契約キャンセル実態と葛城裕太の再来
賃貸借契約が契約後にキャンセルとなるケース1の話である。
ハウスメーカーの建築ならば引き渡し後という条件から自ずと期日が決まるし、部屋番号が錯綜することもほとんどない。
だが、工務店となると大家が主体的に管理するのでこういう齟齬が起きる場合がある。
第八話〈キャンセルと葛城裕太再び〉
その日は、幸栄不動産にとっても特別な朝だった。新築アパート、全四室。建築中から予約が埋まり、キャンセル待ちまで出た人気物件。その最初の入居者が、今日、鍵を受け取り、新生活を始める――はずだった。
午前九時過ぎ、店のドアが開き、若い夫婦が入ってきた。まだ新婚らしく、どこかぎこちない距離感と、それでも隠しきれない幸福感が空気に滲んでいる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
麻耶はいつもの営業スマイルで迎えたが、その内側にはわずかな緊張があった。新築の初回契約は、何事もなく終えるのが鉄則だ。ここで躓けば、その物件の評判にまで影響しかねない。
「引越しの車が十一時に来るんですけど、契約ってそれまでに終わりますか?」
夫がやや急ぎ気味に言う。
「大丈夫です。ご安心ください」
麻耶は即答した。その声には、これまで積み重ねてきた経験が滲んでいる。重要事項説明書の読み合わせ、紛争防止条例の確認、契約書への署名。手続きは流れるように進んだ。
順調だった。あまりにも順調すぎた。
「では、鍵は大家様が現地でお渡ししたいとのことですので、ご一緒に向かいましょう」
三人は店を出て、徒歩五分のアパートへ向かった。
その時点では、まだ何の異変もなかった。
現地に到着すると、手前の部屋の玄関が開いていた。中では大家がしゃがみ込み、床を磨いている。
「おはようございます。本日ご入居のお客様をお連れしました。鍵をお願いします」
麻耶が声をかけると、大家は顔を上げた。
「ああ、ごくろうさん。どうぞ――」
と、指差したのは手前の部屋だった。
その瞬間、麻耶の中で小さな違和感が弾けた。
「……いえ、こちらではなく、奥の部屋です」
「え?こっちだって言ったじゃないか」
「いいえ、昨日、奥の部屋と確認しましたよね?」
「違うよ、手前だって言ったよ」
空気が、一気に張り詰めた。
麻耶は一瞬で理解した。――嫌な予感が現実になった、と。
「とにかく、奥の部屋です」
「だから、奥はまだ出来てないよ」
「……え?」
時間が止まった。
「まだ床も張ってないし、壁紙もこれからだよ」
大家の言葉が、やけに軽く響く。
麻耶の背中に、冷たい汗が流れた。
後ろで聞いていた入居者の妻が口を開いた。
「……どういうことですか?」
その声は、震えていた。
「申し訳ありません、すぐ確認を――」
麻耶は言葉を繋ごうとしたが、夫が一歩前に出た。
「契約、終わってますよね? 半年前から予約してたんですよ?」
怒りが、はっきりと滲んでいた。
「だから、まだ出来てないんだからどうしようもないだろう」
大家はあっさり言い放った。
その一言で、空気が完全に壊れた。
「ふざけないでください!」
夫が声を荒げる。
「引越し業者も来るんですよ!? どうするんですか!」
「知らんよ。手前って言ったんだから」
「言ってません!」
麻耶も思わず強く言い返した。
――言った、言わない。
不動産トラブルの中でも、最も泥沼になる類の争いだった。
そこへ、追い打ちのように引越し業者のトラックが到着した。さらに、ご両親らしき人物も現れる。
状況は、一瞬で「現場」から「修羅場」へ変わった。
「どういうことなんですか!?」
母親が怒鳴る。
「契約してるのに入れないって!」
「不動産屋の責任でしょう!」
今度は矛先が麻耶へ向いた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
――違う。全部私のせいじゃない。
だが、言い返したところで意味はない。
現場にいる「責任の窓口」は、自分なのだから。
麻耶は深く息を吸った。
「申し訳ありません。契約金は全額返金いたします。その上で、すぐに入居可能な物件をご案内――」
「いりません!」
父親が即座に遮った。
「こんな縁起の悪い不動産屋、信用できるか!」
その言葉は、刃物のように鋭かった。
入居者夫婦も、もはや怒りより疲労の色を浮かべていた。
「……もういいです。他を当たります」
そう言い残し、彼らは去っていった。
トラックも、静かにエンジンをかけ直し、消えていく。
残されたのは、麻耶と大家、そしてどうしようもない空気だけだった。
「だから言っただろう、手前だって」
「言ってません!」
再び口論が始まる。
だが、もう何を言っても遅い。
失われた信用は、戻らない。
やがて大家も去り、現場は静寂に包まれた。
店に戻った麻耶は、椅子に腰を下ろしたまま動けなかった。
コーヒーはすっかり冷めている。
――誰が悪い?
頭の中で、何度も問いが巡る。
大家か。自分か。それとも確認を怠ったシステムか。
だが、答えは出ない。
不動産の現場では、理屈と責任が一致しないことなど、いくらでもある。
「……はぁ」
小さく息を吐き、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
それから数日後。
別の入居者の引渡しでは、麻耶は必ず事前に現地で、施工会社、大家と、鍵を何重にも確認した。
同じミスは繰り返さない。
それが、この仕事の唯一の防御だった。
奥の部屋には、キャンセル待ちだった新たな入居者が入った。
結果として、アパートは満室になった。
だが――
あの日の夫婦の顔は、麻耶の中に残り続けていた。
理屈では割り切れない。
責任だけが、曖昧に残る。
それが、この仕事の現実だった。
〈葛城裕太再び〉
あの新築アパートの一件から数日後。
店内には、あの時の重たい空気の名残がまだわずかに漂っていた。何事もなかったかのように日常は戻っているが、麻耶の中では完全には消化しきれていない。
――あれは、防げたのか。
ふとした瞬間に、あの問いが浮かぶ。
だが、考え続けても答えは出ない。
電話が鳴った。
受付が応対し、いつものように淡々と要件を聞いている。やがて受話器が麻耶に回ってきた。
「はい、進藤です」
同業者からの物件確認だった。
「空いてます、よろしくお願いします」
簡潔に答え、内見用キーボックスの番号を伝える。こうしたやり取りは日常茶飯事だ。
かつては紙とFAXでやり取りしていたものが、今ではメールやウェブ申込が主流になっている。便利になった分、スピードも速い。判断の猶予は、昔よりも確実に短くなっていた。
約一時間後、再び電話が鳴った。
「申込入ります」
業者の声は軽い。
麻耶はすぐに申込書類をメールで送付した。
数分後、通知が届く。
単身、男性。
何気なく名前に目を落とした瞬間、指が止まった。
――見覚えがある。
画面に表示された文字を、もう一度確認する。
葛城裕太。
胸の奥が、ざわりとした。
――まさか。
以前、トラブルを起こし、退去させた人物。
そして、サバゲーの話を延々と語った、あの男。
同姓同名かもしれない。
そう思いながらも、嫌な確信があった。
麻耶はすぐに業者へ連絡を入れた。
「すみません、申込の方なんですが……本人確認できますか?」
少し間があった後、業者が答える。
「ええ、確認しました。同じ方ですね」
やはり、か。
麻耶は一瞬、言葉を失った。
「以前、御社の管理物件でトラブルがあったと聞いてますが……本人はかなりこのエリアにこだわってまして」
引かない。
その一言が、妙に重く響いた。
――またか。
麻耶は一度、深く息を吐いた。
「申し訳ありませんが、今回は審査が厳しいかもしれません」
遠回しに断りの意図を伝える。
業者も空気を察したのか、「わかりました」と応じた。
だが、それで終わらなかった。
数日後。
店のドアが開き、一人の男が入ってきた。
見間違えるはずがない。
葛城裕太だった。
「……どうも」
以前と変わらない、どこか焦点の合わない目。
麻耶の背筋に、じわりと緊張が走る。
「このエリアで探すと、ここしか出てこないんですよ」
葛城は淡々と言った。
「何とかしてもらえませんか?」
その言葉は懇願にも聞こえたが、どこか一方的でもあった。
――逃げられない。
そう直感した。
ここで曖昧に断れば、また別の形で関わる可能性もある。
それなら、管理下に置いた方がまだコントロールできる。
麻耶は覚悟を決めた。
「前回のこと、覚えてますよね?」
葛城は一瞬だけ視線を逸らし、小さく頷いた。
「今回は、近隣に迷惑をかけないこと。それが絶対条件です」
言葉を一つ一つ区切るように伝える。
「守れますか?」
少しの沈黙。
「……はい」
その返事を、どこまで信じていいのか分からない。
それでも、麻耶は審査にかけた。
結果は――通過。
家賃滞納歴はない。
保証会社も問題なし。
つまり、「数字上は問題ない人物」だった。
契約時、麻耶は通常よりも時間をかけた。
特に貸主からの解約条項。
近隣迷惑行為については、繰り返し説明した。
「ここ、重要です。守れない場合は、契約解除になります」
葛城は無言で頷き、署名した。
こうして、再び同じ人物が同じ会社の管理物件に入居するという、異例の事態が成立した。
――これが正しかったのか。
その答えは、まだ出ていない。
入居からしばらく。
意外なほど、静かだった。
クレームは入らない。
連絡もない。
――嵐の前の静けさか、それとも。
麻耶は判断を保留したまま、日々の業務に戻った。
久しぶりの休日。
麻耶は喫茶店「Ayuzoroy」を訪れた。
「いらっしゃい。久しぶりだな」
マスターの龍崎が笑う。
「ちょっと色々あって……」
麻耶は席に座り、キリマンジャロコーヒーを口に運ぶ。
香りが、張り詰めた神経を少しだけ緩めた。
龍崎が話題を振る。
「来週、スナイパートライアルだ」
「セラと黒木のペア、仕上がってるぞ」
セラこと渡辺未来、そして“ゴーストスナイパー”黒木美津子。
非日常の話が、現実の疲れを遠ざけていく。
「ラペリング訓練も順調だ」
「へー……私もやってみたいかも・・・」
「じゃあRagdollでやるか」
龍崎が笑う。
その軽やかさに、麻耶は少し救われた気がした
「その前に、試験受からないと……」
現実に引き戻される。
「賃貸不動産経営管理士、難しいな」
「YouTubeでいろんな講師がやってるぞ」
「サブリースのとこ、出るからな」
「あとはまだ歴史が浅い試験だから過去問題だけでは足りない、予想問題を解いたほうがいいぞ」
「……師匠、詳しいですね」
「俺、資格持ってるよ」
「え!?」
思わず声が出た。
龍崎は少しだけ遠くを見るような目をして、笑った。
「まあ、昔な」
それ以上は語らない。
麻耶は思った。
――この人は、どこまで引き出しを持っているんだろう。
サバゲー、不動産資格。
そして、語られない「過去」。
人は見た目では分からない。
それは、仕事でも同じだ。
葛城裕太。
彼が変わったのか、それとも変わらないのか。
まだ、何も起きていない。
だが――
麻耶の中には、消えない予感が残っていた。
筆者が体験した契約後のキャンセルでは本ケースのような出来事が一番印象に残っている。。
何十年も経った昔の出来事だが、いまだにその瞬間の場面は脳裏に焼き付いている。
そして大家は絶対的な存在であり不動産業側が損失を被ることが稀に起きる。




