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退去立会業務

賃貸管理で頻繁にある退去立会の話し。

時には事故物件になるケースもある。

そんなある退去立会に麻耶は心痛める。

第五話 <伏せられた事実>


事故物件という言葉が、まだ今ほど明確に定義されていなかった頃の話である。

告知義務という概念はあったが、どこまでを伝えるべきかは曖昧で、現場の判断に委ねられる部分も多かった。

その日も、幸栄不動産の店内にはゆったりとした空気が流れていた。

昼下がりの時間帯、来店客もなく、書類整理の音だけが小さく響いている。

その静けさを破るように、電話が鳴った。

麻耶は受話器を取る。

「はい、幸栄不動産です。進藤が承ります」

受話器の向こうから、少し緊張した男性の声が聞こえた。

「突然すみません。✖✖ハイツに入居している者の親なんですが……息子と連絡が取れないんです。様子を見てもらうことは出来ませんか」

麻耶は一瞬言葉を選んだ。

こういう電話は、決して珍しくない。

大学生や若い社会人の一人暮らしでは、親と数日連絡を取らないことなどよくある。

「夏休みの時期ですし、ご旅行などではありませんか?」

そう尋ねると、相手はすぐに首を振るような口調で答えた。

「いえ、息子はそういう時は必ず連絡をくれる子なんです。今回は何も聞いていないんです。どうしても心配で……」

声の奥に、説明のつかない不安が滲んでいた。

麻耶は少し考えたあと、答えた。

「わかりました。近くですので、一度様子を見てきます」

受話器を置くと、車の鍵を手に取った。

入居者の安否確認は、不動産業では時々ある。

大半は拍子抜けするような結果に終わる。

――旅行だった。

――友達の家に泊まっていた。

――単に寝ていただけ。

そんなケースがほとんどだ。

麻耶は車を走らせながら、今回もきっとそうだろうと思っていた。

✖✖ハイツは築十数年の小さなアパートだった。

周囲は静かな住宅街で、昼間はほとんど人の気配がない。

麻耶は階段を上がり、問題の部屋の前に立つ。

呼び鈴を押す。

ピンポーン。

返事はない。

もう一度押す。

やはり反応はない。

麻耶はドアを軽くノックした。

「幸栄不動産です。ご在宅ですか?」

静寂だけが返ってくる。

ドアポストを開けて中を覗く。

暗い廊下が少し見えるだけで、人の気配は感じられない。

変わった匂いもない。

腐敗臭のようなものも感じない。

麻耶は建物の裏側に回った。

窓にはシャッターが降りたままだった。

特に異変はない。

少なくとも、外から見える範囲では。

ただ、この物件は管理物件ではなかった。

つまり、幸栄不動産にスペアキーはない。

出来る確認は、ここまでだった。

麻耶は店へ戻り、親へ電話をかけた。

「お部屋の前まで確認しましたが、特に異変はありませんでした。お留守の可能性が高いと思います」

電話の向こうで、親は少しだけ安心したようだった。

だが、その声にはまだ迷いが残っていた。

「そうですか……ありがとうございます」

それから二日後のことだった。

店のドアが開き、見慣れない年配の男性が入ってきた。

麻耶はすぐにわかった。

電話の主だ。

男性の顔は疲れ切っていた。

「先日お電話した父親です」

静かに言った。

麻耶は胸の奥で、嫌な予感が膨らむのを感じた。

「実は……あの後、どうしても気になって夜にこちらまで来たんです」

父親はゆっくり続けた。

「合鍵で部屋を開けました……息子が倒れていたので救急車を呼びました」

言葉が途切れる。

麻耶は何も言えなかった。

「残念ながら……息子は亡くなっていました」

店内の空気が、重く沈んだ。

死因は突然死だったという。

病気でもなく、事件でもない。

ただ、静かに命が尽きていた。

麻耶の胸に、鈍い痛みが走った。

――あの時、鍵があったら。

そう思わずにはいられない。

もし中に入れていたら。

もっと早く発見できていたかもしれない。

しかし、すぐにその考えを振り払った。

管理物件ではない。

鍵もない。

法律的にも、出来ることは限られていた。

考えても仕方ない。

そう自分に言い聞かせた。

その後、部屋の片付けや退去手続きが進んだ。

数週間後、大家からリフォームの依頼が入った。

麻耶はいつもの業者に連絡した。

岩谷インテリア。

通称「ブルさん」と呼ばれる男の会社だ。

ブルさんは現場を見るなり、部屋の空気を一度吸い込んだ。

そして麻耶に言った。

「麻耶ちゃん……これ、何かあった部屋だよね」

麻耶は驚いた。

「言わなくてもわかります?」

ブルさんは苦笑した。

「長年この仕事やってるとね、空気でわかるんだよ」

壁紙を触り、床を見回す。

「いつもより少し高めになるよ」

「管理物件じゃないので、大家さんの了承次第です」

「見積りは後で持っていくよ」

数日後、見積りを見た大家はあっさり言った。

「親御さんに払ってもらうから大丈夫よ」

まるで何でもない話のようだった。

麻耶は複雑な気持ちになった。

確かに金額は特別高いわけではない。

問題になるほどではない。

それでも、心のどこかが痛んだ。

親は息子を亡くし、その上で部屋の修繕費まで払う。

それが現実だった。

不動産の世界では、こういう出来事は珍しくない。

岩谷インテリアは昔からこの店と関係が深かった。

かつて賃貸営業で活躍した若者が、ブルさんと組んで多くのリフォーム案件を回していた。

その縁は、今も続いている。

値段は少し高い。

それが業界の評判でもあった。

だが、緊急時には頼りになる。

人柄も悪くない。

だからこそ、今も付き合いが続いているのだった。

リフォームは予定通り進んだ。

壁紙が張り替えられ、床が磨かれ、部屋は新しい空気をまとった。

まるで何もなかったかのように。

それが、この仕事の不思議なところだった。

部屋は、すぐに次の入居者を待つ場所になる。

人が住み、暮らし、そしてまた去っていく。

その中で起きた出来事の多くは、静かに消えていく。

麻耶はリフォームの終わった部屋を見ながら、ふと思った。

――ここで、誰かが人生を終えた。

それを知っている人間は、ほんのわずかだ。

そしてそれは、いずれ誰にも語られなくなる。

事故物件。

その言葉の裏には、こうした小さな現実がいくつも積み重なっている。

麻耶は静かにドアを閉めた。

そして、次の仕事へ向かうため車のエンジンをかけた。


<現代、退去立会>

退去立会の時間だった。

麻耶は車をアパートの前に停め、書類の入ったクリアファイルを手に建物へ向かった。

夏の終わりの午後、空気はまだ重く湿っている。廊下のコンクリートには昼の熱が残り、足元からじんわりと温度が伝わってきた。

二階の廊下を歩き、目的の部屋の前に立つ。

呼び鈴を押す。

ピンポーン。

少ししてドアが開き、三十代くらいの男性が顔を出した。

短く刈った髪、日に焼けた肌。どこかアウトドアの匂いがする雰囲気だった。

「お願いします」

男性は軽く頭を下げた。

「まだ最後の荷物が残ってますけど……」

「構いませんよ」

麻耶はそう言って玄関に入った。

七年入居していた部屋にしては、思ったよりも整っていた。

床は大きな傷もなく、生活感はあるものの散らかっている感じはない。

「きれいに使っていただいてたんですね」

麻耶は言いながらチェックシートを取り出した。

まずは水回りから。

風呂場、トイレ、キッチン。

蛇口の水漏れ、カビの状態、排水の詰まり。

ひとつひとつ確認していく。

特に問題はなさそうだった。

「水回りは大丈夫ですね」

次に居室へ入る。

そこで麻耶の目が止まった。

部屋の隅に置かれた大きなケース。

その横には軍用のような大型リュック。

ガンケース。

そしてアリスパックだった。

「サバゲやるんですか?」

麻耶が何気なく聞くと、男性は少し驚いた顔をした。

「サバゲ知ってるんですか?」

「ええ、まあ……一時は流行りましたからね。フィールドの契約したことありますよ」

「ほんとですか?」

男性の目が少し明るくなる。

「ハンバーガーヒルってフィールドなんですけど」

「あ、行きましたよ」

男性はすぐに答えた。

「ベトナム戦争を再現したフィールドですよね。ジャングルみたいな場所で」

「そうそう」

麻耶は少し笑った。

不動産の仕事をしていると、いろんな人の趣味に出会う。

サバゲもその一つだった。

麻耶は部屋を見回しながらチェックを続ける。

そのとき、壁の一箇所に目が止まった。

小さな凹み。

拳ほどの穴だった。

「この壁、穴が空いてますね」

男性は少し気まずそうに頭をかいた。

「ああ……それ」

「これは精算対象になりますね」

「隣の声が夜中にうるさくて……」

男性は少し言いにくそうに続けた。

「ついカッとなって叩いたんです」

麻耶はうなずいた。

集合住宅ではよくある話だった。

「どうにかなりませんか?」

男性が聞く。

麻耶は少し考えた。

「火災保険の借家人賠償使いますか?」

「使えるんですか?」

「使える可能性あります。負担は減りますよ」

男性は少し安心した顔をした。

麻耶はさらに壁紙を確認する。

クロスはやや日焼けしているが、大きな汚れはない。

「クロスは七年ですからね」

チェックシートを見ながら言う。

「六年を過ぎてるので経年劣化扱いになります。貸主負担ですね」

男性は驚いたようだった。

「そうなんですか」

「はい。ですので今回の費用は……」

麻耶は計算しながら言った。

「清掃代だけですね」

「それだけでいいんですか?」

「敷金から差し引いて……少しですが返金が出ますよ」

男性はほっとしたように息を吐いた。

「それは助かる」

麻耶は書類を差し出した。

「こちらに引越し先の連絡先を記入してください。それから精算内容の確認署名をお願いします」

男性はペンを持ったが、少し困った顔をした。

「実は……引越し先が海外で」

麻耶は顔を上げた。

「あら、海外」

「どちらへ?」

男性は肩をすくめた。

「それが、まだ未定なんですよ」

「未定?」

「ええ」

少し笑う。

「バックパッカーみたいな感じです」

麻耶は一瞬だけ手を止めた。

「そうなんですね」

「まー、仕事っていうか……」

男性は言葉を探した。

「旅ですね」

「御実家とかは?」

念のため聞く。

男性は首を横に振った。

「両親はいないです」

少し間があった。

「親戚も……疎遠というか、いないですね」

麻耶はゆっくりうなずいた。

「そうですか」

不動産の仕事をしていると、こういう人にも時々出会う。

帰る場所のない人。

住所はあるが、拠点はない人。

「では仕方ないですね」

麻耶は書類に目を落とした。

「特別な精算や連絡は多分ないと思います」

男性は書類に署名した。

その横で、ガンケースが静かに置かれている。

サバゲーマー。

ふと、麻耶の頭にある噂がよぎった。

サバゲーマーが山で消えたとか。

外国へ行ったまま帰らないとか。

都市伝説のような話。

——いや。

麻耶は小さく首を振った。

単なる噂だ。

男性は立ち上がり、部屋を見回した。

七年間住んだ部屋。

壁も、床も、窓も。

それから麻耶に向かって、軽く一礼した。

「どうもお世話になりました」

麻耶も小さく頭を下げた。

「こちらこそ」

鍵を受け取る。

小さな金属音が手の中で鳴る。

退去立会は、それで終わりだった。

麻耶は書類を確認し、部屋を出た。

廊下に出ると、夕方の風が少しだけ涼しかった。

階段を降りながら、ふと思う。

あの男は、本当に旅に出るのだろうか。

それとも——

考えかけて、やめた。

この仕事では、人の人生の一部にだけ関わる。

始まりと終わり。

それだけだ。

麻耶は車に乗り込み、エンジンをかけた。

アパートの二階の窓が、夕日に赤く染まっていた。


立会で問題になるのは退去費用の精算だ。国土交通省のガイドラインが定まってからはあまりトラブルは見かけなくなったが、未だに一部では不当と思われる請求をする業者がいる。

麻耶の立会では大概はスムーズに手続きが行われる。

そんな中、退去立会からある疑問が麻耶の頭をよぎった失踪疑惑。

うわさの実態とは・・・

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