止め、顔を真っ赤に歪め、今にも大声で泣き出そうとした——その瞬間。
「ワン!」
ゆめが鋭く、けれど勇気づけるように短く吠えた。
彼女は泣き出しそうないおりの元へ駆け寄ると、心配そうに首を傾げ、いおりの擦りむいた膝に寄り添った。
そして、慈しみを持って、そこをゆっくりと舐めた。
ざらりとした、温かな舌の感触。
それは単なる唾液の湿り気ではない。
「これくらい、大丈夫だよ」「私がついているから、立ってごらん」
言葉にならない強固な意志が、ゆめの琥珀色の瞳から、いおりの心へと直接流れ込んできた。
ゆめが舐めてくれた場所は、不思議と熱が引き、痛みが引いていった。
いおりは溢れそうだった涙を手の甲で拭い、ゆめの柔らかな首筋をぎゅっと抱きしめた。
「痛いの、飛んでいけ」
それは、いおりが人生で最初に覚えた、魔法のような「おまじない」だった。
夕暮れ時。
西日に照らされた庭の縁側に並んで座り、沈みゆく大きな太陽を眺める時間は、二人だけの聖域だった。
ゆめはいおりの小さな肩に顎を乗せ、満足そうに低く鼻を鳴らす。
いおりはその小さな背中、まだ若く、しなやかな筋肉の躍動を感じる銀茶色の毛並みを撫でながら、自分たちの時間が、この黄金色の光の中に永遠に閉じ込められていると信じて疑わなかった。
(……温かい。この背中の温もりを、私は一生忘れないって誓ったのに)
現実の調整室で、いおりの脳波が激しく乱れた。
黄金色の庭が、ノイズ混じりの灰色の砂嵐に飲まれていく。
この「幸福」さえも、セシリアにとっては単なる数値。ゆめの献身を正当化するための、消費されるべきエネルギーに過ぎない。
いおりが必死に指先で縋ろうとした「お姉さん」の温もりが、回路の奥へと冷酷に吸い込まれ、抹消されていく。
第四章:忍び寄る黄昏
黄金色の光に満ちていた世界に、長く、冷たい影が忍び寄り始めた。
「調整」の走査線がいおりの意識をさらに奥へと引きずり込み、時間の歯車を数年分、一気に進める。そこは、かつての眩い庭ではなく、カーテンを閉め切った薄暗いリビングの記憶だった。
(……やめて。見たくない。その先は、暗いだけだから……)
いおりの拒絶を無視して、記憶の再生は無慈悲に続く。
小学校のランドセルを背負ったいおりが帰宅したとき、玄関まで一番に駆け寄ってくるはずの銀茶色の影は、そこにはなかった。
「ゆめ……? おいで、ゆめ」
呼びかける声に、リビングの隅にあるお気に入りのクッションから、力ない反応が返る。
「クゥ……」
かつての凛とした響きはなく、枯れ葉が擦れるような、微かで掠れた声。
ゆめは、頭を上げるのさえ億劫そうに、濁りの混じり始めた琥珀色の瞳でいおりを見上げた。
ゆめが年老いていく。
その事実は、鋭利な刃物のようにいおりの心を少しずつ削り取っていった。
あんなに大好きだったドッグフードも、今は器の底で冷たく固まっている。ゆめは時折、申し訳なさそうに一口だけ舐めるが、すぐに疲れたように顎を伏せてしまう。
いおりがかつて、ゆめの背中にしがみついて感じたしなやかな筋肉の躍動は消え、指先に触れるのは、浮き出た背骨の節々と、紙のように薄くなった皮膚の感触だけ。
一番残酷だったのは、二階のいおりの部屋へと続く、たった十数段の階段だった。
「ほら、ゆめ。頑張って。一緒に行こう?」
階段の麓で、ゆめは前脚を一段目にかけたまま、動けずにいた。
かつては弾丸のように駆け上がっていたその場所が、今の彼女にとっては断崖絶壁にも等しい絶望的な距離となっていた。震える後ろ脚。何度も踏ん張ろうとしては、爪が空しくフローリングを掻き、カチカチと乾いた音を立てる。
いおりは、その震える小さな身体を抱き上げた。
驚くほど、軽かった。
中身が空っぽになってしまったのではないかと思うほどに、命の重みが失われていた。
「大丈夫だよ、ゆめ。私が、ずっと抱っこしてあげるから」
いおりはゆめの耳元で囁いたが、ゆめは悲しそうに目を細め、いおりの制服の袖を弱々しく舐めた。
お姉さんとして、守護者として、いおりを守りたかった彼女にとって、守られる側になることは、死よりも辛い屈辱だったのかもしれない。
夜、いおりのベッドの横で、ゆめの呼吸は日ごとに浅く、不規則なリズムを刻むようになった。
シュッ、ハァ……。シュッ、ハァ……。
肺が空気を求めるたびに、小さな胸が大きく波打ち、骨が軋む音が聞こえる。
いおりは暗闇の中で、その呼吸音に耳を澄ませながら、一睡もできずにいた。
この音が止まってしまったら。
明日、目が覚めたとき、隣に冷たくなった「何か」が横たわっていたら。
(……怖い。ゆめ、置いていかないで。私を、一人にしないで)
いおりはベッドから手を伸ばし、ゆめの背中をそっと撫でた。
毛並みはパサつき、かつての輝きを失っている。けれど、そこにある僅かな温もりだけが、いおりをこの世界に繋ぎ止める最後の錨だった。
現実の調整室で、いおりの心拍数が跳ね上がった。
「浄化槽」としてのゆめの背中に繋がれたチューブが、いおりの激しい動揺を検知して不気味に脈動する。
記憶の中の黄昏が、現在の絶望へと溶け合っていく。
いおりがもっとも恐れていた、あの「冬の夜」の冷気が、すぐそこまで迫っていた。
第五章:最期の夜
「調整」の走査線が、いおりの脳の最下層、凍結された「あの冬の夜」を暴き出した。
記憶の中の空気は、吸い込むだけで肺を刺すように冷たい。
街中の喧騒が雪に吸い込まれたような、ひどく、ひどく静かな夜だった。
リビングの隅、使い古された毛布の上で横たわるゆめの周囲だけが、時間の流れから見放されたように淀んでいた。
「……ゆめ? ゆめ、お願い。こっちを見て」
いおりは床に膝をつき、震える手でゆめの小さな頭を支えた。
かつては絹のようだった銀茶色の毛並みは、今は潤いを失い、いおりの指先にカサカサと乾いた音を立てて擦れる。
琥珀色の瞳は、もう、いおりの姿を捉えてはいなかった。ただ、虚空を見つめ、何かに怯えるように微かに震えている。
ゆめの呼吸は、もう、生命の営みとは呼べないものに変質していた。
ひゅぅ……、ひゅぅ……。
喉の奥で小石が転がるような、掠れた湿った音。
一度吸い込むたびに、長い沈黙が訪れる。その数秒の空白が、いおりにとっては永遠の断崖絶壁に思えた。
(……止まらないで。お願い、まだ、その音を聞かせて……!)
いおりの祈りを嘲笑うように、ゆめの身体から、目に見えない砂時計が最後の一粒を落とした。
「クゥ……」
ゆめが、最期の力を振り絞るように鼻を鳴らした。
彼女は震える頭をゆっくりと動かし、いおりの掌を探し当てた。
そして、かつて庭で転んだいおりを励ました時と同じように、いおりの手を一度だけ、弱々しく舐めた。
ざらりとした、けれど驚くほど冷たい舌の感触。
それは、ゆめが一生をかけて捧げてきた、最後にして最高のおまじない。
「痛いの、飛んでいけ」
「私は大丈夫だから、もう泣かないで」
自分自身が消えゆく瞬間にさえ、彼女はいおりの心の傷を癒そうとしていた。
その直後だった。
ゆめの小さな胸が、大きく、一度だけ波打った。
そして、肺に残ったすべての空気が、溜息のように吐き出される。
沈黙。
いおりの鼓動だけが、耳元でうるさいほどに鳴り響く。
待っても、待っても、次の吸気は訪れなかった。
トクン、というゆめの心臓の刻みが止まり、張り詰めていた命の糸が、ぷつりと切れる。
「あ……」
いおりは、ゆめの身体を抱き上げた。
そこにはもう、自分を温めてくれた「お姉さん」はいなかった。
指先に伝わるのは、急速に奪われていく体温と、急激に重みを増していく、ただの肉の塊。
魂が抜けた瞬間の「死」の重さが、いおりの両腕に、そして心に、耐え難い圧力をかけてのしかかる。
「嫌だよ……。ゆめ、起きて。冗談だよね……?」
いおりはゆめの耳元で叫んだが、返ってくるのは窓を叩く冷たい風の音だけ。
いおりはゆめを壊れ物を扱うように抱きしめ、彼女の冷え切った身体を自分の体温で温めようと必死に擦った。
けれど、温まることはなかった。
命という灯火が消えた場所には、ただ、絶対的な虚無だけが広がっていた。
「あああああ……あああああああッ!!」
暗いリビングに、いおりの慟哭が響き渡る。
その夜、いおりの心には巨大な、そして漆黒の穴が空いた。
愛されることの喜び、守られることの安心。
それらすべてを構成していた核が、冷たい骸となって横たわっている。
(……思い出せない。ゆめの、あの時の……最後の温もりが、もう消えていく……)
現実の調整室で、いおりの脳波が臨界点を超えた。
モニターには異常を告げる赤い文字が乱舞し、いおりの瞳からは枯れることのない涙が溢れ続ける。
この「最期の夜」の絶望。
それが、今のいおりを「適合者」として繋ぎ止めるための、あまりにも残酷で、あまりにも強力な燃料だった。
第六章:再誕の呪い
「……い、おり。聞こえますか。……戻りなさい」
セシリアの鋭利な声が、凍結した冬の夜の記憶を粉砕した。
強制的な覚醒。脳内に突き刺さっていた意識の針が引き抜かれるような衝撃とともに、いおりの視界に、現実の「コキュートス」の白光が舞い戻る。
視界が滲んでいる。頬を伝う涙は、記憶の中の雪よりも冷たく感じられた。
だが、ぼやけた視界の先にいたのは、冷徹な監視者であるセシリアだけではなかった。
「……あ、……ぁ……っ」
いおりの細い手を、小さな、けれど確かな温もりを持った掌が握りしめていた。
そこにあるのは、銀茶色の毛並みではない。
透き通るような白磁の肌と、月光を糸にして織り上げたような銀髪。自分と、そしてかつての「彼女」と同じ琥珀色の瞳を持った、一人の少女だった。
「いおり……? おかえりなさい、いおり!」
少女が、潤んだ瞳を輝かせて、いおりの胸に顔を埋めた。
その仕草。その甘えるように鼻を鳴らす、微かな吐息。
それは、かつて庭でいおりの帰りを待ちわびていた「ゆめ」そのものの癖だった。
犬であった頃の鳴き声は、いま、震える人間の言葉となって、いおりの鼓動を直接揺さぶる。
「ゆめ……? 本当に、ゆめなの……?」
いおりは震える指先で、少女の柔らかな頬に触れた。
温かい。
あの日、腕の中で冷え切っていったはずの命が、いま、自分の目の前で呼吸をしている。
人間としての姿を得た彼女は、いおりが夢にまで見た「等身大の家族」そのものだった。
溢れ出す安堵。止まらない涙。いおりは、ゆめを壊れんばかりに抱きしめた。
「ええ。あなたの願いを、私が形にしてあげたのです」
傍らに立つセシリアが、手元の端末に視線を落としたまま、感情の欠片もない声で告げた。
その言葉の裏側に潜む「毒」に、いおりはまだ気づいていなかった。
「……あなたの願いを、形にしてあげただけよ、いおり。彼女はあなたの負荷を引き受けるよう“設計”されている。それ以上は、今は知らなくていいわ。いずれ、あなた自身が理解する時が来る」
いおりの指先が、ぴくりと凍りついた。
抱きしめているこの少女。自分と同じように体温を持ち、自分を愛おしそうに見つめるこの「ゆめ」は、いおりが生き延びるために、自分に代わって「壊れる」ために造られた存在。
「いいの、いおり。私は、いおりの隣にいられるだけで……とっても幸せなんだよ」
ゆめはそう言って微笑んだ。
その笑顔は、あの日——腕の中で冷たくなっていった“彼女”と同じだった。
いおりの胸の奥で、何かがひび割れる。嬉しいはずなのに、痛い。どうして、こんなに痛いの。
ゆめの背中に浮かぶ黒い脈を見た瞬間、いおりは悟ってしまった。
——これは、私が願ったから。
私が「失いたくない」と願ったから、ゆめは再びこの世界に引き戻されて、また私のために壊れていく。
いおりの指先が震えた。
抱きしめているのに、抱きしめられているのに、
その温もりが、まるで“罪の証拠”のように思えた。
ゆめは、いおりの強張った腕に自分の手を重ね、慈しむように微笑んだ。
その無垢な、あまりにも献身的な笑顔。
それは、かつて「お姉さん」としていおりを守り抜いた、あの誇らしげな琥珀色の瞳のままだった。
(……ああ。私は、なんてことを……)
いおりの胸に、底知れない罪悪感が泥のように溜まっていく。
失いたくないという願いが、愛する者を「兵器の部品」へと堕とし、永劫の苦痛へと引きずり戻してしまった。
再会の歓喜は、その瞬間、逃れられない呪いへと変貌した。
「……調整、終了。一時間の休息の後、次の演習に移ります」
セシリアの非情な宣告とともに、検診台のロックが解除された。
いおりは、ゆめの細い身体を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
ゆめの背中に繋がれたチューブの接続部が、いま吸い取ったばかりの銀色の毒に蝕まれ、パキパキと不吉な音を立てていた。
第七章:縋る指先
深夜二時。
「調整」という名の拷問を終え、二人が戻った居住区の自室は、深海のような静寂に包まれていた。
最低限まで照度を落とされた壁面のライトが、白磁の壁を青白い、死のような色に染め上げている。いおりは、狭いシングルベッドに腰を下ろし、隣に座るゆめの細い背中を見つめていた。
「いおり……? どこか、痛むの……?」
ゆめが、心配そうに首を傾げて覗き込んでくる。
その仕草は、かつて庭で転んだいおりを案じていた「あの頃」と、寸分違わない。
ゆめは、いおりの強張った掌を両手で包み込むと、自分の頬にそっと寄せた。人工生命として受肉した彼女の肌は、驚くほど滑らかで、けれど時折、内側に埋め込まれた回路が微かな熱を持って拍動しているのが伝わってくる。
「……ううん。大丈夫よ、ゆめ。ただ、少しだけ……考え事をしていたの」
いおりは、ゆめの銀髪を優しく撫でた。
指先に触れる髪の感触。それは、かつての銀茶色の毛並みのような「命の弾力」ではなく、どこか硝子細工に近い、危うい繊細さを帯びている。
ゆめは、いおりの膝の上に頭を乗せると、満足そうに目を閉じた。
そして、無意識のうちに、いおりの手をそっと甘噛みするような仕草を見せる。それは、犬であった頃、甘える時に必ず見せていた彼女の癖だった。
(……ああ。やっぱり、ゆめなのね。あなたは、今も私の『お姉さん』でいようとしてくれている)
その無垢な献身が、いおりの胸を鋭く抉る。
ゆめの腕の付け根。皮膚の下には、いおりから吸い取った「結晶の毒」が、どす黒い銀色の脈となって浮き上がっていた。
自分が「自分」であり続けるために、この少女の命を削り、透明な結晶へと変えていく。
その罪悪感から逃れるように、いおりはゆめの小さな身体を、壊れ物を扱うように抱きしめた。
「ゆめ……ごめんなさい。私、あなたを……」
謝罪の言葉は、ゆめの温かな指先に遮られた。
「いおり。私は、いおりの隣にいられるのが、世界で一番幸せなんだよ? ……だから、悲しい顔をしないで」
ゆめは、かつて「痛いの、飛んでいけ」と念じたあの日と同じ、誇らしげな微笑みを浮かべた。
二人の絆は、もはや「家族」という言葉では括れない。
互いの命を燃料にし、記憶を燃やし尽くしながら、かろうじて繋ぎ止められている、細く、熱い、銀色の糸。
その——静謐な共依存の時間を、唐突な「暴力」が引き裂いた。
——ドクン。
心臓の鼓動ではない。
アムネシアの重厚な地盤を伝い、足元から突き上げてくるような、巨大な「歪み」の衝撃。
「……っ!?」
ゆめが弾かれたように跳ね起き、いおりの前に立ち塞がった。
その瞳は、人工生命体としての穏やかな輝きを失い、かつての「守護者」としての鋭い野生を取り戻している。
「いおり、下がって……! 何か、くる……!」
空気が変質していく。
施設を支配していた無機質な冷気が、一瞬にして、粘り気のある、焦げつくような「熱」へと書き換えられた。
それは太陽の暖かさなどではない。すべてをドロドロに溶かし、焼き尽くす、破壊的なエネルギーの奔流。
「熱い……。ねえ、ゆめ、息が……っ」
いおりの視界が、赤黒いノイズで埋め尽くされる。
廊下の突き当たり。強化ガラスで何重にも仕切られた「重隔離区画」のハッチが、内側から凄まじい力で叩かれ、外側へと向かって飴細工のように歪んでいくのが見えた。
——ギ、ギギギッ……。
金属が悲鳴を上げ、溶解していく音に混じり、施設のスピーカーから漏れ出したのは、警報音ではなかった。
それは、地獄の底で肺を焼かれた者が、無理やり言葉を絞り出すような、ひどく掠れた、呪詛のような吐息。
『……あ……つ……い……』
意味を成さない、剥き出しの苦痛の叫び。
同時に、ハッチの隙間から、銀色の霧を真っ赤に染め上げる**「どろりとした赤黒い光」**が溢れ出した。
いおりの「銀色の回路」が、かつてない異常な共鳴を引き起こし、脳内に直接、激しい火花が散る。
そこにいたのは、自分たちと同じ「少女」の形をした、地獄そのものだった。
(……あれは、何……? 私たちの……仲間なの……?)
問いかける暇もなく、施設の非常用隔壁が轟音とともに閉鎖され、赤い光は闇の中に遮断された。
後に残ったのは、焦げた小麦の匂いをさらに苛烈にしたような、鼻を突く焼灼の残香だけ。
ゆめはいおりを抱きしめたまま、その腕を激しく震わせていた。
彼女が守ろうとしている「家族」の世界のすぐ隣に、理解も拒絶も許さない「真の深淵」が、確かに口を開けて待っている。
少女たちが縋った指先は、今、目に見えない巨大な熱に、ひどく脆く震えていた。
第二話:縋る指先--完
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■イメージソング収録
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