ある日のクレームから一ヶ月近い奮闘の末、理不尽な結末へ
あらたなクレームに奮闘する麻耶。
大概のクレームは理不尽なことが多い、そしてお金にならない仕事がほとんどだ。
如何に最小限で最大の結果を出すか、正解のない現実に向き合う日常。
第三話<怖いおばさん>
ある日、管理物件の隣家から電話が入った。
「敷地の境界付近に段ボールの小屋みたいなのが出来てるの。誰か住んでるみたいで怖いから見に来てちょうだい」
その声は怯えよりも怒りに近かった。
麻耶は胸の奥がざらつくのを感じながら現場へ向かった。
境界付近――その曖昧な言い方が嫌だった。
責任の所在が滲む。
現場に着くと、雑草の陰に段ボールの塊があった。
ブルーシートが屋根代わりにかけられ、ガムテープで補強されている。
近づく。
生活臭はない。
焚き火の跡もない。
だが内部にはペットボトル、スナック菓子の袋、古い雑誌。
「誰か住んでるわよ、きっと」
奥さんは決めつける。
麻耶は黙って観察した。
段ボールはまだ新しい。
雨染みが少ない。
定期的に手が入っている。
ホームレスにしては生活の痕跡が薄い。
不法占拠者ならもっと防寒対策をするはずだ。
では何だ?
若者の溜まり場?
近所のいたずら?
あるいは、誰かが嫌がらせで置いた?
管理物件への敵意。
街宣車の一件が脳裏をよぎる。
――誰かがわざと?
麻耶は写真を撮り、周囲を確認した。
足跡。
空き缶。
足跡は小さい。
スニーカーの跡。
大人の靴跡ではない気がする。
その日から、麻耶は見回りを続けた。
小屋は微妙に変化する。
ペットボトルが増える。
漫画本が一冊置かれる。
火気の形跡はない。
夜に影が動いた、と奥さんは言う。
だが防犯カメラは設置されていない。
麻耶は推理する。
もし住人なら夜間滞在するはず。
だが寝具がない。
もし若者の溜まり場なら、放課後の時間帯か。
次は時間を変えて来てみよう。
ある日の夕方四時過ぎ。
学校の下校時間。
物音がした。
ガサガサ、と段ボールが揺れる。
麻耶は息を潜めた。
心拍が早まる。
もし危険人物なら?
刃物を持っていたら?
だが飛び出してきたのは制服姿の中学生三人だった。
一瞬、安堵が全身を包む。
だが同時に怒りも込み上げる。
――この一か月、私は何を疑っていた?
「ちょっと待ちなさい」
三人は固まる。
問いただすと、秘密基地だと言う。
「ここ、他人の敷地よ」
リーダー格の少年が俯いた。
その顔は、悪意よりも幼さが勝っている。
だが麻耶の胸の中では、推理の糸が解けていく。
小さい足跡。
生活臭の薄さ。
漫画本。
全てが符合する。
危険人物ではなかった。
だが問題は残る。
放火の可能性。
怪我。
そして近隣トラブル。
三人を連れて隣家へ向かう。
麻耶の心は複雑だった。
犯人を突き止めた達成感。
だが同時に、肩透かし。
もっと深刻な何かを想定していた自分。
そして、奥さんの反応への期待。
ドアが開く。
「犯人が分かりました。この子たちです」
三人は深く頭を下げる。
麻耶は奥さんの怒号を予想していた。
だが。
「あら、こんなオバサンに怒られて怖かったでしょ?」
柔らかな声。
麻耶の思考が止まる。
――あれだけ騒いでいたのに?
まるで、自分が騒ぎ立てた張本人のような空気。
少年たちは安堵する。
麻耶は違和感に包まれる。
自分の一か月の推理、警戒、不安。
それは何だったのか。
「保護者の連絡先を教えてください」
声が少し強くなる。
これは仕事だ。
感情を挟むな。
だが内側では、何かが軋む。
数日後、段ボール小屋は撤去された。
境界は元の静けさを取り戻す。
奥さんからの電話も止んだ。
だが麻耶の中には、推理の余韻と虚しさが残った。
自分は何を恐れていたのだろう。
犯罪者?
嫌がらせ?
管理会社への敵意?
結局は子どもの秘密基地。
だが、その推理の過程で麻耶は常に最悪を想定していた。
管理という仕事は、
平穏を前提にしない。
常に最悪から逆算する。
ある夜、コンビニでレジに立つ。
名札を見る。
珍しい苗字。
胸がざわつく。
「あの、中学生のお子さんいらっしゃいます?」
母親は驚き、すぐに頭を下げた。
その姿を見た瞬間、麻耶の中で何かが弾けた。
「危険性をご理解いただけましたか?こちらは毎日クレームを受けていたんです」
推理し、警戒し、
責任を背負い、
犯人を突き止めた。
だが評価はない。
謝罪はある。
それでも心は晴れない。
店を出ると、夜風が冷たい。
――私は何に怒っているのだろう。
犯人を見つけるまでの緊張。
最悪を想定した不安。
そして拍子抜けの結末。
理不尽とは、事件の大きさではなく、
感情の行き場がないことなのかもしれない。
それ以来、麻耶はそのコンビニに行かなくなった。
段ボール小屋は消えた。
だが麻耶の中には、
常に“次の犯人”を想定する癖が残った。
管理とは、疑うこと。
そして疑った自分を、誰にも労われないこと。
電話はまた鳴るだろう。
その時も、麻耶は最悪を想定しながら現場へ向かう。
それが、彼女の仕事なのだから。
段ボール小屋の一件が落ち着いてからしばらく経った頃だった。
業界の集まりで、同業者の一人が何気ない調子で言った。
「そういえばさ、前にそっちで契約した葛城っていたよな。あいつ、今度のアパートでも揉めてるらしいぞ」
麻耶の手が、一瞬だけ止まった。
「……葛城裕太ですか?」
「そうそう。夜中に騒いでるとか、音がどうとか。管理会社が大変らしい」
苦笑混じりの噂話だった。
深刻というより、“またか”という響き。
麻耶は曖昧に頷いた。
やはり、と思った。
環境が悪いのではない。
建物の構造でもない。
場所が変わっても、同じことが起きる。
人は簡単には変わらない。
あの虚ろな目。
音に怯え、壁を睨み、誰かの気配を疑っていた姿。
別のアパート、別の管理会社。
そこでもきっと同じ説明が繰り返されているのだろう。
ウォーターハンマー。生活音。偶発的な物音。
そして、誰かがまた板挟みに遭っている。
ほんのわずか、胸の奥が重くなる。
けれど同時に、どこか遠い。
もう自分の管理物件ではない。
もう自分が駆けつける必要もない。
あの時、退去という選択を勧めた。
あれが最善だったのかどうか、今も答えは出ない。
だが少なくとも、今の自分のアパートは静かだ。
「まあ、どこでも問題起こす人は変わらないよな」
同業者は軽く言った。
麻耶は小さく笑った。
「そうですね」
その言葉は、どこか乾いていた。
人は変わらないのか。
それとも、変われないのか。
もしまたどこかで、
電話が鳴り、
「音がする」と誰かが訴え、
管理会社の誰かが現場へ向かっているとしたら。
その背中を思うと、わずかに共感が滲む。
けれど、それ以上は踏み込まない。
仕事とは、線を引くことでもある。
境界線。
敷地と敷地の間だけではない。
責任と責任の間。
過去と現在の間。
葛城裕太という名前は、
もう自分の書類棚にはない。
それでも、どこかの街で、
また誰かが彼の名前を口にしているのだろう。
麻耶はコーヒーを一口飲んだ。
苦味が舌に残る。
それでも、以前のような重さはなかった。
――もはや、自分とは関わりはない。
そう思えることが、
少しだけ、救いだった。
賃貸管理では似たクレームはあっても同じクレームは無い。
常に新たなクレームと向き合う日々だ。
対応は業務だが、全く生産性は無い。
そんな日々の進藤麻耶、次なる出来事は何が起きるのか?




