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家賃滞納者との攻防

月末になると家賃の入金チェック事務処理がある。

管理物件が多ければ多いほど未入金者が出る可能性がある。

最近では家賃保証会社を介しているので減ってきたとは言え、昔ながらの契約で入居している人は未だに連帯保証人時代の人も少なからずいる。

そんな稀な入居者が家賃滞納したら、麻耶の奮闘が今日も始まる。

第六話 <家賃滞納者>


ある日の午後、お店に一本の電話が入った。

相手は、管理を任されているアパートの大家――上田だった。

「進藤さん、ちょっと困ったことがありましてね」

落ち着いた声だが、どこか疲れている。

「家賃を滞納してる人がいるんですよ。六ヶ月分です」

麻耶はメモを取りながら状況を聞いた。

入居者は二十代後半の女性。

六ヶ月前から家賃の振り込みが止まっている。

最初のうちは電話で連絡が取れたらしい。

だが最近は着信拒否されているという。

「こちらから行っても出ないんです」

上田の声には、すでに諦めの色が混じっていた。

麻耶は事情を確認するため、入居者の資料を預かった。

書類を開き、目を通す。

そこに書かれていた言葉に、麻耶は眉をひそめた。

生活保護受給者。

珍しいわけではない。

だが、滞納が六ヶ月続くというのは普通ではない。

麻耶は市役所の福祉課へ電話をかけた。

事情を説明すると、担当者は少し言いにくそうに答えた。

「実は……その方、受給停止になっているんです」

「停止?」

「はい。本人との話し合いの結果です」

話し合いという言葉の裏に、何か事情があるのは明らかだった。

担当者は少し間を置いて言った。

「あの人、ちょっと……話が通じないんですよ」

麻耶は思わず苦笑した。

それは大家も同じことを言っていた。

どうやら相当な曲者らしい。

さらに資料を読み進める。

親族関係――なし。

連帯保証人――なし。

麻耶はため息をついた。

「これは厄介だな……」

通常なら、家賃保証会社が入っている。

滞納が起きれば保証会社が立て替え、督促も任せられる。

しかしこの部屋は入居がかなり昔だった。

保証会社制度が一般的になる前の契約だったのだ。

つまり――

大家が自力で回収するしかない。

「弁護士に頼むしかないのかしら」

だがそれも簡単ではない。

内容証明を出すだけでも、弁護士法の問題が絡む。

下手に動けば業務の範囲を超えてしまう。

上田は電話でこんなことも言っていた。

「その人、ライブ配信やってるらしいですよ」

「ライブ配信?」

「なんかバズってるとかで」

麻耶は思わず眉を上げた。

家賃は払えないのに、配信は出来るのか。

世の中は不思議なものだ。

とはいえ、机の上で考えていても始まらない。

結局のところ、直接会って話すしかない。

麻耶は未納状況表を作成した。

六ヶ月分の家賃。

共益費。

遅延損害金。

きちんと表にまとめる。

そしてある日の午後、麻耶はそのアパートへ向かった。

建物は古い木造だった。

階段を上がり、問題の部屋の前に立つ。

その瞬間、麻耶は眉をひそめた。

玄関ドアの下の隙間。

そこから小さな虫が出入りしている。

一匹ではない。

何匹も。

嫌な予感がした。

麻耶は呼び鈴を押した。

ピンポーン。

反応はない。

もう一度押す。

ピンポーン。

やはり出てこない。

しかしその時、ドアの向こうからかすかな音が聞こえた。

人の気配だ。

麻耶は確信した。

――居る。

「幸栄不動産の進藤です」

ドア越しに声をかける。

「家賃の件でお話があります」

沈黙。

だが確かに中で何か動く音がする。

麻耶はもう一度言った。

「お話だけでも結構です。ドアを開けていただけませんか?」

そのとき、突然女性の声が聞こえた。

しかし内容ははっきり聞き取れない。

叫んでいるような、独り言のような声。

ドアは開かない。

完全に居留守だった。

麻耶は少し声を強くした。

「六ヶ月家賃が未納になっています」

それでも反応はない。

女性は何か叫び続けている。

だが会話にならない。

麻耶はドアポストを開けた。

そこに未納状況表を入れるつもりだった。

しかしポストの中を見て、思わず息をのんだ。

チラシ。

広告。

役所からの封筒。

公共料金の督促状。

それらがぎっしり詰まっている。

郵便物が、まるでゴミのように押し込まれていた。

これは明らかに異常だった。

「……これはダメだ」

麻耶は小さく呟いた。

ポストにはもう何も入らない。

仕方なく、未納状況表をドア枠の隙間に差し込んだ。

そして大きな声で説明した。

「家賃未納の状況を書いた書類を入れておきます!」

「必ず確認してください!」

中から何か声がする。

しかし意味はわからない。

会話にならない。

これ以上ここにいても進展はなさそうだった。

麻耶は廊下をゆっくり歩きながら思った。

――これは長引く。

ただの滞納ではない。

もっと厄介な何かがある。

階段を降りるとき、上の階から女性の叫び声がかすかに聞こえた。

何を言っているのかはわからない。

ただ、怒りのような、怯えのような声だった。

麻耶は車に乗り込み、エンジンをかけた。

バックミラーに古いアパートが映る。

六ヶ月の滞納。

保証人なし。

生活保護停止。

話の通じない入居者。

麻耶はハンドルを握りながら、静かに呟いた。

「これは……攻防戦になりそうね」

<法的処置>

麻耶は店に戻ると、すぐに大家の上田へ電話を入れた。

「進藤です。今、現地から戻りました」

「どうでした?」

上田の声は、すでに結果を覚悟しているようだった。

「部屋には居るようなんですが、ドアを開けてくれません。呼び鈴も何度も押しましたが出てこないので、滞納督促状をドアに挟んできました」

少し沈黙が流れた。

それから上田は、ため息混じりに言った。

「進藤さん……あの人の配信、一度見てくださいよ」

「配信ですか?」

「ええ。私のことを“キモい大家”って言ってるんですよ。だから家賃なんか払う気はないって、視聴者に言いふらしてるんです」

麻耶は言葉を失った。

「そんなことを……」

「近所のスーパーでも出禁になってるらしくてね。誰からも相手にされてないみたいなんです」

上田の声には、怒りというよりも疲労が滲んでいた。

「正直、ちょっと変人だと思います」

そして静かに続けた。

「どうしたらいいですかね……」

麻耶は少し考えてから答えた。

「滞納は三ヶ月を超えていますから……弁護士に相談された方がいいと思います」

「弁護士ですか」

「はい。知り合いの先生をご紹介できます」

電話の向こうで、少し安心したような声がした。

「お願いします。被害が大きくなる前に片付けたいです」

「わかりました」

麻耶は電話を切ると、頭の中で一人の弁護士の顔を思い浮かべた。

家賃滞納案件に強い弁護士だった。

通常、家賃滞納はすぐ裁判になるわけではない。

まずは話し合い。

分割払い。

支払い計画。

そうした方法で解決することも多い。

だが今回のケースは違う。

――話が通じない。

それがすべてだった。

麻耶は弁護士事務所に連絡を入れ、上田を紹介した。

不動産仲介業者に出来ることは限られている。

督促。

状況確認。

書面の作成。

それ以上踏み込めば、法律の壁にぶつかる。

弁護士の領域になるのだ。

それから一ヶ月後のことだった。

午後の店内に、上田が姿を現した。

「進藤さん」

以前より少し疲れた顔をしていた。

「どうでしたか?」

麻耶が聞くと、上田は苦笑した。

「早速、弁護士に相談しましたよ」

椅子に座りながら続ける。

「滞納家賃の支払い請求と、賃貸借契約の解約、それから部屋の明け渡し」

「裁判ですか」

「ええ。もうそれしかないって」

上田は肩を落とした。

「いやー……参りましたよ」

コーヒーを一口飲んでから続けた。

「最初はね、若い女性だし、親御さんも連絡先になってるし、生活保護受給ってことで安心してたんですよ」

「大手不動産の仲介で入れたんです」

「それは安心しますね」

麻耶はうなずいた。

「ところがですよ」

上田は苦笑した。

「その不動産会社、仲介しただけだから何も対処できませんって一点張りでね」

「親も縁を切ったので知らないと・・・」

麻耶は苦い顔をした。

「そういうものなんですか?」

上田が聞く。

麻耶は慎重に言葉を選んだ。

「そうですね……仲介業者ですし、頼みの親御さんがそれでは話にならないですね。」

契約を成立させるのが仕事。

契約後のトラブルは基本的に当事者同士。

それが不動産仲介の立場だった。

「そういうこともあるので」

麻耶は続けた。

「最近は契約時に家賃保証会社を入れるのが一般的になっています」

「保証会社……」

上田は少しうなずいた。

「なんか配信を見ると」

思い出したように言う。

「部屋がゴミ屋敷みたいになってるんですよ」

麻耶は少し眉をひそめた。

「そうなんですか」

「カメラの後ろがすごいことになってる」

上田はため息をついた。

「あれ……本人、清掃すると思います?」

麻耶は少し考えてから答えた。

「多分……難しいでしょうね」

裁判で明け渡しが決まっても、問題は終わらない。

ゴミの撤去。

部屋の修繕。

原状回復。

それらはすべて大家の負担になる可能性がある。

「裁判も時間と費用がかかりますし」

麻耶は静かに言った。

「大家さんも大変ですよね」

上田はしばらく黙っていた。

それからぽつりと聞いた。

「損害賠償とか出来るんですかね?」

麻耶は首を傾けた。

「そこは弁護士の先生とご相談された方がいいですね」

「そうですよね」

上田は小さく笑った。

「とりあえず……感じの良い弁護士を紹介してくれてありがとう」

「いえ、とんでもないです」

上田は立ち上がった。

「また状況がわかったら連絡します」

「お願いします」

店のドアが閉まる。

麻耶は椅子に座ったまま、しばらく考え込んだ。

家賃滞納。

それ自体は珍しくない。

だが最近は少し様子が変わってきている。

SNS。

ライブ配信。

ネット上のコミュニティ。

現実とネットの境界が曖昧になっている。

配信の中では英雄。

だが現実では家賃滞納者。

麻耶はパソコンを開き、ふと思った。

――その配信、少し見てみようか。

画面に配信サイトを表示する。

検索欄に、大家から聞いた名前を入力した。

そして表示されたサムネイルを見た瞬間、麻耶は小さく眉をひそめた。

画面の中の女性は、笑いながらこう言っていた。

「大家なんか、マジでキモいんだよね」

コメント欄が流れる。

笑いの絵文字。

煽る言葉。

面白がる視聴者。

麻耶は静かに画面を閉じた。

そして、ぽつりと呟いた。

「これは……長い戦いになるかもしれないわね」

<喫茶店Ayuzoroy>

麻耶は今年、ある資格試験に挑戦していた。

賃貸不動産経営管理士、通称「賃管士」である。

管理物件を扱う不動産会社にとって、今や重要な資格の一つだ。

そのため麻耶は、ここ最近の週末をほとんど勉強に費やしていた。

その影響で、趣味のサバゲーに行く機会はめっきり減っていた。

ある日曜日の午後。

久しぶりに気分転換をしようと、麻耶はいつもの喫茶店へ立ち寄った。

店の看板には、少し洒落た文字でこう書かれている。

喫茶店 Ayuzoroy

ドアを開けると、コーヒーの香ばしい香りがふわりと広がった。

「いらっしゃい。久しぶりだな」

カウンターの奥から、マスターの龍崎が笑顔で声をかけてきた。

「資格の勉強はどうだ、進んでる?」

麻耶はカウンター席に座りながら苦笑した。

「なかなか頭に入らなくて……苦戦してますよ」

「そうか」

龍崎は楽しそうに笑った。

「何にする?」

「エビピラフとコーヒーお願いします」

「了解」

龍崎はすぐに調理に取りかかった。

手際の良いフライパンの音が店内に響く。

麻耶は、先に出されたコーヒーを一口飲んだ。

深い香りが口の中に広がる。

キリマンジャロだ。

久しぶりに感じる、静かな時間だった。

その時だった。

カラン——

ドアベルが鳴る。

「師匠!フルーツスムージーお願い!」

元気な声が店内に響いた。

麻耶は振り向いた。

「……あー、オセロット!久しぶり〜」

入ってきたのは、岩見凛だった。

オセロット——

それは麻耶のサバゲーでのコードネームだった。

「リンクス、今日はサバゲー?」

麻耶が聞くと、凛は肩を落とした。

「やっぱ一人参加だと盛り上がらないよー」

ストローをくるくる回しながら言う。

「早くまた四人でやりたいな」

麻耶は少し申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね。試験が終わったら参加するから」

「それまではバーマンとセラで楽しんで」

すると凛は首を振った。

「それがさ」

少し寂しそうな顔をする。

「バーマンはボウリングの公式戦で忙しいし」

「セラはスナイパートライアルに向けて訓練中なんだ」

「だから今、チームがほぼ活動停止」

麻耶は驚いた。

「そうなの?」

凛はうなずいた。

「まだ言ってなかったね」

「セラ、ゴーストスナイパーって呼ばれてる人とペア組んで大会出るんだ」

「へー……」

麻耶は少し興味を持った。

「ゴーストスナイパー?」

龍崎が横から説明した。

「女性スナイパーだよ」

麻耶は感心した。

「そんな人いるんだ」

少し会話が落ち着いたところで、麻耶はふと思い出したことを口にした。

「ところでさ」

凛の方を見る。

「ライブ配信者で吉田香苗って知ってる?」

「なんか“配信の女王様”とか言ってる女性」

凛はすぐに反応した。

「あー、知ってる」

ストローを止める。

「最近急にバズったゴミ屋敷の女性でしょ?」

「他の配信者ともすぐ喧嘩腰になるから、僕はああいうの相手にしないけど」

麻耶は小さくうなずいた。

やはり、知名度はあるらしい。

「急にどうして?」

凛が聞く。

麻耶は少し肩をすくめた。

「実はその女性が、うちの物件に住んでるのよ」

「家賃滞納で問題になっててね」

凛は少し驚いた顔をした。

「ああ……」

「人の話聞かないで、自分の屁理屈押し付けるタイプだよ」

「まともじゃない」

凛は自分の知っている範囲で説明した。

その時だった。

「はい、エビピラフお待ちどうさま」

龍崎が皿を置いた。

湯気の立つエビピラフ。

香ばしい匂いが広がる。

凛はそれを見るなり目を輝かせた。

「うわ、美味しそう」

「僕にも!」

すると龍崎は、まるでそれを予測していたかのようにもう一皿差し出した。

「ほら」

「え?」

凛が驚く。

「師匠、さすが!」

店内に笑いが広がった。

しばらくして龍崎が麻耶に聞いた。

「家賃滞納か」

コーヒーカップを拭きながら言う。

「明渡し訴訟やるのか?」

麻耶はうなずいた。

「知り合いの弁護士を大家さんに紹介したから」

「多分その方向になると思う」

龍崎は腕を組んだ。

「家主業もリスクあるよな」

麻耶は苦笑した。

「ほんとですよ」

凛も言った。

「ネット配信者とか、何考えてるかわからないし」

店の窓から午後の光が差し込んでいた。

龍崎がぼそっと言った。

「まあ……」

少し笑う。

「楽な仕事なんて、無いか」

麻耶はコーヒーを一口飲んだ。

その言葉に、静かにうなずいた。

<家賃滞納者との攻防>

数日後、大家の上田から再び電話が入った。

「進藤さん、裁判の件なんですがね」

声は以前より少し落ち着いていた。

「弁護士の先生に聞いたら、やっぱり裁判までは時間がかかるそうです」

麻耶はメモを取りながら聞いた。

「ただですね」

上田は続けた。

「入居者が配信で色々しゃべってるらしくて」

「配信?」

「ええ。自分で“収入はあるけど払う気はない”って暴露してるんですよ」

麻耶は眉をひそめた。

「それは……」

「弁護士の先生が言うには、悪質と判断してもらえる可能性が高いそうです」

「裁判では有利になるかもしれないって」

それは確かに材料にはなる。

だが問題は別のところにあった。

「それがですね」

上田は疲れたように言った。

「配信のせいでアパートの場所がバレちゃったんですよ」

「場所が?」

「ええ。外観が映ったみたいで」

嫌な予感がした。

「他の配信者がね、現地から配信してるんです」

麻耶は思わず言葉を失った。

「……それは迷惑ですね」

「迷惑どころじゃないですよ」

上田はため息をついた。

「夜になると、アパートの前でスマホ構えてる人がいるんです」

「近所の人からも言われました」

麻耶は額に手を当てた。

事態は、思っていた以上に拡大していた。

その日の夜、麻耶は自宅でパソコンを開いた。

少し迷ったが、問題の配信を見てみることにした。

検索するとすぐに見つかった。

視聴数はすでに数千人。

配信を開く。

画面には部屋の中が映っていた。

麻耶は思わず息をのんだ。

床にゴミ袋。

コンビニの容器。

ペットボトル。

洗っていない食器。

それらが部屋のあちこちに積み上がっている。

画面の端では、小さな虫が動いているのが見えた。

入居者の女性はその前に座り、平然と話していた。

「私、潔癖症なんですよ」

笑いながら言う。

「触る物は全部アルコール消毒してるので大丈夫」

麻耶は思わず画面を凝視した。

部屋の状況と、言葉が全く一致していない。

そのギャップが面白いのか、視聴数はみるみる増えていく。

五千人。

七千人。

一万人。

コメント欄はすでに荒れていた。

「これマジで住んでるの?」

「虫いるじゃん」

「大家かわいそう」

「不動産屋は何してるの?」

「大家さん頑張れ」

画面の中では女性が笑っている。

炎上配信だった。

視聴者は増え続け、コメントはさらに過激になる。

「場所特定した」

「今から行く」

「現地配信する」

麻耶は慌てて配信画面を閉じた。

これは完全に悪い方向に進んでいる。

配信はエンターテインメントとして消費される。

だがそこには実際に生活している人間がいる。

他の入居者だ。

静かに暮らしている住人たちがいる。

麻耶は頭を抱えた。

「これは……まずい」

何か手を打たないといけない。

次の日、麻耶はアパートへ向かった。

建物の前には、見慣れない若い男がスマホを持って立っていた。

明らかに配信者だ。

麻耶は近づいて声をかけた。

「ここ、住居ですので撮影は控えてください」

男は少し驚いた顔をしたが、すぐに立ち去った。

だがこれで終わるとは思えない。

麻耶は入口の掲示板に紙を貼った。

部外者立入禁止

当アパートは居住者専用です

無断撮影・配信は禁止します

簡単な貼り紙だったが、やらないよりはましだった。

本当は、入居者に直接文句を言いたい。

「配信をやめてください」

そう言いたい。

だがそれは出来ない。

すでに弁護士が入っている。

下手に刺激すれば、裁判に影響する可能性もある。

麻耶はアパートの前に立ち、二階の問題の部屋を見上げた。

カーテンは閉まったままだ。

だがその向こうでは、今日も配信が続いているのかもしれない。

視聴者は笑い、コメントを打ち、炎上を楽しんでいる。

だがその裏で、大家は損害を抱え、他の入居者は迷惑を受けている。

麻耶は小さく息を吐いた。

「……長い戦いになりそうね」



<更なる未納者発覚>

吉田香苗との決着は、まだ先になりそうだった。

裁判の準備は弁護士が進めているが、法的手続きというものはどうしても時間がかかる。麻耶はその間も、通常の管理業務を止めるわけにはいかなかった。

ある日の午後、麻耶は事務所のデスクで月次の家賃入金チェックをしていた。

銀行で記帳してきたデータをもとに、管理ソフトに一件ずつ入力していく。入居者ごとの入金を照合し、未入金があれば印をつける。単純な作業だが、世帯数が増えるほど確認の目も慎重になる。

画面をスクロールしていた麻耶の指が止まった。

「……あれ?」

一件、入金がない。

見間違いかと思い、もう一度通帳データと照合する。だがやはり振り込みは確認できない。

麻耶は入居者の名前を見た。

これまで一度も滞納したことのない人物だった。むしろ几帳面なくらいで、毎月きっちり同じ日に入金されている。

こういう人が滞納するのは珍しい。

何か事情があるのだろうか。

麻耶はすぐに督促状を作成した。形式としては簡単なものだが、入金が確認できない旨と連絡のお願いを記した書面だ。

封筒に入れ、車の鍵を手に取る。

「ちょっと管理物件行ってきます」

受付に声をかけて、麻耶は店を出た。

アパートは店から車で十五分ほどの場所にある。郊外の静かな住宅地で、築年数はそこそこだが管理は行き届いている。

駐車場に車を止め、麻耶は該当の部屋の前に立った。

ドアの前で呼鈴を押す。

ピンポーン。

静かな廊下に音が響く。

だが反応はない。

もう一度押す。

ピンポーン。

やはり返事はない。

ただ、妙な違和感があった。

呼鈴の音が、やけに空しく反響する。

家具や生活音が吸収するような響きではなく、どこか空洞に近い反射音だった。

麻耶はドアの前で耳を澄ませた。

室内から生活音は聞こえない。

テレビの音も、エアコンの風も、足音も。

何もない。

「……?」

次に麻耶は建物の横に回り、キッチン側の窓を見た。

曇りガラス越しに、室内の輪郭がうっすら見える。

だがそこにも違和感があった。

妙にスッキリしている。

普通なら冷蔵庫や棚の影が見えるはずだが、そうした気配がない。

まるで空っぽの部屋のようだった。

麻耶は電気メーターを確認した。

針は動いていない。

電気を使っている様子がない。

その瞬間、ある言葉が頭に浮かんだ。

「……夜逃げ?」

急に退去する人は珍しくない。だが、事前連絡もなく荷物もなく消えるのは典型的なパターンだった。

麻耶はすぐ車に戻り、店へ引き返した。

事務所に戻ると、入居申込書のファイルを引っ張り出す。連絡先の電話番号を確認し、すぐに発信した。

数回の呼び出し音のあと、相手が出た。

「もしもし」

落ち着いた女性の声だった。

「幸栄不動産の進藤と申します。○○アパートの件でお電話しました」

「はい」

相手はあっさり答えた。

「仕事辞めたので、月末で引っ越しました」

あまりにあっさりした言い方だった。

麻耶は一瞬言葉を失い、それから落ち着いて話した。

「退去のご連絡はいただいていませんでしたが」

「急だったんで」

軽い調子の返事だった。

麻耶は書類を確認しながら続けた。

「賃貸借契約では、退去予告は一カ月前となっています」

「ですので、急な退去の場合でもその期間の賃料は発生します」

電話の向こうで、少し間があった。

だが相手の声は相変わらず軽かった。

「もう住んでないし、荷物もないですよ」

「掃除もしましたし」

そして続けた。

「敷金で精算してください」

麻耶は静かに答えた。

「敷金は、賃料の代わりに自動的に充当するものではありません」

「精算は貸主の判断になります」

だが相手はそれ以上聞く気がないようだった。

「ああ、じゃそれで」

そしてあっさり言った。

「もう地方に帰ってるんで」

ガチャン。

電話は切れた。

麻耶は受話器をしばらく見つめた。

結果として、敷金から差し引く形で相殺になる可能性はある。

だが法律上、賃借人が一方的に「敷金で家賃を払う」ということはできない。敷金はあくまで貸主が清算に使うための預り金だ。

今回は連絡がついただけまだましだ。

だが相手は地方へ帰郷したらしい。

住所もはっきりしない。

電話が通じても、本人が支払いに応じなければ強制力はない。

麻耶は大家に電話した。

事情を説明すると、大家さんは少し考えてから言った。

「敷金の範囲で精算しましょう」

「それ以上追いかけても難しいでしょうから」

麻耶も同意した。

「わかりました。そう処理しておきます」

電話を切ったあと、麻耶は椅子にもたれた。

賃貸管理の仕事では、こうした出来事は決して珍しくない。

だが未納賃料というものは、小さなサインでもある。

そこから夜逃げ、トラブル、時には事件に発展することもある。

だからこそ、早い対応が重要だ。

麻耶は管理データを更新しながら、改めて思った。

未納賃料が発生したとき――

それは単なる入金ミスではなく、何かが始まる前触れかもしれないのだ。


家賃未納の督促業務、賃貸業では生産性の無い業務であり、時間と未納者との攻防でメンタルが消耗する業務である。

そして払う意思はあっても無いものは無いのである。

筆者は業務当時の対策として、未納賃料支払計画書を未納者に提案し支払を誘導することが多かった。

自主性に任せたのでは大概が支払不能になる。それで完済してくれれば良いほうだった。

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