第三話:リナという沈黙
■ ビジュアルリンク一覧
【00】アムネシア外観
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【01】いおりとゆめ
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【02】いおりとゆめ(幼少期)
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【03】いおり
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【04】ゆめ
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【05】ユウリ
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【06】セシリア
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【07】ステラ
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【08】リナ
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【09】ラヴァ
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【10】すず
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【11】もか
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【12】オールキャスト
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第一章:焦燥の廊下
アムネシアの朝は、夜よりも残酷な「白」に支配されていた。
居住区の壁面に埋め込まれたバイオリズム調整用のライトが、起床時刻とともに無機質な光を放ち、いおりの網膜を容赦なく灼く。
いおりは、シーツの冷たさに指先を食い込ませながら、ゆっくりと上体を起こした。頭蓋の奥で、古い換気扇が回っているような、不快な耳鳴りが止まらない。
(……昨日。昨日の夜、私は何をしていた……?)
記憶の断片を繋ぎ合わせようとするたび、脳内のアーカイブが砂嵐のように乱れる。
昨夜、あの「熱」を感じた後のことだ。
ゆめと部屋に戻り、何かを話したはずだった。ゆめが私の手を握り、私は彼女の銀髪を撫でた。そこまでは覚えている。けれど、その後に交わしたはずの言葉が、まるで水に溶けた絵具のように輪郭を失い、消えている。
「いおり……? おはよう。……顔色が、あんまり良くないよ」
隣のベッドから、ゆめが心配そうに顔を覗かせてきた。
受肉した彼女の瞳は、朝の光を受けて透き通るような琥珀色に輝いている。だが、その視線の鋭さは、いおりが記憶を「削り取られた」ことを見透かしているかのようだった。
「……大丈夫よ、ゆめ。ただ、少し寝ぼけているだけ。……行きましょう。セシリア様が待っているわ」
いおりは、自分の声が微かに震えているのを隠すように、足早に部屋を出た。
廊下に出ると、アムネシア特有の、防腐剤とオゾンを混ぜたような、鼻を突く「無菌の匂い」が肺を満たす。
通常、この施設の廊下は、一切の不純物を許さない完璧な静寂に守られている。だが今朝の空気は、どこか違っていた。
壁の向こう側で、巨大な心臓が脈動しているような、微かな振動。
そして、昨日感じたあの「焦げた小麦」の匂いの残香が、冷たい空気の底に澱んでいる。
(熱い。……まだ、あの子の熱が残っている)
いおりの右腕に埋め込まれた銀色の回路が、不吉な予兆を察知して、皮膚の内側から熱を帯び始める。
「調整」によって強引に引き出された感覚が、いおりの視界を歪ませ、現実の風景にノイズを混ぜる。
重隔離区画へと続く「Dブロック」の長い回廊。
そこは、普段なら立ち入りが厳重に制限されている区域だ。だが、昨夜の異常事態の影響か、あるいはセシリアの意図的な差配か。隔壁のロックが解除され、その先にある「深淵」への道が開かれていた。
「いおり、待って。……あっち、誰かいる」
ゆめが、いおりの制服の袖を強く引いた。
ゆめの嗅覚が、未知の適合者の気配を捉えている。
ゆめはいおりの前に出るようにして、一歩、また一歩と、薄暗い廊下の先を睨みつけた。
廊下の突き当たり。昨夜、ラヴァの熱が溢れ出し、物理的に歪んでしまったハッチの前に、その少女は立っていた。
膝まで届く長い黒髪。
アムネシアの標準支給品であるはずの白いワンピースには、奇妙なほど細密な、銀糸による幾何学模様が施されている。
彼女はいおりたちの接近に気づいているはずなのに、一度もこちらを振り返ろうとはしなかった。
ただ、その両手に持った「針」と「糸」を、鋼鉄の壁へと向けていた。
カチッ。
シュルルル……。
金属が鳴る音。そして、空気を鋭く引き裂く糸の摩擦音。
静まり返った廊下に、その規則正しい音だけが、異様なほど大きく響き渡る。
「……何、しているの?」
いおりの声は、冷たい回廊の奥へと吸い込まれていった。
黒髪の少女——リナは、答えない。
ただ、その華奢な指先を、恐ろしいほどの速さで動かし続けていた。
その光景は、一見すれば、無害な刺繍に興じているだけのように見える。
だが、近づくに連れて、いおりは背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。
彼女が縫っているのは、布ではない。
鋼鉄の扉の、その僅かな継ぎ目。そして、ラヴァの熱によって歪み、剥き出しになった回路の「亀裂」そのものを、銀色の糸で縫い綴じていたのだ。
第二章:銀針の舞
カチッ。
シュルルル……。
その音は、無機質な廊下の静寂を、薄い剃刀で削り取るように響いていた。
いおりは息を呑み、足音を殺してリナの背後に歩み寄る。ゆめは警戒を解かぬまま、いおりの半歩前で、低く身を構えて琥珀色の瞳を鋭く細めていた。
「リナちゃん……?」
いおりがその名を呼んでも、黒髪の少女は微塵も動じない。
彼女の背中は、アムネシアの冷気に晒されながらも、驚くほど不動だった。ただ、右手に握られた銀色の長針が、無影灯の光を跳ね返して、一閃。
——キィ。
耳を劈くような、金属と金属が擦れ合う高周波。
本来、柔らかい布を通すべきその針が、厚さ数センチはあるはずの重隔離隔壁の鋼鉄を、まるで湿った和紙でも貫くかのように、易々と突き通していた。
「……っ、嘘……」
いおりの喉から、乾いた声が漏れる。
物理法則を無視したその光景。だが、リナの指先に宿っているのは、魔法のような鮮やかさではなく、呪いのような執念だった。
彼女が左手に持つ糸巻から解き放たれる銀糸は、空気中の水分を凍らせるような、極低温の粒子を纏っている。
シュルルル……。
糸が走り、鋼鉄の亀裂を跨いで、反対側の壁へと吸い込まれる。
リナは、針を引くたびに、自分の身体を微かに震わせていた。
それは寒さによる震えではない。
針を鋼鉄に突き立てる際、彼女自身の神経系が、壁に埋め込まれた電気系統やラヴァの「熱」と、強制的に回路を繋いでしまっているからだ。
「リナちゃん、やめて! 手が……手が、血だらけじゃない!」
いおりが叫び、思わず彼女の肩を掴もうと手を伸ばした。
だが、その手が触れる直前。
リナの周囲を旋回していた銀糸の一条が、生き物のように跳ね上がり、いおりの指先を鋭く弾いた。
「つっ……!」
いおりは手を引っ込める。指先には、ナイフで切られたような細い傷跡が走り、そこから銀色の、微かな光を放つ粒子が滲み出していた。
適合者同士の干渉。
リナの「領域」は、他者の介在を、たとえそれが心配であっても拒絶していた。
リナは、ようやくその動きを止めた。
ゆっくりと、祈りを捧げるかのような緩慢な動作で、針を胸の前で休める。
彼女の指先は、いおりの予想を遥かに超えて無惨だった。
爪の生え際からは鮮血が滴り、銀糸に染み込んで、白磁の床に不規則なルビーの斑点を作っている。
だが、さらに恐ろしいのは、その血の色が、指先に近づくほどに「透明な輝き」を帯び、硬質な結晶へと変質し始めていることだった。
(……この子は、自分の命を、文字通り『縫い付けて』いるんだ……)
ゆめが、震える鼻先をリナの足元に寄せた。
ゆめは、かつて自分がそうであったように、誰かを守るために傷つく者の匂いを嗅ぎ取っていた。
リナから漂うのは、血の匂いだけではない。
焦げた香ばしさと、凍りつくような冷気が混ざり合った、矛盾する二つの死の気配。
リナは、まだこちらを向かない。
ただ、彼女の視線の先——。
銀糸で幾重にも縫い閉じられた、扉の「隙間」。
そこからは、昨夜の地獄のような紅蓮の光は、一筋も漏れていなかった。
代わりに、リナが施した幾何学的な刺繍の紋様が、心臓の鼓動のように、青白く、静かに明滅を繰り返している。
「どうして……。どうして、こんな無茶を……」
いおりの問いに、廊下を渡る冷たい風だけが答える。
リナの刺繍は、暴走したシステムを修復するためのものではなかった。
それは、世界から切り離され、狂おしい熱の中に閉じ込められた「何か」を、この冷たいアムネシアの沈黙の中に、かろうじて繋ぎ止めておくための、細い、細い命綱に見えた。
リナが、ゆっくりと首を傾げた。
長い黒髪がさらりと流れ、その下から覗いた彼女の横顔は、一切の感情を剥ぎ取られた彫像のように、虚無に満ちていた。
第三章:封じの紋様
銀糸が鋼鉄を貫き、微かな火花を散らす。
リナの手元で編み上げられていくそれは、もはや単なる修繕の域を超えていた。
いおりは、弾かれた指先の痛みを堪えながら、その幾何学的な紋様に目を凝らす。
ハッチの歪みを覆い隠すように配置された銀色の糸は、緻密な曼荼羅のように美しく、そして異様なほど複雑だった。
(……これは、ただの封印じゃない)
いおりの脳裏に、かつて母が大切にしていた古い刺繍の図案がよぎる。
けれど、リナが刻んでいるのは、温かな家庭の情景ではない。
それは、アムネシアの冷酷なシステムコードと、適合者の「祈り」が混ざり合った、この世のどこにも存在しない独自の言語だった。
「いおり……見て。ここ、あったかいよ」
ゆめが、扉の隙間に施された一際太い刺繍の結び目へと、鼻先を近づけた。
いおりもまた、その場所に手をかざす。
本来、ラヴァの熱を封じ込めるための「封印」であれば、そこは氷のように冷たく、拒絶の波動を放っているはずだ。
だが、リナの刺繍から伝わってきたのは、雪解けの陽だまりのような、ひどく穏やかで、震えるような「温もり」だった。
「……どういう、こと?」
いおりは、リナの背中を見つめる。
彼女が縫っているのは、外側へ漏れ出そうとする熱を力ずくで押し込めるための壁ではない。
逆だ。
外側の、アムネシアの「絶対零度の冷気」が、内側にいるラヴァをこれ以上凍えさせないように。
彼女の熱が、この冷たい無機質の廊下に曝されて、急激に奪われてしまわないように。
リナは、外の冷気と内の熱の間に、銀色の「真綿」を敷き詰めるように、丁寧に、丁寧に境界線を縫い綴じていたのだ。
シュルルル……。
リナが針を引き抜くたび、彼女の指先からはさらに銀色の結晶がせり出し、皮膚の弾力を奪っていく。
それは「浄化槽」としてのゆめとはまた違う、自己犠牲の形。
リナは、自分自身の体温と存在を糸に変え、隔離された「あの子」の痛みを和らげようとしている。
「リナちゃん……あなたは、あの子を守っているのね。……閉じ込めるためじゃなくて、あの子が、これ以上苦しまないように」
いおりの言葉に、リナの肩が、ほんの一瞬だけ、微かに揺れた。
認めたわけでも、否定したわけでもない。
ただ、その沈黙は、雄弁な肯定よりも重く、いおりの胸に響いた。
いおりは、自分の右腕に走る「銀色の回路」を見つめる。
自分は今まで、この力を「兵器」としての出力にしか使ってこなかった。
誰かを守るために、自分を削る。
そんな、あまりにも「人間」らしい執着が、この絶望的な施設の中でも死に絶えていなかったことに、いおりは言いようのない戦慄と、そして、小さな希望を覚えた。
「ゆめ……。この子は、私たちと同じなのね」
ゆめは何も言わず、ただリナの隣に寄り添うように座り込んだ。
ゆめの琥珀色の瞳には、リナの指先から滴る、半分結晶化した血の輝きが映り込んでいる。
「お姉さん」としていおりを守ってきたゆめにとって、リナの行為は、理屈を超えた共感の対象だった。
だが、その静謐な時間は、突如として背後から響いた硬質な足音によって破られた。
「——感傷に浸るのは、そこまでになさい」
廊下の影から現れたのは、セシリアだった。
彼女の軍靴の音が、リナが紡ぎ出した繊細な沈黙を、無慈悲に踏み潰していく。
第四章:熱の対話
セシリアの軍靴が、白磁の床に硬質な、拒絶の音を刻む。
セシリアはリナの背中を見つめ、一瞬だけ、その歩みを止めた。
銀糸が刻む模様が、何かに似ていた。それが何かを、彼女は考えなかった。考えることを、即座に止めた。
セシリアは軍靴の音を取り戻し、廊下を進んだ。
「無意味な消耗ね、リナ。その扉の向こうにいるのは、あなたが慈しむべき『妹』ではない。制御を失った熱源、ただの欠陥品よ」
セシリアの声は、冷たい霧のように廊下へ広がり、リナが紡ぎ上げた静謐な熱を霧散させていく。
リナは依然として背を向けたままだったが、その指先が、鋼鉄の壁に縫い付けられた銀針を、折れんばかりに強く握りしめた。
「セシリア様……! リナちゃんは、あの子を助けようとしているんです。あの子の熱が、外の冷気に触れて消えてしまわないように……」
いおりの叫びに、セシリアは冷徹な眼差しを向けた。その瞳は、適合者たちの命を「個」としてではなく、単なる「戦術リソース」のグラフとしてしか捉えていない。
「助ける? 傲慢ね、いおり。ラヴァの熱は、彼女自身の存在を焼き尽くすためのエネルギーよ。外の冷気こそが、彼女を無理やりこの世界に繋ぎ止めるための、唯一の枷なの。リナが施しているこの刺繍は、枷を緩め、彼女を『死』という無への帰還に近づけているに過ぎないわ」
セシリアの指先が、空中にホログラムのパネルを呼び出す。そこには、重隔離区画内部の、赤黒く燃え盛る異常なバイタルサインが映し出されていた。
「見てなさい。共鳴係数の上昇。リナの『優しさ』が、あの子の孤独を刺激し、破壊の出力を高めている」
——ドクン。
その時、ハッチの向こう側から、内臓を素手で掴まれるような、暴力的な鼓動が響いた。
「っ……あああ……ッ!!」
いおりの「銀色の回路」が、リナの刺繍を通じて、ラヴァの意識と強制的に直結した。
視界が真っ赤に染まり、喉を焼くような乾燥した熱気が肺へ流れ込む。
それは、昨日感じた「熱」よりも、ずっと解像度の高い、純粋な「痛み」だった。
(……痛い。あつい。誰か、誰か……触って……)
脳裏に直接、剥き出しの子供のような泣き声が響く。
だが、その「触れてほしい」という願いそのものが、周囲のすべてを灰に変える「炎」となって、彼女自身を孤立させている。
いおりは、ラヴァの孤独の深さを知った。
誰かに触れたいと願うたびに、相手を焼き尽くしてしまう。
愛したいと望むたびに、世界を破壊してしまう。
リナは、その地獄のような熱を、自分の細い指先一つで受け止めていたのだ。
「リナちゃん……。あなたは、ずっとこの声を聞いていたのね」
いおりは、リナの横顔を盗み見た。
彼女の瞳は、ラヴァの放つ赤黒い光を反射して、銀色の涙を湛えているように見えた。
リナの指先からは、今や血ではなく、透明な「結晶」が剥落し、床にカチリと音を立てて落ちる。
彼女は、ラヴァの熱に焼かれながら、自分の身体が硝子へと変わっていく恐怖さえも、その沈黙の中に封じ込めていた。
「いいでしょう。そこまでして『対話』を望むなら、その対価を払いなさい」
セシリアの指先が、パネル上の冷酷なスイッチをスライドさせる。
「ラヴァ、出力抑制フィールド……一部解除。適合者いおり、ゆめ。リナの回路をバイパス(中継)し、熱源への共鳴を開始しなさい。……『兵器』としての、最初の実戦試験よ」
ハッチの奥で、獣の咆哮のような、凄まじい「熱」が膨れ上がった。
第五章:共鳴する孤独
「——フィールド、減衰。共鳴率、八〇%固定」
セシリアの指先が虚空を叩いた瞬間、世界から一切の「色」が剥ぎ取られ、代わりに網膜を焼くような「赤黒い熱」が爆発した。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ。
鋼鉄のハッチの向こう側から、巨大な心臓の鼓動のような衝撃波が、目に見える波紋となって廊下を駆け抜ける。いおりの鼓膜が、高周波の金属音に切り裂かれ、肺胞の奥まで熱せられた鉄の粉を吸い込んだような錯覚に陥った。
「っ……あ、熱い……! ゆめ、離れないで……!」
いおりは、隣で激しく震えるゆめの肩を抱き寄せようとした。
だが、その瞬間——いおりの指先は、ゆめの肩に触れる直前で“空を掴んだ”。
確かにそこにいるはずのゆめの輪郭が、熱に揺らぐ陽炎のように歪み、指先をすり抜けていく。
「……ゆめ?」
ゆめはすぐ隣にいる。声も聞こえる。熱に震える呼吸も感じる。
なのに——触れられない。
ラヴァの放つ暴走した熱が、二人の境界を一瞬だけ断絶させたのだ。
いおりの胸に、冷たい恐怖が走った。
(……触れられない……? ゆめに……?)
ゆめの「浄化槽」としての回路が、いおりの脳に直接伝わるラヴァの苦痛を、泥のように濁った銀色のエネルギーとして吸い上げ始める。
ゆめの背中に埋め込まれたコネクタから、パチパチと青白い火花が散り、彼女の銀髪が逆立って周囲の空気をイオン化させていた。
「いおり……だいじょ、ぶ。……私、負けないから……ッ!」
ゆめは、食いしばった歯の間から声を絞り出す。
彼女の身体は、いおりを守るための「楯」として、ラヴァの熱をその小さな華奢なフレームで受け止めていた。
だが、その中心にいたのは、やはりリナだった。
リナは、ハッチの歪みに突き立てた銀針を、両手でしっかりと握りしめていた。
彼女の細い腕。その皮膚の下を通る血管が、ラヴァの熱に焼かれて真っ赤に発光し、浮き上がっている。
リナは、自分の神経系を「導線」にしていた。
ラヴァが放つ制御不能な破壊の熱を、自分自身の身体という「抵抗器」を通すことで減衰させ、いおりやゆめ、そしてこのアムネシアが崩壊するのを食い止めていたのだ。
シュルルル……。
リナの銀糸が、熱で赤熱し、今にも焼き切れそうなほど細く引き伸ばされる。
いおりは、リナの背中に重なるように手を伸ばし、彼女の肩を支えた。
「リナちゃん……! 私も、繋ぐわ。……一人で、全部背負わないで!」
いおりがリナの身体に触れた瞬間——。
リナの意識の深淵が、津波のようにいおりの脳内へ流れ込んできた。
そこは、言葉の一切が存在しない、色褪せた灰色の世界。
ただ一箇所、中心で燃え盛る巨大な「業火」だけが色彩を持っていた。
その炎の形は、膝を抱えて震える、小さな、小さな少女のシルエットに見えた。
(……あ、つい……。だれか、たすけて……。だれか……だれか……)
ラヴァの叫びが、いおりの魂を直接揺さぶる。
それは、誰かを傷つけたいという攻撃性ではない。
ただ、自分がそこに「存在している」ことさえもが周囲を破壊してしまうという、逃れられない呪いに対する絶望。
リナは、その炎の中に、素手で手を突っ込んでいた。
ラヴァの震える指先を、自分の指先で、銀糸の針を媒介にして、優しく、けれど壊れんばかりの力で握りしめている。
(……あの子は、悪くない……。ただ、愛されたいだけなの……)
リナの「無意識の言葉」がいおりの心に染み込んでくる。
リナは知っていたのだ。この地獄のような熱が、愛に飢えた子供の「体温」の成れの果てであることを。
リナは自分自身が焦げ付き、結晶へと変わっていく痛みさえも、ラヴァを一人にさせないための「証明」として受け入れている。
「リナちゃん……あなた、そんな思いで……」
いおりの瞳から、熱を帯びた涙が零れ落ちる。
その涙が床に触れる前に、蒸発して小さな白い霧に変わった。
三人の少女が、重隔離区画の前で、一筋の銀糸を介して、孤独の深淵で繋がっていた。
「……計測終了。共鳴の安定を確認しました」
セシリアの非情な声が、繋がれた意識を強引に切断した。
熱気が引き、静寂が戻る。
ハッチの奥の鼓動は、凪のように静まっていた。リナが施した「封じの刺繍」が、今や神々しいまでの光を湛え、扉の歪みを完全に覆い隠していた。
第六章:硝子の指先
熱気が引いた後の廊下は、かえって骨の髄まで凍てつかせるような、死の静寂に包まれていた。
「……はぁ、はぁ……っ……」
いおりは床に膝をつき、焼けた肺を震わせて冷たい空気を追い求めた。隣ではゆめが、いおりの肩を支えながら、自身の背中のコネクタから漏れ出す「結晶の余熱」に顔を歪めている。
だが、二人の視線の先、依然としてハッチの前に立ち尽くすリナの姿は、あまりにも異様だった。
「リナちゃん……?」
いおりが震える声で呼びかける。
リナはゆっくりと、機械的な動きでその両手を胸の前へと下ろした。彼女の指先に握られていた銀針は、ラヴァの熱に焼かれ、本来の光沢を失ってどす黒く変色している。
カチリ。
乾いた、何かが硬い床に落ちたような音が響いた。
それは、リナの指先から剥落した「皮膚」だった。
「……っ!?」
いおりは息を呑んだ。
リナの、白く細かったはずの指先。その第一関節から先が、血の通った柔らかな肉ではなく、内側から透き通るような、けれど不吉な鈍色を帯びた「硝子の結晶」へと変質していた。
指紋も、爪の境目も、すべてが滑らかな硬質化に飲み込まれている。
リナがラヴァの熱を逃がすための「抵抗器」となった結果、彼女自身の細胞が耐えきれず、結晶病を急速に進行させてしまったのだ。
「そんな……。リナちゃん、あなたの手……」
いおりが、縋るようにリナの手に触れようとした。
だが、リナは微かに首を振り、拒絶するようにその手を隠した。
硝子化した指先が、彼女の白いワンピースの布地と擦れ、衣擦れの音とは思えない、冷たく鋭利な「キィ……」という硬質な音を立てる。
「……適合者リナ。結晶化率、さらに一二%上昇。警告域を突破。……ですが、ハッチの物理的封鎖は成功しました。……ご苦労様」
セシリアの淡々とした、労いなど微塵も感じさせない評価が廊下に響く。
彼女にとって、リナの指先が硝子に変わろうが、それが予定された「消耗」の範囲内であれば、痛痒も感じないのだ。
「セシリア様! これ以上は無理です! リナちゃんを……リナちゃんを休ませてあげてください!」
いおりの叫びを、セシリアは冷徹な一瞥で切り捨てた。
「休ませる? 勘違いしないで、いおり。彼女をここまで動かしているのは、私の命令ではない。彼女自身の内側にある、救いようのない『執着』よ。……リナ。あなたは、まだその針を置くつもりはないのでしょう?」
リナは、ゆっくりと顔を上げた。
長い黒髪の間から覗くその瞳は、感情を完全に凍結させたように静かだった。
彼女は言葉を発しない。ただ、硝子化した指先をもう一度強く握りしめ、自らの胸元にある銀色の刺繍紋様に触れた。
それは、自分自身の命を削ってでも、あの子の「熱」を独りきりにはさせないという、沈黙の誓い。
いおりは、絶望的な無力感に打ちひしがれた。
ゆめを「浄化槽」にされた自分。そして、自らを「封印の糸」に変えていくリナ。
この美しい地獄で、少女たちが生き延びるためには、自分の一部を「人間ではない何か」へと差し出し続けなければならない。
ゆめが、リナの足元に寄り添い、その硝子の指先を温めるように、優しく鼻先を寄せた。
ゆめは知っていた。リナの手がもう、どんなに温めても二度と「熱」を持つことはないのだとしても、それでも寄り添い続けることの意味を。
「……あの子は……」
その時だった。
リナの、砂が擦れるような、かすかな吐息が聞こえた。
第七章:最初の言霊
沈黙が、重く、粘り気のある質量を持って廊下を埋め尽くしていた。
「……あ、……」
リナの唇が、冬の湖面に走る亀裂のように、微かに、けれど確かに戦慄いた。
いおりは呼吸を止め、その小さな「予兆」を逃すまいとリナの横顔を見つめた。
セシリアの軍靴の音さえも、この瞬間だけは、世界から消去されたかのように遠のいていく。
カチ、カチ……。
リナの硝子化した指先が、白磁の床に硬質な、けれどどこか寂しげな音を立てて触れる。
彼女はゆっくりと、ハッチに施した「封じの刺繍」へと歩み寄った。
銀糸が、リナの結晶化した体温と共鳴し、青白く、脈打つような光を放っている。
(……ごめんね。……熱いの、代わってあげられなくて)
いおりの脳裏に、先ほどの共鳴の残響が、リナの「無意識の謝罪」としてリフレインする。
リナは、ラヴァを閉じ込める自分を許していなかった。
扉の向こう側で、誰の手も握れず、ただ世界を焼き尽くすことしかできない少女の絶望を、誰よりも理解し、共に焼かれることを選んでいたのだ。
「リナちゃん……」
いおりがそっと手を伸ばしかけた、その時。
「…………あの子は」
砂が擦れ合うような、ひどく掠れた、けれど耳の奥に直接刻まれるような透明な響き。
それは、アムネシアに来てから一度も声を発したことのないリナが、自身の喉を、そして肺を、無理やり震わせて絞り出した「最初の言霊」だった。
リナは、ゆっくりといおりの方を振り返った。
長い黒髪の隙間から覗くその瞳は、もはや恐怖も、痛みも、拒絶も超越していた。
ただ、どこまでも深く、澄み切った「慈愛」だけが、そこに静かに湛えられていた。
「……あの子は、悪くない」
その一言が、廊下の冷たい空気を一瞬にして「凪」へと変えた。
「悪いのは、……あの子の『愛』を、熱に変えてしまった……この世界の方」
リナの瞳から、一筋の、銀色の粒子を孕んだ涙が溢れ出した。
その涙は頬を伝う途中で硬質な結晶へと変わり、床に落ちる前に、光の粒となって霧散していく。
いおりには、今まで「熱」としか見えていなかったものが、初めて「声」として聞こえていた。
けれど、リナだけは違った。
彼女は、あの地獄のような熱を、歪んだ「愛の形」として受け止めていたのだ。
愛したいと願うほどに、触れたいと望むほどに、その純粋な感情が臨界点を超えて溢れ出し、世界を焼き、自分自身をも灰にしてしまう。
その矛盾に、誰よりも苦しんでいたのは、ラヴァ自身だったのだと。
「……報告は以上ですか、リナ」
セシリアの、一切の感興を削ぎ落とした声が響く。
リナはもう、答えることはなかった。
ただ、硝子化した指先で銀針をもう一度握りしめ、自分自身の内側の沈黙へと、再び深く、深く潜っていく。
いおりは、リナの背中を見送りながら、自分の右腕を強く抱きしめた。
銀色の回路が、まだ微かに熱を持っている。
ゆめが、いおりの手に自分の手を重ね、琥珀色の瞳で静かに首を振った。
「泣かないで、いおり。……私たちは、もう知ってしまったんだから」
そうだ。もう、元には戻れない。
ラヴァという名の「地獄」が、実は「届かなかった祈り」であったことを。
そして、自分たちの「兵器としての日常」のすぐ隣に、リナのような、静かな、けれど苛烈な抵抗の形があることを。
アムネシアの冷酷な白光の下。
いおりは、遠く離れた隔離区画の奥底で、今も静かに燃え続けている「あの子」の孤独に、初めて、自分の心を重ねようとしている。
廊下に残された銀色の糸は、届かない救済の形をして、いつまでも静かに明滅していた。
第三話:リナという沈黙--完
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