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事件発生

単純なクレーム処理のはずが大ごとな事件へとなる。

麻耶はどんな対応するのか。

第十六話(事件発生)

<五月の荒らしは突如として>

五月二十五日、月曜日。 ゴールデンウィークの連休が明け、新緑が眩しい季節になったというのに、幸栄不動産の店内には爽やかな風など一吹きもしていなかった。

「進藤課長、また202号室の室田さんから電話です!『上がうるさくて眠れない、今すぐなんとかしろ』って、もう今朝から三回目ですよ……」

新人の男性社員が、受話器を手に半泣きで訴えかけてくる。

「わかった、私が代わるわ」

進藤麻耶しんどう まや、四十三歳。彼女は小さくため息をつき、乱れたショートカットの髪をかき上げながら受話器を受け取った。

「お電話代わりました、幸栄不動産の進藤です、室田様――」

かつて麻耶が籍を置いていたのは、女性スタッフばかりで構成された華やかな大手フランチャイズ店だった。しかし今年の一月、経営母体が変わり、店舗は別の地場大手に買収された。かつての仲間たちは次々と去り、残ったのは生え抜きの麻耶だけ。ガラリと入れ替わった頼りない新人や、他部署から回されてきたやる気のない男性社員たちを率いる「賃貸課長」の椅子が、いまの彼女の戦場だった。

例年なら、春の引っ越しシーズンが過ぎた五月後半は、不動産業界にとって「閑散期」と呼ばれる落ち着いた時期になるはずだった。しかし、今年はどういうわけか異常だった。入退去の波が引きも切らず、それに比例するように設備故障の連絡や近隣クレーム、入居者間のトラブルが次々と麻耶の元へ舞い込んでくる。

「……ええ、ええ。ですが室田様、上階の302号室の方は、昨夜は夜勤でご不在だったと確認が取れております。お耳に触る音というのは、本当に上からのものですか?」

『うるさいって言ったらうるさいんだよ! 俺を嘘つき呼ばわりする気か! 今すぐここに来て、この音を確かめろ! 来ないなら、上の部屋に包丁持って怒鳴り込んでやるからな!』

ガチャン、と激しい音を立てて電話が切れた。 麻耶は受話器を置き、眉間を揉んだ。室田(三十五歳・無職)。半年前に入居してきた男だが、当初から「壁から電波が聞こえる」「隣人が俺を監視している」といった、いわゆる『近隣トラブル』の被害を執拗に訴えてくる要注意人物だった。これまではなだめすかして対応してきたが、今日の興奮状態は明らかに常軌を逸している。本当に上の部屋や他の入居者に刃物を向けられては堪らない。

「ちょっと『コーポ松葉』の202号室に行ってくるわ。留守番よろしくね」

「えっ、課長、一人で大丈夫ですか? 警察呼んだ方が……」

「ただのクレーマーの対応よ。警察を呼んだら余計に拗れるわ。行ってきます」

麻耶は事務ジャケットを羽織り、車のキーを掴んで店を飛び出した。 この時の麻耶はまだ知らなかった。自分のその判断が、本日最大の修羅場を引き寄せることになるのだということを。

そしてもう一つ。彼女には会社に隠している「秘密の趣味」があった。 毎月二回、週末になると千葉や神奈川の山奥、あるいはインドアの特設フィールドに出没し、総重量十キロを超えるミリタリー装備に身を包んで銃撃戦を行う――年季の入った「サバイバルゲーマー」であるという事実を。特に彼女が好むのは、狭い室内での戦闘を想定した「CQB(近接戦闘)」だった。

日常のストレスを弾道に込めてぶっ放す。その趣味で培った技術が、まさか本物の戦場で役に立つ日が来ようとは、夢にも思っていなかった。

<戦場と化した202号室>

郊外の住宅街に佇む木造二階建てのアパート「コーポ松葉」。 麻耶が202号室のインターホンを押すと、ドアは鍵もかかっておらず、吸い込まれるようにスッと開いた。

「室田様? 幸栄不動産の進藤ですが……」

一歩、室内に足を踏み入れた瞬間、異様な臭気が鼻を突いた。ゴミが散乱した凄惨な部屋。その奥から、血走った目をした室田が飛び出してきた。

「遅いんだよ、ババア!」

「きゃっ……!」

胸ぐらを掴まれ、強引に室内に引きずり込まれる。背後でバタンとドアが閉まり、ドアチェーンがかけられる金属音が響いた。

「室田様、落ち着いてください。お話を聞きに――」

「うるさい! 静かにしろ!」

室田の手には、鈍く光る刃渡り二十センチほどのサバイバルナイフが握られていた。本物だ。おもちゃではない。ナイフの切先が、麻耶の喉元に突きつけられる。

「俺をバカにしやがって。不動産屋も、警察も、上の階の奴らも、全員で俺を監視して嫌がらせをしてるんだろ? 認めろ!」

(あ、これ、完全に拗らせて、あっちの世界に行っちゃってるタイプだわ……)

冷や汗が背中を伝う。だが、サバゲの最前線で何度も「裏取り」され、至近距離からハチの巣にされてきた麻耶の心臓は、見た目以上にタフだった。パニックに陥る脳を、持ち前の冷静さが急速に支配していく。

麻耶は両手をゆっくりと挙げ、相手を刺激しないよう、かつ明瞭な声で言った。

「分かりました、室田様。私はあなたの味方です。だから、そのナイフを少し遠ざけていただけますか? 落ち着いて、何があったのか教えてください」

「嘘を言うな! お前を人質にして、テレビのニュースを呼ぶんだ。俺の潔白を証明してやる!」

室田は麻耶を部屋の隅に突き飛ばした。 床に手をついた麻耶は、散乱するゴミの中に、見覚えのある物体が転がっているのを目撃した。

(……え? これって、次世代電動ガン? それに、実物のタクティカルベスト……?)

驚いたことに、部屋の壁には数丁のアサルトライフル(エアガン)が整然とディスプレイされており、棚には大量のBB弾とガス缶、そしてサバイバルゲーム用の防弾プレートキャリア(ベスト)やヘルメットが並んでいた。室田の趣味は、皮肉にも麻耶と同じ「サバゲ」だったのだ。しかも、かなり重度なミリタリーマニアのようだった。

「動くなよ! 動いたら刺すからな!」

室田は窓際に駆け寄り、カーテンの隙間から外を覗かがう。 すでに、近隣住民からの通報か、あるいは麻耶が戻らないことを不審に思った会社からの連絡か、アパートの周囲にはパトカーのサイレンが鳴り響き始めていた。

「警察だ! 警察が来やがった! クソッ、俺を殺しに来たんだ!」

錯乱した室田は、壁から電動ガン(M4カービン)を引っ掴み、マガジンを叩き込んだ。

「室田様、それはエアガンです! 警察には通用しません!」

「うるさい! これはカスタムしてあるんだ! 威嚇くらいにはなる!」

室田は窓を開け、眼下の警察官に向けて電動ガンを連射した。 パパパパパパン! と、激しい破裂音が響く。いくらプラスチックの弾とはいえ、直撃すれば怪我をするし、遠目には本物の銃に見える。

外の警察官たちが「撃ってきたぞ!」「退避しろ!」と叫び、現場は一気に緊迫した。 事態は、単なる「立てこもり事件」から、「銃器(の疑い)を持った凶悪犯による人質立てこもり事件」へとエスカレートしてしまった。

<特殊部隊SITの投入>

事件発生から二時間が経過した。 部屋の中は、室田が暴れたせいでさらに足の踏み場もなくなっている。室田は麻耶を部屋の奥のクローゼットの前に座らせ、自身は防弾ベストを着用し、サバイバルナイフを片手に、時折窓外へエアガンを乱射していた。

麻耶は拘束されてはいなかったが、ナイフを持った男の至近距離から逃げ出すことは不可能だった。 しかし、彼女の目は死んでいなかった。じっと室内の構造と、室田の動きを観察していた。

(この部屋は6畳一間。入り口のドアからこの位置までは一直線。遮蔽物バリケードになるのは、あの倒れたタンスと、液晶テレビだけ……。もし突入があるとすれば――)

その時、アパートの廊下から、微かな、しかし統制された足音が聞こえた。 衣服が擦れる音。ブーツが床を踏みしめる音。

(来たわね……。ただの警察じゃない。この足殺しの歩き方は……本物だ)

投入されたのは、警視庁刑事部捜査一課特殊班――通称「SIT」だった。 誘拐や立てこもりなどの人質救出作戦を専門とするプロフェッショナルたちだ。

突如、ベランダの窓ガラスが凄まじい音を立てて叩き割られた。 「警察だ! 動くな!」

同時に、廊下側の玄関ドアがドアブリーチング用の工具によって吹き飛ばされる。 「フラッシュバン(特殊閃光音響弾)投下!」

直後、室内に太陽が出現したかのような強烈な光と、鼓膜を引き裂くほどの爆音「ドンッ!!!」が炸裂した。

普通の大人がこれを受ければ、数秒間は視覚と聴覚を奪われ、完全に無力化する。 しかし、室田は奇跡的(あるいは狂気的)に、フラッシュバンが投げ込まれた瞬間に布団の中に顔をうずめて直撃を避けていた。

「うおおおおお!」

室田は狂ったように叫びながら、突入してきたSITの隊員たちに向けて、手当たり次第に物を投げ、手にしたM4(電動ガン)をフルオートでぶっ放した。 至近距離から顔面にBB弾の豪雨を浴びせられた先頭のSIT隊員が、一瞬怯む。

「撃て! 撃ち殺してやる!」 室田はナイフを逆手に持ち替え、怯んだ隊員へ向かって突進しようとした。

SIT隊員たちも、犯人が持っているのが本物の銃かエアガンか、薄暗さと混乱の中では判別がつかない。隊員の放った警告射撃(ゴム弾)が室内を飛び交う。激しい「撃ち合い」の様相を呈し、部屋の中は文字通りの戦場、地獄絵図と化した。

「危ないっ!!」

麻耶の視界が、スローモーションになる。 突入したSIT隊員の一人が、室内に散乱していたゴミ(室田がぶちまけたBB弾のボトル)に足を滑らせ、体勢を崩した。 その隙を突いて、室田がナイフを振り下ろそうと、隊員の死角へ回り込もうとしている。

SITは完璧な連携で動いているが、この狭くゴミに満ちた「クソ物件」の室内構造までは把握しきれていない。 だが、麻耶は違った。この部屋の管理者であり、間取りを熟知し、さらに毎週のように狭所での近接戦闘(CQB)を繰り返してきた彼女には、室田の『次の動き(ルート)』が完全に予測できた。

<課長のCQB(近接戦闘)>

(そこは、私のエリアよ――!)

麻耶の身体が、思考より先に動いた。 四十代の衰えを忘れさせるほどの鋭い踏み込み。彼女は床に転がっていた、重さ3キロはある室田の「ガスリボルバー(金属製カスタム銃)」を瞬時に拾い上げた。

銃口を室田に向けるのではない。それでは警察に誤射される。 麻耶は銃のバレル(銃身)を掴み、それを「鈍器」として扱った。

近接戦闘における基本――相手の武器を無力化し、かつ射線を外す。 室田がSIT隊員にナイフを突き立てようとしたその瞬間、麻耶は室田の右斜め後方、まさに「クリアリングの死角」から突入した。

「室田さん! 契約違反よ!!」

裂帛の気合とともに、麻耶は手にした重いリボルバーのグリップ(柄)を、室田の右の手首に向けて正確に叩きつけた。 カーン! と硬い音が響き、室田の手からサバイバルナイフが弾け飛ぶ。

「なっ……!?」

室田が驚愕して麻耶を振り返る。その瞬間、麻耶のサバゲ仕込みのCQB技術が炸裂した。 相手の懐に飛び込み、左手で室田の襟元を掴んで引き下げながら、自身の右膝を相手の腹部へと突き上げる――強烈なニーキック。

「ぐふっ……!」

室田の身体が折れ曲がる。すかさず麻耶は、彼の防弾ベストの肩ストラップを掴み、柔道の要領ではなく、ミリタリー的な「キャリーハンドル(負傷者搬送用取っ手)」の応用で、室田の巨体を床へと引きずり倒した。

「今よ! 確保して!」

麻耶の叫び声と同時に、体勢を立て直したSIT隊員たちが一斉に室田の上に覆いかぶさった。

「警察だ! 制圧! 制圧!」 「犯人確保! 人質無事!」

ガシャリと手錠がかけられる音が響き、室田の怒号は悲鳴へと変わった。 激しい撃ち合いと攻防の末、静寂が部屋を支配する。窓から差し込む五月の強い日差しが、硝煙とホコリに満ちた室内を照らし出していた。

<戦い終わって、日が暮れて>

「……大丈夫ですか、お怪我はありませんか!?」

防弾ヘルメットを被ったSITの隊長らしき男が、麻耶に駆け寄り、その肩を抱いた。 麻耶はハァハァと荒い息を吐きながら、手にしたエアガンを床に置き、乱れた髪を直した。

「ええ……なんとか。それより、うちの管理物件のガラスとドアがめちゃくちゃだわ……。これ、保険下りるかしら……」

不謹慎にもそんな心配をする麻耶を、SITの隊員たちは呆然とした目で見つめていた。 先ほど、プロの特殊部隊のピンチを救ったのは、間違いなくこの、事務ジャケットを着た中年女性の、鮮やかすぎる格闘技術(CQB)だったからだ。

「失礼ですが、お姉さん……あなた、一体何者ですか? あの状況で、犯人のナイフを落としてテイクダウンするなんて、普通の民間人にできる芸当じゃありません」

隊長が真剣な顔で尋ねる。 麻耶は、少し気恥ずかしそうに笑い、ポケットから「幸栄不動産 賃貸課長 進藤麻耶」と書かれた名刺を取り出して手渡した。

「ただの不動産屋ですよ。毎日、理不尽なクレームと戦ってますから。……あ、それと、週末はちょっと、サバゲ少々」

ウインクしてみせる麻耶に、SIT隊員たちは一斉にずっこけそうになった。

アパートの外に出ると、野次馬と報道陣、そして幸栄不動産の社長や新人社員たちが心配そうな顔で待っていた。麻耶の姿を見るなり、新人は泣きながら駆け寄ってきた。

「課長ー! よかった、ご無事で! 本当に死ぬかと思いましたよ!」

「大げさね。ちょっと部屋の『修繕交渉』が拗れただけよ」

麻耶は涼しい顔で言い放ち、パトカーの後ろに乗せられていく室田を一瞥した。 彼の退去手続き(強制解除)と、この部屋の大規模リフォームの手配。そして近隣住民への謝罪回りと大家への説明。

(……あーあ、五月の後半だっていうのに、明日からまた、気が遠くなるほどの仕事山積みね)

しかし、麻耶の心は不思議と晴れやかだった。 会社の体制が変わり、一人で踏ん張ってきたこの数ヶ月。孤独な戦いだと思っていたが、どんな経験も、たとえそれが週末の趣味であっても、無駄なことなど一つもないと証明できたのだから。

「さあ、帰るわよ。明日のゴミ出しの日までに、近隣への挨拶文を作らなきゃいけないんだから」

四十三歳、趣味はサバゲ。 幸栄不動産の頼れる賃貸課長・進藤麻耶の「奮戦記」は、この五月の嵐を乗り越え、これから迎える夏の繁忙期に向けて、まだまだ続いていくのである。


だいぶ思ったより長く本話を書いてきました。

そろそろ本来の作品であるRagdoll達の活躍を執筆しないといけないかと思うこの頃。


誤字、脱字などお気づきの点ありましたらコメントをお願い致します。

また、感想などもよろしくお願い致します。

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