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凶暴なクレーマーと変貌した隣人

凶暴化たクレーマーが幸栄不動産にナイフを持って怒鳴り込んできた。

麻耶はどう対処するのか、またクレームの解決は。

今回は作風を少し変えてみました。いつもより長目ですがお愉しみいただければ幸いです。

そして次なる新小説のダークヒロインの登場です。

第二十話:凶暴なクレーマーと変貌した隣人

1

どんよりとした重い雲が東京の空を覆い尽くす梅雨の季節にあって、その日は奇跡的なほどに突き抜けた青空が広がっていた。容赦なく降り注ぐ初夏の太陽が、湿ったアスファルトから熱気と水分を激しく蒸発させ、街全体をむっとするような温室に変えている。不快な湿気を含んだ風が吹き抜ける中、人々はハンカチで額を拭いながら足早に通りを過ぎていった。

地域密着型の手厚いサービスを掲げる「幸栄不動産」の店内は、外の生き地獄のような暑さが嘘のように、冷房が心地よく効いていた。カタカタと小気味よいキーボードの打鍵音、時折鳴り響く電話の呼び出し音、そして小声で交わされる社員たちの打ち合わせの声。それはどこにでもある、至極平穏な平日の午後の光景だった。

まさか、その平穏が数秒後に、喉を突き破るような悲鳴とともに引き裂かれるとは、誰も予想していなかった。

バァン! と、自動ドアが限界まで勢いよく左右に開いた。センサーの電子音が鳴り終わる前に、狂気に満ちた怒号が店内の空気を震わせた。

「おいッ!! 誰か責任者を出せッ! ぶち殺してやる!!」

店内に響き渡ったのは、人間の理性を著しく欠いた、獣のような叫びだった。入ってきたのは、年齢は四十代半ばほど、泥に汚れたように薄汚れたポロシャツを着た男だった。髪は長年櫛を入れていないかのように寝癖で爆発し、何日も鏡を見ていないことが一目でわかるほど顔は煤けている。しかし何よりも異常だったのは、その「目」だった。白目の部分が網の目のように真っ赤に血走り、焦点が定まっていない。瞳孔は異様なほどに開いており、視線が落ち着きなく四方を彷徨っている。

受付のすぐ近くのデスクにいた賃貸担当の若手社員、高橋がビクリと肩を跳ね上がらせ、椅子から腰を浮かせた。 「あ、あの、お客様……? どうなさいましたか、そんな大声を出されて……」

「どうなさいましたか、じゃねえよ!!」

男は手に持っていた薄汚れた革製のセカンドバッグを、受付カウンターに叩きつけた。激しい衝撃音とともに、ジッパーが乱暴に引き開けられる。その中から男の手によって取り出されたものを見た瞬間、高橋の顔から完全に血の気が引いた。

鈍い銀色の光を放つ、刃渡り十五センチはある、頑丈で凶悪なサバイバルナイフだった。

「いつもいつも電話に出て、適当にあしらいやがって! お前だろ、高橋ってのは! 胸糞悪い声で言い訳ばかりしやがって! 出てこい! 刺し殺してやる、今すぐここでバラバラにしてやる!」

男はナイフの切っ先を高橋の顔面に向け、狂ったように振り回した。ブン、ブン、と空気を切り裂く不気味な音が響き、カウンターの上の書類が風圧で舞い上がる。 「ひっ……、あ、あの、お待ち、お待ちください……!」

高橋は完全に腰を抜かし、椅子ごと後ろにひっくり返った。言葉にならない悲鳴を上げながら、床を這いつくばって逃げようとするが、極限の恐怖で足の筋肉が完全に硬直して動かない。他の事務員たちも、あまりの恐ろしさに声を上げることもできず、机の陰に身を隠してガタガタと震えるのが精一杯だった。

男は狂気に駆られた足取りで、ローカウンターの横の進入禁止エリアをすり抜け、オフィスエリアへと深く侵入しようとした。その刃が、床で硬直している高橋の喉元に届こうとした、まさにその時だった。

「そこまでです!」

オフィスの奥、パーテーションで区切られた応接スペースから、一人の女性が凄まじい勢いで飛び出してきた。幸栄不動産の誇る凄腕エージェントであり、トラブル処理のスペシャリスト、麻耶だった。

しかし、彼女の手に握られていたのは、ペンでも書類でも、あるいは護身用の催涙スプレーでもなかった。それは、サバゲーの延長戦であり、防犯意識の高い麻耶の趣味でオフィスの隅に立て掛けられていた、高さ一メートル二十センチを超える、頑丈なポリカーボネート製(透明アクリル製)の防護盾だった。

「な、なんだお前はあッ! 邪魔する奴は死ねッ!」

男が牙を剥き、ナイフを麻耶の顔面に向けて真っ直ぐに突き出す。しかし、麻耶の動きには微塵の躊躇もなかった。彼女は近接戦闘(CQB)における盾の運用や、相手の動線を潰すステップ、敵の攻撃をいなす間合いの取り方は、すべてサバイバルゲームの熾烈な実戦経験と龍崎による訓練によって叩きこまれていた。盾のグリップを両手でガッチリとホールドし、上体をわずかに前に傾けて突進を受け止めるその姿勢は敵を制圧するそのものだった。

「危ない、麻耶さん! 逃げて!」床に倒れた高橋が涙目で叫ぶ。

男が狂ったようにナイフを上段から振り下ろした。 キィィィン! と、硬質で耳を突き刺すような金属音が店内に響き渡った。アクリル盾の表面に深い白い傷が刻まれるが、麻耶の体は一歩も引かない。それどころか、彼女は盾の重みと相手の突進の勢いを完璧に利用し、前方へと鋭く一歩を踏み込んだ。

「はあぁぁぁッ!!」

気合一閃、麻耶は盾を文字通り「巨大な面」として使い、男の胸元へと強烈な体当たりを敢行した。突き出されたアクリルの壁が、男の突進線を完璧に受け止め、そのまま凄まじい推進力で後方へと押し返す。男は予期せぬ質量兵器による衝撃に「がはっ」と肺の空気を吐き出させ、大きくよろめいた。

麻耶はそのちょっとした隙を逃さなかった。さらに力強く一歩を踏み込み、盾を斜めに傾けながら、男を壁際、オフィスのコピー機が置かれたデッドスペースへと力任せに押し込んでいく。 「動かないで! 刃物を捨てなさい! これ以上抵抗するなら、容赦はしません!」

「クソが、離せ! 殺してやる、耳が腐るんだよ、あの音が! 殺して……!」

男はなおも狭いアクリル盾の隙間からナイフを突き立てようと狂暴に腕を振るうが、麻耶は全体重を盾にかけ、男の体の自由を完全に奪った。ガチガチ、ガリガリとアクリルとナイフが擦れ合う嫌な音が響く。麻耶の額から大粒の汗が流れ落ちるが、その鋭い眼光は微塵も揺るがなかった。 「高橋君、座り込んでないで早く110番! 他の人は外の通行人を避難させて、店に入らせないで!」

麻耶の凛とした怒声で、ようやく我に返った事務員の一人が受話器を掴み、狂ったようにダイヤルを回した。

「事件です! 幸栄不動産に刃物を持った男が――!」

膠着状態が続いて数分、いや、体感としては永遠のようにも思える時間の後、店外の通りにけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。赤色灯を激しく回転させたパトカーが数台、店の前に急停車し、防刃ベストを着た数名の警察官が店内に雪崩込んでくる。

「警察だ! 刃物を捨てろ! 抵抗をやめろ!」

警察官たちは一瞬で状況を把握し、麻耶が盾でガッチリと抑え込んでいた男の手首を掴んで、容赦なくひねり上げた。カラン、とナイフが床に転がる。男は一斉に床へと組み伏せられ、ガチャリと冷たい手錠の音が響いた。

男はなおも「203号室が……! 203の野郎が俺を殺そうとしてるんだ! 殺してやる!」と、口から泡を吹きながら意味不明な言葉を叫び散らしていたが、警察官たちに左右から抱えられ、引きずられるようにしてパトカーへと連行されていった。

男の姿が完全に店外へ消え、遠ざかるサイレンの音とともに店内に静寂が戻った瞬間、麻耶は大きく深く息を吐き出し、アクリル盾をそっと床に置いた。その腕は、極限の緊張と力みから、かすかに震えていた。

2

「……本当に申し訳ありませんでした、麻耶先輩。僕が、僕がもっと早く、真面目に対応していれば、こんなことには……」

警察による簡易的な現場検証と事情聴取が一段落した後、高橋は応接室のソファで頭を深く抱え、涙を流して平謝りしていた。その顔はまだ土気色に青ざめたままで、差し出されたお茶を持つ手もガタガタと震えている。

麻耶は自分のデスクから持ってきた温かい緑茶を一口すすり、ふぅ、と長い息を吐いてから、高橋の前に座った。 「責めているわけじゃないのよ、高橋君。誰だって、あんな狂暴な人が来たら動けなくなるわ。……でもね、あの男の人が連行されるときに叫んでいた『203号室』のこと、何があったのか詳しく教えてもらえる?」

高橋は震える手で、手元の業務管理用タブレットを操作し、管理物件のデータを呼び出した。 「は、はい……。あの男は、弊社が管理している木造の二階建て賃貸アパート『コーポ・サザンカ』の202号室に入居している、佐藤という男です。実は、ここ二週間ほど、毎日のように佐藤から僕宛てにクレームの電話が入っていました」

「クレームの内容は?」

「それが……隣の203号室の住人が、夜な夜な異常な騒音を立てている、と。壁をドンドン叩くような不快な音や、重い大型の機械が激しく駆動するような地鳴りのような低音が響いて、一睡もできないという訴えでした。ただ……」

高橋は言葉を詰まらせ、決まずそうに視線を落とした。 「佐藤の口調があまりにも最初から高圧的で、時には支離滅裂な暴言や『脳に電波が届く』といったような怪しい話を交えていたので、僕はてっきり、よくある神経質な入居者の被害妄想か、あるいはただの嫌がらせの類だと思ってしまって……。仕事が立て込んでいたこともあって、『明日見に行きます』『確認します』と言って、対応をずっと後回しにしていました」

麻耶は細い眉をひそめた。確かに、不動産業界においてクレーマーの対応は最も精神を削られる業務の一つであり、まだ経験の浅い若手の高橋が尻込みし、現実逃避したくなる気持ちも分からなくはない。しかし、問題を放置した結果が、今日の刃物沙汰だ。もし佐藤の訴えが「100%の被害妄想」ではなく、何らかの「事実」に基づいているとしたら、今もなお203号室でその異常事態が継続していることになる。

そして何より、これ以上のトラブルの芽は、地域を守る不動産屋として今すぐ摘まなければならない。

「分かったわ、高橋君。事情は把握した。高橋君は今日はもう仕事を切り上げて、家に帰って休みなさい。精神的にもショックが大きいはずよ。コーポ・サザンカの件は、私が今から現地に行って確認してくる」

「えっ、麻耶先輩が一人でですか!? 危険ですよ、まだ何があるか分からないし、僕も行きます……!」

「ダメよ、今のあなたじゃ足手まといになるだけ。大丈夫、警察にも『これから苦情のあった現場の確認に行く』と一報を入れてから行くし、何より原因を突き止めないと、他の入居者にも迷惑がかかるわ。これが私たちの仕事でしょ?」

麻耶はスーツの上着の襟を正し、毅然とした態度で立ち上がった。その瞳には、先ほど暴漢を圧倒したときと同じ、不動産プロフェッショナルとしての強い光が灯っていた。

3

「コーポ・サザンカ」は、駅から徒歩十分ほどの、静かな住宅街に佇む築二十年の木造アパートだった。外観は定期的に塗り替えられているためそれなりに綺麗だが、構造が木造ゆえに、隣室の生活音が響きやすいという防音性能の低さは否めない物件だった。

麻耶は備え付けの外階段をコツコツと上がり、二階の狭い共用廊下を進んだ。 202号室――先ほど幸栄不動産で逮捕された佐藤の部屋の前を通り過ぎる。カーテンが閉め切られたその部屋からは、主を失った寂しさと、どこかドロリとした執念の残滓が感じられた。

そして、目的の203号室の前に立った。表札には「木村」とだけ書かれている。契約書によれば、三十代前半の単身男性が暮らしているはずの部屋だ。

麻耶はすっと深呼吸をして気持ちを整え、インターホンを押した。 ピンポーン、という乾いた音が静かな廊下に響く。しかし、中からの応答はない。居留守かもしれないと思い、もう一度強めに押すが、やはり室内から足音が近づいてくる気配はなかった。

しかし、麻耶の鋭い聴覚は、ドアの厚い金属板の向こうから微かに漏れ聞こえる「不自然な音」を確実に捉えていた。

ウーーー、ウーーー、という、何か巨大な工場用モーターが超高速で回転しているような、地響きに近い不気味な低音。さらに、それに混じって、不規則に床をコツコツ、コンコンと硬い物で叩くような、乾いた連続音が響いている。

「佐藤さんの言っていたことは、妄想なんかじゃなかった……」

麻耶は重大な規約違反、あるいは事件の可能性を察知し、会社から持参した管理用のマスターキーをポケットから取り出した。ドアノブにキーを差し込みながら、規律に従って大声で室内に向けて声をかける。 「203号室の木村さん! 幸栄不動産です! 管理会社の者ですが、緊急の用件でお伺いしました! 鍵を開けて中を確認させていただきます!」

ガチャリ、と鍵が回り、ドアをゆっくりと押し開けた。

その瞬間、部屋の中から通路へ向けて強烈に押し寄せてきたのは、サウナのような異様な「熱気」と、電子基板やプラスチックの被覆が熱で焼け焦げているような、独特の不快な臭気だった。

カーテンが完全に閉め切られ、昼間だというのに薄暗い室内の中心に、信じられない光景が広がっていた。

ワンルームの限られた生活スペースの半分以上を占拠するように、素人が趣味で組み立てたとは思えない、高さ二メートル近い金属製の巨大なシステムラックが数台、鎮座していた。そこには、「グラフィックボード」と呼ばれる、パソコン用の高価な精密基盤が、むき出しの状態で文字通り何十台、何百台とびっしり並べられ、無数の太い配線でグチャグチャに繋がれていた。

それらの基板が、赤や青のLEDライトを不気味に激しく明滅させながら、熱を逃がすために設置された数十個の大型冷却ファンをフル回転させ、凄まじい爆音を上げていたのだ。

「これは……暗号資産(仮想通貨)の、マイニング(採掘)マシン……!?」

麻耶はあまりの光景に絶句した。 大量の電力を消費し、凄まじい排熱と駆動騒音を撒き散らすため、通常は専用のデータセンターや冷房の効いた倉庫で行うべき代物だ。それを、個人が利益を得るために、あろうことかこの狭い木造アパートのワンルームの中に構築していたのだ。床を不規則に叩いていた音の正体は、熱暴走を防ぐために床に直置きされた、不格好な工業用扇風機や自動冷却装置が、激しい振動で床や壁を叩いている音だった。これでは、隣の202号室が不眠症になり、精神を病むのも当然だった。

「ひっ……! 誰だ、お前! 勝手に人の部屋に入ってくるな!」

ラックの奥、辛うじて残された狭いベッドスペースから、髪をボサボサに乱し、目の下にギョとするほど深い黒クマを作った男が飛び起きてきた。この部屋の住人、木村だった。彼自身も、昼夜を問わず部屋中で鳴り響くマシンの爆音と、40度近くに達している室温の中で生活し、精神的に完全に限界を迎えているのは明らかだった。

麻耶は一歩も引かず、毅然としたプロの口調で木村を指差した。 「木村さん、幸栄不動産です。あなたのこの行為は、賃貸借契約書における『他入居者への著しい迷惑行為の禁止』、および『許容電気容量の不正超過・無断改造』に完全に抵触します。あなたのこの騒音のせいで、隣の202号室の佐藤さんは精神を病み、先ほど我が社にナイフを持って突入し、警察に逮捕されました!」

「え……? 佐藤さんが、たい、逮捕……?」木村の顔が、恐怖と困惑で急激に歪んだ。

「これだけの規模のマシンを木造アパートで、しかもこれほどの高温で稼働させれば、騒音公害だけでなく、漏電による大規模な火災の危険があります! 今すぐ、すべてのマシンの電源を落としてください。さもなければ、警察をここに呼び、即座に契約解除・強制退去の手続きをとらせていただきます!」

麻耶の圧倒的な威圧感と、「逮捕」「火災」「強制退去」という現実的なパワーワードに完全に気圧された木村は、がたがたと全身を震わせた。 「わ、分かりました……落とします、落とせばいいんだろ……!」

木村はよろめきながらラックの裏手に回り、ガチリ、ガチリと、いくつかの大きな主電源のブレーカーレバーを引きずり降ろした。

ウーーーーン……と、激しく鳴り響いていた低音が、断末魔の叫びを上げるように徐々に小さくなり、やがて完全に停止した。 ピカピカと明滅していた無数の光が消え、部屋に完全な、深い静寂が戻る。室温はまだ異常に高かったが、あの脳を揺さぶるような不気味な地鳴りは完全に消え去った。

木村はその場にへたり込み、自分の犯した過ちの大きさと、隣人を狂わせた原因が自分にあることにようやく気づいたように、力なく項垂れていた。麻耶は、今後の退去猶予期間の相談や、部屋の原状回復費用の請求についての厳重な警告を言い渡し、事務手続きのための必要書類を乱暴に机に叩きつけて部屋を出た。

4

激動の一日が、ようやく終わろうとしていた。 アパートの狭い階段を降り、外に出ると、夕方の少し冷えてきた心地よい風が、麻耶の汗ばんだ首筋を優しくなでた。重い足取りでエントランスの敷地を出て、駅へと向かおうとした、まさにその時だった。

カン、カン、カン、と。

静まり返った住宅街の夕暮れに、およそ不釣り合いな、金属的な硬いヒールの音が前方から響いてきた。 向かってくるその足音に、麻耶は何気なく目を向けた。そして、その場に文字通り釘付けになった。

歩いてきたのは、一人の若い女性だった。しかし、その容姿は、この極めて平凡な住宅街において、異様なまでの圧倒的な存在感を放っていた。

黒と深紫を基調とした、幾重にも精緻なフリルやレースが重なるゴシック・アンド・ロリータ、いわゆる「ゴスロリ」のドレス。それも、ただのドーリーで可愛らしいロリータではない。どこか退廃的で、死や血の匂いを感じさせるような、ダークな「地雷系」と呼ばれるエッセンスが強く混ざり合っている。

髪は鮮やかな、夜のネオンのようなピンクと紫のツートンカラーに大胆に染め上げられ、細い三つ編みにされて肩に垂らされていた。肌は病的なまでに抜けるように白く、目の周りには血が滲んだような赤黒いアイシャドウが不気味に施され、唇は深いワインレッドに彩られている。その右手には、フリルが付いた漆黒の日傘が、防具のように固く握られていた。

その女性は、まっすぐにコーポ・サザンカの敷地へ向かって歩いてくる。麻耶の前を通り過ぎようとした瞬間、麻耶の脳裏に、強烈な電撃のような既視感が走った。

(……嘘でしょう? まさか、あの時の、如月さん……!?)

麻耶は記憶の引き出しを猛烈な勢いで引っかき回した。 半年前――まさにこの「コーポ・サザンカ」の201号室、今回トラブルが起きていた佐藤の部屋の、ちょうど反対側の隣室の賃貸契約をした女性。 名前は、如月舞。当時二十一歳、大学を卒業してシステムエンジニアとして都内のIT企業に就職が決まったばかりの、物静かな女性だった。

あの時の彼女は、透き通るような美しい黒髪を綺麗に切り揃え、衣服こそ白い可憐なクラシカルロリータ服を好んで着ていたものの、言葉遣いは極めて丁寧で、おどおどとした様子できちんと何度も頭を下げる、非常に礼儀正しい「深窓のお嬢様」のような印象の女性だった。麻耶も「物静かで、トラブルを起こしそうにない、とても品の良い入居者様で良かった」と安心した記憶が、鮮明に残っている。

それが、どうして。わずか半年の間に、これほどまでに180度、天と地がひっくり返るほど変わり果ててしまうものだろうか。まるで、純白の光の属性から、底知れぬ闇の深淵へと自ら堕ちてしまったかのような、恐ろしい変貌ぶりだった。

すれ違いざま、麻耶は抑えきれずに声をかけていた。 「あの……如月、舞さん……ですよね?」

ゴスロリ服の女性が、ぴたりと不自然なほど正確に足を止めた。 漆黒の日傘をわずかに傾け、その影から、冷徹な、しかしすべてを見透かすような妖しい瞳が麻耶を真っ直ぐに捉えた。その視線は、半年前に緊張しながら契約書にサインをしていた時の、あの怯えるような少女の面影を完全に消し去っていた。今の彼女の目は、人間らしい感情が削ぎ落とされ、まるで冷たい暗闇の奥で怪しく光る、精密機械のセンサーのようだった。

「……あら。幸栄不動産の、お姉さん」

声は低く、どこか気だるげで、退廃的な響きを帯びていた。しかし、その声帯の震えは、確かに如月舞のものだった。

「如月さん、お久しぶりです。その……ずいぶんと、雰囲気が変わられましたね」 麻耶はプロとしての平静を装いながら、努めて明るい、営業用のトーンで話しかけた。 「何か、お仕事やプライベートで、心境の変化でもあったのですか? 私、少しびっくりしてしまって……」

如月舞は、小さく口元を歪めた。それは親愛の笑みというよりは、世界を嘲るような冷笑に近かった。彼女は麻耶の背後にあるアパートの二階、203号室の方向へ、ちらりと冷たい視線を走らせた。その瞬間、彼女の瞳の奥に、一瞬だけ計算高い、冷酷な光が宿ったのを、麻耶のプロとしての直感は見逃さなかった。

「別に。これが私の『本当の姿』というだけですから。……それより不動産屋のお姉さん、203号室の件、お仕事ご苦労様でした。これでようやく、この場所も静かになるのかしら?」

麻耶は小さく息を呑んだ。 彼女は、まだ警察も引き揚げたばかりで、公になっていないはずの203号室の騒音トラブルの「結末」を、今帰ってきたばかりの身で正確に知っていた。それどころか、その口ぶりは、まるで最初からこうなる「結末をすべて知っていた」かのようだった。

「如月さん、あなた……まさか、203号室の木村さんが部屋で何をしていたか、最初から知っていたの……?」

麻耶の確信に満ちた問いに対して、如月舞はそれ以上、言葉で答えることはしなかった。 彼女はふっと興味を失ったように視線を外すと、日傘をわずかに傾けて顔を隠し、麻耶の横をすり抜けた。

――昔の私は、もう死んだのよ。

そんな冷たい幻聴が、風に乗って聞こえた気がした。 如月舞はコン、コン、と階段のステップを軽やかに、まるでお気に入りのステップを踏むように鳴らしながら、形式ばかりの簡単な挨拶だけを残して闇の中に消えていった。 「それでは、ごきげんよう、不動産屋さん。また、近いうちにお会いしましょう」

夕闇が急速に迫る廊下の奥へと消えていく彼女の背中を、麻耶はただ呆然と、冷や汗を流しながら見送るしかなかった。紫のフリルが不気味に揺れるその細い後ろ姿は、まるで夜の闇に溶けていく、美しくも残忍な悪魔のようにも見えた。

麻耶の胸の奥底に、かつてないほど激しい、不気味なざわめきが広がっていた。 今回の、202号室の佐藤による凶暴なクレーマー襲撃事件。203号室の木村による異常な隠密マイニングマシン。そして、その隣室に住む如月舞の恐るべき変貌。 これらは本当に、ただの偶然の悪条件が重なっただけの、よくある賃貸トラブルなのだろうか。

如月舞の職業は、システムエンジニア。彼女の常軌を逸した天才的な専門知識があれば、隣室の異常な電力消費状況や、暗号資産のネットワークトラフィックを傍受・察知することなど、容易だったかもしれない。もし、彼女が隣室のマイニングを意図的にハッキングして暴走させ、その騒音で佐藤を狂わせ、この事件を裏から「演出して楽しんでいた」としたら――。

「如月舞……、あなたは一体、何者なの?」

麻耶は赤く染まった空の下で、ぽつりと独りごちた。 夕日に照らされたアパートの長い影が、まるで巨大な怪物の鋭い爪のように、地面の上を麻耶の足元に向かって真っ直ぐに伸びていた。


この梅雨の晴れ間の奇妙な出会いが、後にサバイバルゲームの覇権と正義を賭けて激突することになる、二人の長く激しい、命懸けのキャットファイトの幕開けに過ぎないということをまだ二人は知らなかった。

二人の運命の歯車は、引き返せない速度で、確かに狂い始めたのだった。

(第二十話 了)



麻耶の賃貸不動産奮戦記もあと数話で第一シーズンが終わりそうな予感です。

当初想定していたよりだいぶ連載が続けてこれました、応援していただいた方有難うございます。

次なる新作を構想中です。闇落ちしたヒロインとは・・・

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