スピンオフ③:『銀色のプロローグ:ちいさな足跡と、はじめての散歩道』
■ ビジュアルリンク一覧
【00】アムネシア外観
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【01】いおりとゆめ
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【02】いおりとゆめ(幼少期)
https://www.pixiv.net/artworks/143622191
【03】いおり
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【04】ゆめ
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【05】ユウリ
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【06】セシリア
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【07】ステラ
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【08】リナ
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【09】ラヴァ
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【10】すず
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【11】もか
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【12】オールキャスト
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第一章:記憶の深淵、ノイズの向こう側
「……いおり、集中して。思考の外壁を薄くして、情報の断層を滑るように。余計な感情は、今はノイズでしかありません」
静寂に包まれた訓練室に、すずの冷静な声が響く。
いおりは専用のインターフェースを装着し、深く椅子に身を預けていた。平和を取り戻したはずの世界。しかし、彼女の内に宿る「銀色の回路」は、時折、制御を離れて過去の膨大なデータを呼び起こそうとする。特定の記憶を整理し、自分自身の心を繋ぎ止めるためのこの「マインド・ダイブ」は、今のいおりにとって欠かせない精神の調律だった。
「わかってる、すずちゃん……。でも、今日はいろんな景色が混ざって……上手く掴めないの」
閉じた瞼の裏で、幾千もの断片が高速で明滅する。
アムネシアの冷たい通路、激しい戦いの火花、誰かの叫び――。
重苦しい鉄の色が視界を埋め尽くそうとしたその時、ふと、それらとは全く質の異なる「光」が、意識の隙間に差し込んだ。
(……あれ?)
それは、くすんだ銀色ではなく、透き通った黄金色だった。
鼻をつく消毒液の匂いではなく、陽に干した布団のような、懐かしくて甘い匂い。
足元には冷たい金属床ではなく、柔らかな芝生と、湿った土の感触。
「……あおぞら、ようちえん?」
いおりの意識は、すずのガイドを振り切るように、その暖かな断層へと吸い込まれていった。
そこは、まだ世界が「戦い」という言葉を知る前の、ただただ眩しかった頃の記憶。
ノイズの向こう側から、幼い自分たちの笑い声が、さざ波のように聞こえてくる。
「いおり! 早くこっちだよ!」
その声に引かれるように、いおりはゆっくりと、五歳の自分が立っていた「あの日」の庭へと降り立っていった。
第二章:ちいさな騎士と、白い毛玉
眩しい陽光に目を細めると、そこには五歳のいおりが立っていた。
水色の園児服の袖をまくり上げ、短く切り揃えられた髪を春の風に揺らしながら、彼女は小さな胸をいっぱいに膨らませて宣言する。
「いい、みんな? 今日は私たちの『はじめての任務』だよ! セシリア園長先生に頼らないで、ゆめを門の外まで連れて行ってあげるんだから!」
いおりの足元では、綿菓子をひと回り大きくしたような、ふわふわの毛並みをしたクリーム色のロングコートチワワ――ゆめが、弾むように跳ねていた。
「キャンッ! キャンッ!」
ゆめはいおりより4歳年上とは思えぬほど天真爛漫で声は高く、鈴を転がしたような響きを持っている。
この頃のゆめは、今のように流暢な言葉を話すことはできない。けれど、その潤んだ瞳を見れば、いおりにはすべてが伝わってきた。「いおりと一緒なら、どこへだって行けるよ!」という、無垢で、一点の曇りもない信頼が。
「ゆめ、大丈夫だよ。いおりがちゃんとお姉さんとして守ってあげるからね」
いおりは、小さな手に余るほどの太さに見える、ピンク色のリードをギュッと握りしめた。
そのリードの先で、ゆめは尻尾を千切れんばかりに振り、いおりの膝に何度も鼻先を押し付けてくる。それは、少女と一匹の犬が交わした、言葉よりも確かな約束だった。
「よし、出発進行ー!」
いおりの号令に合わせて、ゆめが軽快に駆け出す。
あおぞら幼稚園の大きな門。その境界線を越えることは、五歳の彼女たちにとって、世界の果てを目指す大冒険に等しかった。
「いおり、待って! 足元の石ころに気をつけてね!」
背後から駆け寄ってくる仲間たちの声。
いおりは振り返らずに、けれど心強い温もりを感じながら、未知なるアスファルトの道へと踏み出した。
小さなサンダルが刻む足音と、小さな肉球が跳ねる音。
それは、これから始まる長い旅路の、一番最初の一歩だった。
第三章:最強のバックアップ(幼児編)
「いおり! 待って、そのルートは戦略的に不適切よ!」
背後から鋭い制止の声が飛ぶ。五歳のユウリが、自由帳を丸めてセロハンテープでガチガチに固めた「特製望遠鏡」を覗き込みながら駆け寄ってきた。彼女の反対の手には、何色ものクレヨンが重なり合い、もはや抽象画のようにしか見えない「完璧な地図」が握られている。
「いい、いおり。私が策定した最短経路によれば、次の角を右……いえ、地磁気の乱れを考慮すると左ね。とにかく、私の背中についてきなさい!」
「えぇーっ、ユウリちゃん、地図逆さまだよ? さっきの角だって、ホントは反対だったもん!」
いおりが正論で反論する間もなく、足元のゆめが「ワンッ!」と野次を飛ばすように吠えた。そして、ユウリが自信満々に指し示した「公園とは真逆の方向」へと、獲物を見つけた猟犬のような勢いでダッシュを開始する。
「わわっ、ゆめ! 引っ張らないでー! まだ会議中だよ!」
「ほら、ゆめも私の高度な作戦を支持しているわ! 突撃開始よ、全軍前へ!」
混沌とする最前線を支えるべく、他の仲間たちもそれぞれの「正義」を爆発させる。歩道は一気に、小さな園児服たちの喧騒に支配された。
「みんな、これを持ってて! 元気が出る魔法のお守りだよ」
ステラが、お菓子の空き箱をハサミで歪に切り抜き、金銀のシールをこれでもかと重ね貼りした「特製メダル」を掲げて走り回る。走りながら全員の首に紐をかけようとするものだから、メダルはステラの胸元でパタパタと踊り、彼女が踏み出すたびにシールの隙間から甘いチョコの残り香がふわりと漂った。
「これがあれば、転んでもお空の神様がすぐに絆創膏を持ってきてくれるんだから。えへへ、私たちは宇宙で一番無敵のチームだよ!」
その傍らでリナは、使い込まれた愛車の三輪車に跨り、ハンドルを握りしめて決死の表情でペダルを漕いでいた。
「……背後は、私が死守する。一歩も引かせない」
彼女にとって、このプラスチックの車輪が立てるガラガラという乾いた音は、戦場を駆ける重戦車の轟音だった。
だが、平和な歩道に潜む「罠」――大人なら気づきもしない、アスファルトのわずかな亀裂が彼女の行く手を阻む。五歳の視点では、それは底の見えない深い峡谷にも等しい断絶だった。前輪が斜めに取られ、「わわっ」という短い悲鳴と共に三輪車が横転する。
「……今の転倒は、敵の追跡を攪乱し、死角から奇襲をかけるための高等戦術。……膝が小刻みに笑っているのは、強敵を前にした武者震いだ」
リナは震える足で立ち上がる。誇らしげな勲章のように、白いタイツには黒々とした泥汚れと、草の汁が濃く染み付いていた。
「統計的に、この路地には『巨大な猫』が出没し、我々の進軍を阻む確率が九十八パーセントです……あ」
すずが、計算機のように冷徹な足取りをピタリと止めた。
視線の先、民家の塀の上。午後の柔らかな日差しを全身に浴びて、キャラメル色の毛並みを波打たせながら、一匹の茶トラ猫がとろけるように寝そべっている。猫が細い目をさらに細め、「ふぁあ」と大きな欠伸をした。
「……未知の可愛さ、および圧倒的な生物的威圧感です。演算機能が……過負荷によりオーバーヒート……」
すずは猫と至近距離で見つめ合ったまま、思考回路を奪われた石像のように、指先一つ動かせぬままその場に氷結してしまった。
「あっち! あっちから、すっごく『幸せの匂い』がするよー!」
一方、もかは「散歩ルート」という概念そのものを、脳内の消しゴムで消し去っていた。
近所のパン屋の換気扇から吐き出される、焼きたての小麦と濃厚なバターが混じり合った黄金色の香りに鼻腔を支配され、ふらふらと誘蛾灯に惹かれる羽虫のように路地裏の暗がりへと吸い込まれていく。
「待ってもかちゃん! そっちはパン屋さんでしょ、任務を忘れないで! ゆめ、追い越さないで、いおりの腕が抜けちゃう! ユウリちゃんも、そっちはただの行き止まりの壁だよー!」
リーダーとしてこのカオスを束ねようとするいおりだったが、右へ左へと本能のままに蛇行し続ける「白い毛玉」の凄まじい牽引力に翻弄され、もはや散歩というよりは、暴走する小型犬に運命を委ねた「強制連行」の状態に陥っていた。
小さな冒険者たちの規律あるはずの隊列は、目的地に辿り着く前に、それぞれの純粋すぎる好奇心によって粉々に砕け散ろうとしていた。
そこへ、さらなる混乱の火種を運ぶように、どこからか飛来した一羽の紋白蝶が、ゆめの濡れた鼻先を小馬鹿にするようにかすめていった。
第四章:パニック・イン・パーク
一行がようやく辿り着いたのは、近所でも「冒険の森」と名高い、木々の深い小さな公園だった。
五歳のいおりの目には、高くそびえ立つクヌギやナラの木々が、まるで空を突き刺す巨人のように見えた。午後の日差しは厚い葉の重なりに遮られ、地面には斑な影が怪物のように揺れている。
いおりは額に張り付いた髪を払い、汗で湿った手のひらを園児服で拭うと、ピンク色のリードをもう一度力一杯握り直した。
「よし、みんな! ここは敵(野良猫)が多いから、警戒を……」
いおりが「リーダー」として勇ましく指示を出そうとした、その時だった。
淀んだ空気の中を切り裂くように、一羽の紋白蝶がひらひらと舞い降り、ゆめの鼻先を挑発するようにかすめた。
「ワンッ! ワンワンッ!」
ゆめの「無邪気なスイッチ」が、音を立てて振り切れた。
弾丸のような瞬発力。クリーム色の白い毛玉が、バネを仕込んだ玩具のように弾け飛ぶ。不意を突かれたいおりの手の中で、汗ばんだリードが生き物のように暴れ、指の間を滑り落ちた。
「あ、待って、ゆめ! だめーーっ!!」
いおりの細い叫び声は、公園を包む深い緑に吸い込まれていった。
ゆめは振り返ることもなく、蝶が描く白い軌跡を追いかけて、背丈ほどもある濃緑の生垣の向こう側へと、吸い込まれるように姿を消した。
「どうしよう、ゆめが……ゆめ、どこ!?」
生垣の先は、手入れの行き届かない斜面が続く土手になっていた。見下ろすと、湿った土と腐葉土が混じり合った独特の匂いが立ち上り、どこまで続いているのか分からない暗い闇が広がっている。
「緊急事態よ! 全員、散開して包囲網を形成!」
ユウリが自由帳の望遠鏡を構えて叫ぶが、彼女の視界もまた、生い茂る下草に遮られていた。焦るあまり足元の太い切り株に躓き、ユウリは派手に尻もちをつく。
「ゆめちゃん、出ておいでー! キャンディあげるからー!」
ステラがポケットの奥底から、魔法の飴(ただの包み紙のゴミ)を必死に振りかざして叫ぶ。その横で、リナが「三輪車突撃、開始……!」と唸りながらペダルを漕ぎ出すが、前輪は昨夜の雨でぬかるんだ泥に深く嵌まり込み、空しく泥水を跳ね上げるだけだった。
「……目視、不能。遮蔽物(草木)が多く、視界の確保が困難です。もか、嗅覚センサーを最大出力に」
すずの冷静な声さえ、わずかに震えている。もかは「まかせて!」と鋭く鼻をひくつかせた。
「こっち! こっちから、ゆめちゃんの『はしゃいでる匂い』がするよ!……でも、少しずつ遠くなってる!」
もかが指し示したのは、トゲのある低木が密集し、大人の目すら拒むような鬱蒼とした茂みの奥だった。
いおりは、ゆめがこのまま遠い世界へ消えてしまうのではないかという、身を切るような恐怖に突き動かされた。大人なら間違いなく引き止めるであろうその険しい斜面へ、彼女は迷わず飛び込んだ。
「ゆめ! ゆめーー!!」
伸び放題の枝がいおりの頬を容赦なくかすめ、湿った落ち葉がサンダルの底で不気味に滑る。
涙で歪む視界の先、暗い緑の迷宮の中で、いおりはただ一つ、自分を置いて走り去った大切な「白い毛玉」の影を追い求めて、必死に土を蹴り続けた。
第五章:痛いの痛いの、飛んでいけ
「……っ、あ!」
第四章の焦燥感が、一瞬で凍りついた。
鬱蒼とした茂みの中、伸び放題の枝が顔をかすめ、足元の腐葉土が湿った粘土のようにサンダルの底にまとわりつく。視界は涙と、頭上の葉が遮る薄暗がりで歪んでいた。
いおりが踏み出したその一歩は、濡れた落ち葉の層を捉えきれず、不気味な滑り方をした。
支えを失った小さな体が、空を掴む。
ドサリ、という鈍い音が緑の静寂を切り裂いた。
斜面を転がり落ちる衝撃。視界が上下に反転し、土と枯れ草の匂いが鼻腔を突く。
そして、鋭い「衝撃」が右の膝を襲った。
「……ぅ、ううぅ……」
転がり止まった地面で、いおりは体を縮めた。
右の膝。園児服の裾から覗く柔らかな肌に、赤黒い土が擦り付けられ、その下からじわりと、鮮紅色の血が滲み出していた。
ズキズキと、心臓の鼓動に合わせて波打つような激痛。それは、五歳のいおりがこれまでの人生で経験したことのない、圧倒的な「恐怖の味」だった。
「痛い……。痛いよぉ……。ううっ、ゆめ……どこ行っちゃったの……?」
心細さと、膝から広がる痺れるような熱、そして見知らぬ森の暗闇。
いおりの大きな瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、土ぼこりで汚れた頬を伝い落ちた。声にならない泣き声が、森の奥へと吸い込まれていく。
「……キャンッ! キャウンッ!」
ガサガサと、枯れ草を激しく掻き分ける音が近づいてきた。
いおりが涙に濡れた目を上げると、そこに、真っ白い毛玉が飛び出してきた。
ゆめだった。
ゆめは、蝶を追いかけるのをやめ、いおりの声を聞きつけて戻ってきたのだ。
(いおり! 大丈夫!?)
言葉にはならない。けれど、ゆめの潤んだ琥琥珀色の瞳は、はっきりとそう語っていた。
ゆめは、動けずにいるいおりの元へ駆け寄ると、心配そうに鼻をクンクンと鳴らし、いおりの傷ついた膝を、小さな舌でペロペロと優しく、丁寧に舐めた。
その瞬間、いおりの心の中に、不思議な温かさが流れ込んできた。
いおりが産まれて家にやってきてから五年間、ずっとそばにいた彼女。生まれた時からそこにいた、一番身近な家族。
言葉を超えた、確かな「愛」が、直接脳裏に響くような、奇妙で愛おしい感覚。
(いおり、いたいの? ……ごめんね、ゆめ、おいていっちゃって)
(でもだいじょうぶだよ。ゆめがいるからね。いおりのことは、ゆめがまもるから)
ゆめは一生懸命に首を振り、いおりの顔を覗き込んだ。
そして、幼い少女に精一杯の「魔法」をかけるように、いおりの瞳をじっと見つめて、高らかに鳴いた。
『――いおり! 痛いの、痛いの、遠くの、お空の向こうまで、飛んでいけーー!』
「……あ」
いおりの涙が、ぴたりと止まった。
不思議なことに、物理的な痛みはまだそこにあるはずなのに、もう怖くはなかった。ゆめの温かい体温と、その無垢な瞳に宿る「私を信じて」という強い意志が、震えていた心に確かな芯を通してくれる。
「ゆめ……。見つけた。……よかった、本当によかった……」
いおりは、砂だらけの腕で、クリーム色のふわふわした体をギュッと抱きしめた。
ゆめからは、土と草の匂い、そしていつもの、陽に干したお布団のような、安心する匂いがした。
生垣の上から、ユウリたちが次々と顔を出す。
「いおり! 無事なの!? 敵の奇襲(転倒)に遭ったって、もかが匂いで感知したわ!」
「よかったぁ、ゆめちゃんも見つかったんだね! ほら、ステラのお守りが、きっと神様に届いたんだよ!」
「……膝、出血を確認。だが、生存信号は、強力」
夕暮れの淡いオレンジ色の光が、緑の隙間から差し込む。
泥だらけの小さな冒険者たちは、お互いの顔を見て、今日一番の、晴れやかな笑顔で笑いあった。
第六章:夕暮れの帰還
あおぞら幼稚園の大きな門の前に、ようやく小さな影がいくつか重なった。
戻ってきた一行を待っていたのは、心配で何度も門の外を覗き込んでいたセシリア園長先生だった。
「あらあら、みんな泥だらけ。一体どこまで大きな冒険に行っていたのかしら?」
セシリアが優しく声をかけると、いおりはギュッとゆめのリードを握り直し、少しだけしょんぼりと肩を落とした。
「園長先生……ごめんなさい。お散歩、失敗しちゃった。ゆめを離しちゃったし、いおり、転んじゃったの」
右膝の擦り傷を見て、セシリアはふわりと膝を突き、いおりと視線を合わせた。彼女の温かな掌がいおりの頭に置かれる。
「いいえ、いおり。あなたは、ゆめを最後まで諦めずに探し出したのでしょう? それは、立派な『成功』ですよ。ほら、ゆめもあんなに誇らしげに笑っているわ」
セシリアの言葉に、いおりは足元を見た。ゆめは泥でクリーム色の毛を汚しながらも、「楽しかったね!」と言わんばかりに尻尾を振り、いおりの靴を熱心に舐めている。
……そこで、いおりの意識は急激に浮上した。
「――いおり、いおり! 戻ってきて、バイタルが安定しません!」
目を開けると、そこはいつもの無機質な訓練室だった。
心配そうに顔を覗き込むすずと、そして――。
「いおり! よかったぁ、急にデータが真っ白になったからびっくりしたよー!」
「……ゆめ」
いおりは、現実の世界で自分の隣にいるゆめを見つめた。
今はもう、四足歩行の犬ではない。人間の少女の姿で、自分の手をぎゅっと握りしめているパートナー。
「……そっか。私、あの日のことを……」
いおりの瞳に、懐かしさと愛しさが混ざり合った光が宿る。記憶の断層から持ち帰った「温もり」は、今の彼女の心にも、確かな熱量を持って残り続けていた。
第七章:完結・チワワの言い分
「……ふふっ。ゆめ、私、思い出しちゃった。あおぞら幼稚園の時のはじめてのお散歩のこと」
訓練室の静寂の中、いおりは少し潤んだ瞳で隣の少女を見つめた。
ゆめは「えっ!」と声を上げ、自分の頬を両手で押さえてじたばたと足を動かす。
「あの時の? もう、いおりったら、そんな恥ずかしい記憶、わざわざマインド・ダイブで引っ張り出さないでよー!」
「うぅ……でも……ありがとう、ゆめ。あの頃も、今も……ずっと私を守ってくれて」
いおりの声は少し震えていた。記憶の中で自分を舐めてくれた、あの小さな温もりが、今のゆめの存在と重なり合う。
「……当たり前だよ。私はいおりの“ゆめ”なんだから」
ゆめは照れくさそうに鼻を鳴らし、二人は同時に、そして最高の笑顔で笑い合った。
いおりは、今しがた見てきたばかりの、黄金色に輝く幼児期の記憶を、二度と失わないように深く胸に刻み込む。
「ゆめは、ずっと私のそばにいてくれたんだね」
「うん。これからもずっとね」
いおりは、そっとゆめの手を握った。
その手は、記憶の中にあった五歳の頃の小さな手とは違う、成長した少女の手。けれど、握り返してくれるその指先の柔らかな温かさは、あの土手の下で触れたものと何も変わらなかった。
「……でもね、いおり」
ゆめが、ふと真面目な顔をして口を開いた。
「あの時のお散歩、実はゆめ、すっごく大変だったんだよ? いおり、張り切りすぎて力いっぱいリード引っ張るから、ゆめの首、ずっと『ぐぇっ』てなりそうだったんだから!」
「ええっ!? そ、そうなの!?」
「そうだよー! それにね、地図を上下逆さまに持ってるユウリちゃんを見た時、『あ、これ今日中に幼稚園に帰れないかも……』って、犬ながらに人生……あ、犬生最大の覚悟をしたんだからね!」
「もう! それは今言わない約束でしょー!」
夕暮れのアムネシアに、赤面したいおりの叫び声が響き渡る。
いおりは笑いながら、ふと思った。あの記憶の中に、なぜユウリたちがいたのかは分からない。
本当にあった日のことなのか、自分が望んでいた「もしも」が混ざり込んだのかも。でも、ゆめの手の温かさだけは、どの記憶よりも確かだった。
それで、十分だった。
小さな足跡から始まった彼女たちの物語は、姿かたちが変わっても、新しい思い出を刻みながらどこまでも続いていく。
スピンオフ③:『ちいさな足跡と、はじめての散歩道』――完。
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