念を送る老婦人とクレーマー
相変わらず理不尽なクレームが起きる賃貸管理。
今回のクレームはストーカーの如く覗く老婦人がいるから排除してほしいというクレームだ。
麻耶はどう対処するのか。
第十七話(理不尽なクレーム)
<嵐の予兆>
駅前の一等地に店を構える「幸栄不動産」の自動ドアが、心なしか重苦しい音を立てて開いた。時刻は午後二時を回ったところだ。五月の爽やかな風が店内に流れ込んでくるはずだったが、その男が持ち込んできたのは、どんよりとした停滞気味の熱気だった。
「すみません、誰か責任者いる? 」
受付の若手社員、高橋が怯えたように視線を泳がせる。男は五十代半ばといった風貌で、皺の寄った高級そうなスーツを着ているが、その目は妙に血走っていた。手には、うちの管理物件の契約書類が入っているとおぼしき、見覚えのあるロゴ入りのクリアファイルが握られている。
奥のデスクで、管理物件の更新書類に目を通していた賃貸課長の進藤麻耶は、小さく息を吐いた。 四十三歳。この業界に入って早二十年近く、ありとあらゆる「人間の業」を見てきた。ショートカットの髪を耳にかけ、シャープな顎のラインを引き締める。周囲からはよく、実年齢より一回り若く見えるとか、映画に出てくる女優に似ているなどと言われるが、本人はそんな評価をこれっぽっちも気にしていない。この鋭い眼差しは、理不尽な要求を突きつけてくるクレーマーを怯ませるための、彼女にとっての最大の武器だった。
「はい、私が賃貸課長の進藤ですが。どういったご用件でしょうか」
麻耶は椅子から立ち上がり、凛とした声で応対した。歩み寄る足取りには一切の迷いがない。黒のパンツスーツが、彼女の引き締まった体型をいっそう際立たせていた。
男は麻耶の姿を見ると、一瞬だけその美貌と威圧感に気圧されたように目を瞬かせたが、すぐに元の不機嫌な面面に張り付いた笑顔を浮かべた。
「ああ、あんたが課長さん。ちょうどいい。僕、先月から『グランディール駅前』の302号室に入居した、大塚ってものだけどさ。ちょっと、看過できない大問題が起きてるわけ。対応してもらえるよね?」
「大塚様ですね。いつも弊社管理物件をご利用いただきありがとうございます。大問題、と言いますと……お部屋の設備に不具合でもございましたか? 給湯器やエアコンの調子など……」
麻耶は丁寧な口調を崩さず、しかし相手のペースに飲まれないよう、事務的なトーンを維持する。
「違う違う、そんな物理的な話じゃないんだよ」大塚は、待ってましたとばかりに人差し指を突き出した。「精神的な話。っていうか、プライバシーと、僕の『健康な生活を営む権利』の侵害だよ」
精神的な話。その単語を聞いた瞬間、麻耶の脳内にある「警戒アラート」が静かに鳴り響いた。長年の経験上、この手の抽象的なワードを並べる人間が持ってくるクレームは、十中八九、常識の斜め上を行く理不尽なものだ。
「応接スペースへご案内します。お茶をお持ちしますので、詳しくお聞かせいただけますか」
麻耶は高橋に目配せをし、大塚を店の奥にあるガラス仕切りの応接室へと促した。
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<驚愕の主張>
「でね、進藤さん」
大塚は出された緑茶に口もつけず、身を乗り出した。
「結論から言うと、向かいのマンションの4階の住人を、今すぐ退去させるか、あっちの部屋の窓を全部目隠しで塞いでほしいんだ」
麻耶は手元のメモ帳にペンを走らせようとした手を、ピタリと止めた。 「……向かいのマンション、ですか?」
「そうだよ。僕の部屋のバルコニーから通りを挟んで向かい側にある、あの茶色いマンション。あれ、確か御社の管理物件でしょ? 『メゾン・ド・フルール』だっけ」
「左様でございます。あちらも弊社の管理物件ですが……あちらの4階のご入居者様が、何かトラブルを起こされているのでしょうか? 深夜に騒音を立てるなど、具体的な実害が?」
「実害? 大ありだよ!」大塚は机をバンと叩いた。「あの部屋の住人、毎日夕方の五時になると、僕の部屋に向かって『念』を送ってきてるんだよ!」
(……はい?)
麻耶の脳が一瞬、処理を拒否した。しかし、彼女の顔は完全にポーカーフェイスを維持していた。ここで「は?」と聞き返したり、鼻で笑ったりすれば、火に油を注ぐことになる。
「『念』、でございますか」
「そうだよ、念! サイキックなエネルギーって言えばわかる? 毎日五時ぴったりになるとさ、カーテンの隙間からこっちをじっと見て、何かぶつぶつ呟きながら、禍々しいオーラを放ってくるんだ。おかげで僕は、五時を過ぎると頭痛がするし、肩は重くなるし、せっかく淹れたコーヒーの味まで苦くなる! これ、完全に営業妨害っていうか、生活妨害だろ!」
大塚の目は大真面目だった。冗談を言っている雰囲気は微塵もない。糖質の高い妄想に取り憑かれているのか、それとも、ただの嫌がらせの口実なのか。
麻耶は静かに息を吸い込み、ロジックを組み立てる。 「大塚様、お辛い状況であることは分かりました。しかし、確認させていただきたいのですが、向かいの住人の方が、何か大塚様に向けて直接的な誹謗中傷の紙を貼っているとか、あるいはレーザーポインターのような光を照射してくるといった、客観的な証拠はございますでしょうか?」
「だから、目に見えないエネルギーだって言ってるじゃないか! 証拠? 僕のこの体調不良が何よりの証拠だよ! あんたたち管理会社だろ? 管理物件の住人が、他の住人(厳密には向かいの別物件だが)に迷惑をかけてるんだから、注意するなり追い出すなりするのが仕事じゃないのか!?」
「大変恐れ入りますが、私ども不動産管理会社が契約解除、すなわち退去勧告を行うことができるのは、家賃の滞納や、著しい騒音、建物の損壊、あるいは公序良俗に反する明確な違法行為など、客観的な事実に基づいて契約違反が認められる場合に限られます。目に見えない『念』や『エネルギー』を理由に、ご入居者様に退去を求めることは、法的に不可能です」
麻耶は、真木よう子を彷彿とさせる切れ味の鋭い視線で、大塚の目を真っ向から見据えた。一切の妥協を許さない、法律と契約の壁を提示する目だ。
しかし、大塚は引き下がらない。それどころか、顔を真っ赤にして声を荒らげた。
「冷たいねえ、課長さん! 法律だの契約だの、そんな四角四面なことで、人間の苦しみが救えると思ってるのか!? じゃあ何か、僕があの念のせいで病気になって死んだら、あんたたち責任取ってくれるんだな!? 殺人教唆の加担者として訴えてやるからな!」
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<平行線の応酬>
理不尽なクレーマーの最大の特徴は、「自分の脳内ルール」が世界の中心であり、一般常識や法律が通用しないことだ。そして、話の論点をすり替え、被害者ポジションを確立しようとする。
麻耶は手元の資料をめくり、大塚が指摘している『メゾン・ド・フルール』の4階の住人を確認した。 該当する部屋は401号室。入居しているのは、七十代の品の良い一人暮らしの女性、佐藤さんだ。長年そこに住んでおり、近隣トラブルなど一度も起こしたことがない、地域でも評判の穏やかなお婆ちゃんである。
(佐藤さんが、毎日五時に念を送る……? あり得ないわね)
「大塚様、お言葉ですが、向かいの401号室のご入居者様は、長年あちらにお住まいの非常に穏やかな高齢の女性です。他人に危害を加えるような協調性のない方ではございません。何かの誤解、あるいは、夕方の時間帯特有の、西日の反射などが目に触って、ご不快に感じられているということはございませんか?」
麻耶の言葉は、大塚のプライドを激しく逆撫でした。
「お婆ちゃんだからって無実だとでも言いたいわけ!? あんた、あの婆さんの何を知ってるんだよ! 表の顔に騙されてるんだ! 良いか、毎日五時だぞ? 五時になったら、あの部屋の窓辺に立って、こっちを見てるんだ。これは僕に対する明確なストーキング行為だ! 今すぐ行って、あの婆さんに『向かいの住人に念を送るのをやめろ』って警告してこい!」
「それはできかねます」 麻耶は即答した。 「事実関係が確認できない、かつ科学的根拠のない内容で、他のご入居者様に厳重注意を行うことは、逆に私どもがそのご入居者様に対する名誉毀損、あるいはハラスメントを行うことになってしまいます。大塚様のご要望にお応えすることはできません」
「できない!? できないじゃ困るんだよ!」 大塚は立ち上がり、応接室の机を両手で激しく叩いた。ガタガタと音が響き、ガラスの向こうで高橋たちがビクッと肩を震わせるのが見えた。
「じゃあどうするんだよ! 僕は家賃を毎月八万五千円も払ってるんだ! 快適な部屋を提供する義務がそっちにはあるだろ! 婆さんを注意できないなら、僕の部屋の家賃を半額にしろ! 精神的慰謝料として、毎月四万円引くのが妥当だ。それなら、念を送られても我慢してやる!」
(……出たわね)
麻耶は心の中で、冷ややかに呟いた。 結局のところ、この手の奇妙なクレームの終着駅は、大抵「金」か「理不尽な特権の要求」だ。本当に念で体調を崩しているなら、家賃が半額になったところで解決しないはずである。金を要求してきた時点で、大塚の「異常な被害者」としての化けの皮が剥がれた。
「家賃の減額につきましても、一切応じることはできません。本件はお部屋の設備や契約内容に起因する瑕疵ではございませんので、減額の正当な理由にはあたりません」
「なんだとコラァ! 課長のくせに融通が利かないな! 上のもん出せ、社長を呼べ!」
大塚の怒号が応接室に響き渡る。四十三歳、修羅場をくぐってきた麻耶の心は、これしきのことで揺らぐことはない。彼女は静かに立ち上がり、大塚の目線に自分の視線を合わせた。その冷徹なまでの美貌と、有無を言わせぬ圧迫感が、大塚の怒声をピタリと止める。
「大塚様。当店には他のお客様もいらっしゃいます。これ以上、大声を出されたり、机を叩くなどの威嚇行為を続けられる場合は、弊社の業務妨害とみなし、警察に通報させていただきます。また、家賃の不当な減額要求や、他の入居者様への根拠のない退去要求をこれ以上執拗に繰り返される場合、弊社顧問弁護士を通じて、大塚様との賃貸借契約の解除、ならびに退去手続きを進めさせていただくことも視野に入れますが、よろしいですか?」
麻耶の声は低く、そして信じられないほどクリアだった。脅しではない。本気でやる、という強い意志がその眼光に宿っていた。
大塚は言葉を詰まらせた。「け、警察だと……? 脅すのか、客を!」
「脅しではございません。正当な業務防衛です。お話が平行線である以上、これ以上ここで大塚様のお相手をすることはできません。お引き取りください」
麻耶は一歩も引かず、応接室のドアを開けて手で外を示した。
大塚は悔しそうに歯噛みし、クリアファイルを何度も机に叩きつけるような仕草をしながら、捨て台詞を吐いた。
「覚えてろよ! ネットに全部書き込んでやるからな! 最悪の不動産屋だって! 婆さんの念のことも全部晒してやる!」
「どうぞ、ご自由に。ただし、事実無根の書き込みによって弊社の社会的信用が傷ついた場合、および佐藤様個人の名誉が毀損された場合は、即座に法的措置を取らせていただきます」
麻耶の徹底抗戦の構えに、大塚はついに恐れをなしたのか、吐き捨てるように「チッ」と舌打ちをすると、足早に店を出て行った。自動ドアが閉まり、店内に静寂が戻る。
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<奇妙な真相>
「進藤課長……お疲れ様でした。すごかったです……」 高橋が、冷や汗を拭いながらお茶の片付けにやってきた。
麻耶は自分のデスクに戻り、深く椅子に背を預けた。どっと疲労が押し寄せてくる。時計を見ると、すでに三時半。あの理不尽な問答に一時間半も費やしてしまった。
「ネットに書くって言ってましたけど、大丈夫ですかね?」高橋が心配そうに尋ねる。 「放っておきなさい。あの手の人種は、自分が不利になるような証拠(今回の件で言えば『念』という荒唐無稽な主張)を公にする度胸はないわ。万が一書き込んだら、プロバイダ責任制限法に基づいて発信者情報開示請求を行うだけよ」
麻耶はキーボードを叩き、顧客管理システムに「大塚:クレーマー、要注意。不当な家賃減額要求、他住人への理不尽な退去要求あり。警察対応の可能性示唆」と詳細に履歴を残した。
しかし、事務処理を終えても、麻耶の胸には小さな引っかかりが残っていた。 大塚の言っていた「毎日五時、窓辺に立ってこっちを見ている」という部分だ。 いくら妄想や嫌がらせだとしても、全くのゼロからあそこまで具体的な時間と行動を捏造するだろうか。もしかしたら、佐藤さんの側に、大塚が「念を送っている」と勘違いするような「何か」の行動があるのではないか。
(佐藤さんに実害が及ぶ前に、一応、確認だけはしておいた方が良さそうね……)
午後四時半。麻耶はジャケットを羽織り、店を出た。「ちょっと現地の確認に行ってくるわ」と高橋に告げ、駅前の通りを歩き出す。
向かったのは、大塚が入居している『グランディール駅前』ではなく、その向かいにある『メゾン・ド・フルール』だ。
エレベーターで4階に上がり、401号室のインターホンを押す。 しばらくして、「はーい」というのんびりとした声とともに、ドアが開いた。白髪を綺麗にお団子に結った、小柄な佐藤さんが顔を出した。
「あら、幸栄不動産の進藤さん。どうされたの、わざわざ?」
「佐藤様、ご無沙汰しております。お近くまで参りましたので、お部屋の調子などいかがかと伺いまして」 麻耶は営業スマイルを浮かべ、世間話を装う。
「まあ、親切ねえ。うちは何ともないわよ。エアコンもよく効くし、快適そのもの」
「それは良かったです。……あ、そうだ、佐藤様。お部屋から向かいの『グランディール駅前』がよく見えると思うのですが、最近、あちらの通りや建物に関して、何か気になることなどございませんか?」
麻耶はさりげなく本題に近づける。佐藤さんは「気になること?」と首を傾げ、それから「ああ!」と手を打った。
「そういえばね、進藤さん。ちょうど良いところに来てくれたわ。私、ちょっとお向かいのマンションの方に、悪いことをしちゃってるかもしれないの」
麻耶の背筋がわずかに緊張した。 「悪いこと、ですか? とおっしゃいますと……」
「ほら、うちって西日が強いじゃない? だから、夕方になると部屋の中がすごく暑くなるのよ。それでね、毎日五時になると、テレビの決まった番組が始まるから、それを観るために窓際の特等席に椅子を移動させるの」
「はい……」
「その時にね、お向かいのマンションの3階の部屋……あそこ、最近どなたか引っ越してこられたでしょ? カーテンが開いてる時があって、ちょうど私の部屋の窓から、あちらの部屋の奥が少し見えちゃうのよ」
佐藤さんは申し訳なさそうに身を縮めた。
「私、目が悪くてねえ。緑内障を患ってから、遠くのものがぼやけてよく見えないの。だから、あの部屋に飾ってある絵かしら? 何か綺麗な四角いものが見えるから、夕方の五時に窓辺に立った時、目を細めて『あれは何かしらねえ』って、じっと見ちゃうのよ。おまけに最近、物忘れが激しいから、『お財布どこに置いたかしら』とか『今日の晩御飯は何にしようかしら』って、窓辺でブツブツ独り言を言うのが癖になっちゃって……」
麻耶は、心の中で全てのパズルのピースがカチリと噛み合う音を聞いた。
佐藤さんは、毎日夕方五時に、西日を避けるために窓辺に立ち、老眼と緑内障のために目を細めて(大塚から見れば睨みつけているように見える)、お向かいの部屋の何かを「じっと見て」、独り言(大塚から見れば呪文を唱えているように見える)を言っていたのだ。
そして大塚は、その姿を偶然見かけ、持ち前の被害妄想と傲慢さから「自分に念を送っている!」と解釈し、体調不良(ただの自律神経の乱れか、あるいは思い込み)をそのせいにした。
「……なるほど、そういうことだったんですね」 麻耶は思わず、ふっと緊張を緩めて微笑んだ。映画のワンシーンのような、底知れない魅力のある笑みだった。
「あら、何かおかしいこと言ったかしら?」 「いえ、とんでもありません。佐藤様、その『お向かいの部屋に見える四角い綺麗なもの』ですが、おそらく新しく入居された方の家具か何かですね。ただ、お向かいの方も、じっと見られていると感じると、少し気恥ずかしく思われてしまうかもしれませんので……できれば、五時に窓辺に立たれる際は、レースのカーテンを閉めたままにしていただけると、お互いに気持ちよく過ごせるかと思います」
「あら、そうよねえ! 覗き見してるみたいで失礼だったわね。気がつかなくてごめんなさい。今日からそうするわ。教えてくれてありがとう、進藤さん」
佐藤さんは、疑うこともなく素直に頷いてくれた。
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<課長の流儀>
店に戻る道すがら、麻耶は駅前の雑踏を歩きながら、小さく息を吐き出した。
クレーマーの心理というのは、実に奇妙で、そして浅ましい。 大塚は、自分を「特別な被害者」に仕立て上げることで、日々のストレスのハケ口を探し、あわよくば家賃を値切ろうとした。そのターゲットにされたのが、たまたま目が悪くて窓辺で独り言をつぶやいていた佐藤さんだったというわけだ。
もし、麻耶が経験の浅い管理会社社員のように、大塚の剣幕に怯えて佐藤さんに「苦情が来ているのでやめてください」などと直接的に注意していたら、どうなっていただろう。佐藤さんは傷つき、何が悪いのかも分からず、平穏な老後を脅かされたに違いない。逆に、大塚の要求を突っぱねるだけで、現地の確認をしなかったら、大塚の被害妄想はエスカレートし、本当に佐藤さんに直接文句を言いに行くような大トラブルに発展していたかもしれない。
(理不尽なクレームを処理するっていうのは、ただ相手を論破することじゃない。その裏にある『事実』を冷徹に見極めて、関係のない無辜の人間を守ることよ)
それが、幸栄不動産賃貸課長、進藤麻耶の矜持だった。
店に戻ると、自動ドアが開く。 「あ、進藤課長、おかえりなさい!」高橋が出迎えた。「何か分かりましたか?」
麻耶はジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけ、デスクに座った。 「ええ。ただの『西日と老眼』のファンタジーだったわ」
「は? ファンタジー?」 首を傾げる高橋に、麻耶は「気にする必要はないわ」とだけ言って、次の業務の書類を手に取った。
「それより高橋、例の502号室の退去立ち会いのスケジュール、どうなってる?確認を取って。 」
「ひゃい! すぐ確認します!」 高橋は慌てて自分のデスクに戻り、電話をかけ始めた。
麻耶は手元のペンを回しながら、窓の外の駅前広場を見つめた。 時計の針は、間もなく午後五時を指そうとしている。今頃、メゾン・ド・フルールの401号室では、佐藤さんがレースのカーテンを閉め、テレビを点けているはずだ。そして、グランディール駅前の302号室では、大塚が「あれ? 今日は念が来ないな……家賃交渉の脅しが効いたか?」などと、独りよがりの勝利に浸っていることだろう。
それでいい。世界が平穏に回るなら、悪役(あるいは冷徹な鬼課長)の役回りは、いくらでも引き受けてやる。
麻耶は、鋭くも美しい瞳をパソコンの画面に戻し、新たな契約書のチェックへと没頭していった。駅前の不動産屋の日常は、今日もまた、こうして大忙しのまま暮れていく。
さて、進藤麻耶の賃貸不動産奮戦記もそろそろ一息つく頃合いになってきました。
次話までは書き上げていますが、そろそろ麻耶のもう一つの姿であるRagdollでの活躍の第二弾も執筆しようかと思っています。
誤字、脱字、用語の誤りなどありましたらご指摘下さい。
またよろしければ感想なども宜しくお願い致します。




