契約外の住人
今日も新たなクレームが起きる。
入居者で賃貸不動産に詳しい人はそうそういないだけに、起きるはずの無いことが普通に起きる。
そして理不尽な扱いを受けたと思われお店の悪評だけが流れる。
第四話<契約外の住人>
ある日の午前、店内は驚くほど静かだった。
窓から差し込む光がカウンターの上に四角く落ち、受付のパソコンのファンの音だけが小さく回っている。
来店客もなく、問い合わせもない。こんな日もある。
麻耶は管理台帳を整理しながら、珍しく穏やかな時間の流れを味わっていた。
その時、電話が鳴った。
受付の女性が出る。
「はい、幸栄不動産でございます」
少し間があり、声色が変わる。
何やら揉めているようだ。
受付が受話器を押さえ、麻耶を見る。
「進藤さん、管理物件の件で…ちょっと強い口調の方で」
麻耶は受話器を受け取った。
「お電話代わりました、進藤です」
「あの、私、部屋の鍵をなくしたみたいで、部屋に入れないんです!」
若い女性の声。焦りと苛立ちが混じっている。
「どちらのアパートでしょうか?」
「✖✖✖の205号です」
麻耶は一瞬考える。
205号――田中。
「205号は田中さんのお部屋ですが、おたく様はどちら様ですか?」
「私は村岡です。田中さんから部屋を借りてるんです」
麻耶の背筋に冷たいものが走る。
転貸借。
「当社は田中さんと賃貸借契約を結んでおります。村岡様とは契約関係がありません。田中さんにご連絡を取っていただけますか?」
間髪入れず怒鳴り声が返る。
「だからその田中が電話に出ないって言ってるでしょう!?部屋に入れないのよ!開けてくれればいいだけじゃない!」
電話を通して空気がぴんと張る。
麻耶は声のトーンを落とした。
「申し訳ありませんが、契約者ご本人様以外のご依頼で鍵を開けることはできません」
「私が住んでるのよ!意味わかる?」
「理解はしますが、契約上対応できません」
沈黙のあと、さらに強い声。
「じゃあ鍵屋呼んで開けてもらうわ!」
ガチャン。
通話は切れた。
麻耶はゆっくり受話器を置いた。
転貸借か。
田中は生活保護受給者だったはずだ。
書棚から申込書ファイルを引き抜く。
紙の擦れる音がやけに大きい。
田中――無職、生活保護。
緊急連絡先なし。
連帯保証人はNPO法人。
身寄りなし。
勝手に第三者へ又貸し。
規約違反。
だが今の問題はそこではない。
鍵を開ければ、管理会社の責任になる。
開けなければ、外に締め出された女性がいる。
だが、誰かを名乗れば部屋を開ける会社だと思われたら?
最悪を想定するのが管理の仕事だ。
もしDV加害者だったら。
もし不法侵入者だったら。
もし金銭トラブルだったら。
“住んでいる”という自己申告だけでは足りない。
麻耶は田中の携帯番号にかける。
コールは鳴るが出ない。
留守番電話。
嫌な予感が膨らむ。
――どこにいる?
夜逃げか。
失踪か。
それとも意図的か。
それから二時間。
店は静かなままだった。
来客もない。
電話も鳴らない。
さきほどの怒鳴り声が嘘のように、空気は穏やかだ。
だが麻耶の中は穏やかではない。
今頃、村岡は本当に鍵屋を呼んだだろうか。
無断で開錠すれば、器物破損の問題。
田中が帰ってきて騒げば、さらに揉める。
管理会社は“知らなかった”では済まない。
時計を見る。
二時間前の出来事が、妙に遠く感じる。
平穏というものは、いつも表面だけだ。
書類の山の下に、誰かの生活がある。
契約書の裏に、人間関係の歪みがある。
麻耶はもう一度、田中の書類を見る。
生活保護。
身寄りなし。
保証はNPO。
そして、行方不明。
小さな違和感が胸に残る。
これは単なる転貸借トラブルで終わるのか。
それとも、もっと厄介な問題の始まりか。
店内は静かだ。
だが麻耶の頭の中では、次の展開の可能性がいくつも浮かび、消えていった。
店内の空気が、再び震えた。
電話が鳴る。
麻耶は直感した。
――さっきの件だ。
受付が短いやり取りのあと、無言で受話器を差し出す。
目で「強いです」と訴えている。
「はい、進藤です」
「あなたね!何で鍵を開けてくれないの!」
先ほどの若い声とは違う。
低く、怒気を含んだ中年女性の声。
「どちら様でしょうか」
「村岡の母親よ!」
なるほど、と麻耶は内心で息を吐く。
「先ほども村岡様にご説明しました通り、契約者である田中様以外に鍵をお貸しすることはできません」
「私は母親よ!娘が困っているのに、このわからずや!」
受話器越しに机を叩くような音が響く。
「おたくの店はどこなの!取りに行くわ!」
「お越しいただいてもお貸しできません」
事務的に、淡々と。
感情に引きずられたら負けだ。
「そんなら警察を呼んでやるわ!」
ガチャン。
電話は切れた。
店内は静まり返る。
受付が小声で言う。
「すごい剣幕ですね…」
麻耶は苦笑した。
「親子ね」
怒りの質が似ている。
だが怒鳴られても、答えは変わらない。
鍵は契約者のもの。
管理会社は“貸主の代理人”であって、第三者の味方ではない。
ふと、ある記憶が蘇る。
――205号だけ、設備入替えが出来なかった。
半年前のことだ。
エアコンの一括更新工事。
だが205号だけ業者が首を横に振った。
「ゴミ屋敷で作業できません」
写真を見せられた。
床が見えない。
弁当容器と衣類の山。
田中とは連絡がつかなかった。
それが半年前。
ということは――
長期で本人は住んでいない可能性。
だが家賃は毎月、市の福祉課から振り込まれている。
保護費は滞りなく入金。
数字は整っている。
だが部屋の中は整っていない。
二日後、再び電話が鳴った。
「村岡です」
声は疲れていた。
「やっと田中と連絡がついて、鍵を開けてもらいました」
「そうですか」
「母が鍵屋や警察に怒鳴り込んだんですけど、どこも相手にしてくれなくて」
苦笑混じりの声。
「二日間、外で待つ羽目になりました」
二日間。
野宿。
麻耶は一瞬言葉を失う。
――なぜ母親は自宅に連れて帰らなかった?
親子で怒鳴るエネルギーはあるのに、受け入れる余裕はないのか。
家庭の事情は分からない。
だが違和感は残る。
「いずれにせよ、契約上の問題がありますので、田中様ときちんと話し合ってください」
電話を切ったあと、妙な静けさが残った。
一週間後。
今度は市役所の福祉課から電話が入る。
「田中さん、現在も入居されていますか?」
来た、と思った。
麻耶は正直に話した。
転貸借の疑い。
鍵トラブル。
部屋のゴミ問題。
電話の向こうで、担当者が深く息をつくのが分かる。
「確認します」
これで市が動くだろう。
生活保護受給者の無断転貸。
問題は小さくない。
田中はどうなるのか。
保護停止か。
指導か。
数日後、田中本人から電話が来た。
「いやーすみません」
妙に明るい声。
「同じ仕事仲間の女性を一時的に住まわせてたら、部屋がゴミ屋敷になっちゃって。市役所から怒られるし、部屋は汚いし参ったよー」
他人事のようだ。
麻耶は声を低くする。
「田中さん、転貸借は禁止事項です。しかも生活保護受給者ですよね」
「あー、悪気はなかったんですよ」
「悪気の問題ではありません」
一瞬、沈黙。
「大家さんも怒っていましたよ。一括でやるはずの設備工事が単発になれば費用が高くつきます」
「片付けます、片付けます」
軽い。
その軽さが、全てを物語る。
今回の件は、悪質な転貸ビジネスではなかった。
だが、規約違反は規約違反。
発覚のきっかけは、転借人が鍵をなくしたこと。
もし鍵を失くさなければ、
もし母親が怒鳴らなければ、
もし福祉課から問い合わせがなければ。
転貸は続いていたかもしれない。
管理とは、偶然で露見する不整合を拾い上げる仕事だ。
店内はまた静かになる。
午前ののんびりした空気は戻らない。
書類の山の向こうに、
人のだらしなさと、
家族の歪みと、
制度の穴が透けて見える。
麻耶は深く息を吐いた。
平穏に見える一室にも、
扉の向こうには、いくつもの綻びが隠れている。
電話はまた鳴るだろう。
そのたびに、
契約書と現実の間を、
行き来し続けるのだ。
麻耶は今年後半にある賃貸不動産経営管理士試験を受験しようと取り組み出していた。
これは賃貸管理物件が200世帯以上扱う際にこの資格が無いと新たな管理契約が出来ないからだ。
宅建士のような人気資格ではないが、持っていて損はない。むしろ持っているほうが大家さんの相談にも乗れるので有利である。
自宅に帰り一日2時間、休日はほぼ勉強時間に充てていた。
そのせいでRagdollの活動は暫くお休みしている。
理不尽であればあるほどのクレームを対処した後は無性にエアガンを撃ちたくなる衝動が起きる。
そういう時は愛銃のサブマシンガンMP5のHKスラップしたり、空撃ちをして気分を紛らわせていた。
来年には新たな大会が始まるというウワサがあった。
またRagdollが始動するのは暫く先になるだろう。
麻耶はキリマンジャロブレンドを一口飲み、机にむかった。
世間的には華々しいと想像される不動産業、決して気楽なわけではない日々。
進藤麻耶はそれでも賃貸業が好きだ、それは多くの入居者との交流から生まれる新たな発見があるからだ。
次はどんな理不尽が待ち受けるのか。そんな中、麻耶は新たな資格試験に臨む。




